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2012年12月 4日 (火)

仏智不思議を疑う親玉の高森会長

下品下生の往生が理解できれば、悪人正機も「極重悪人唯称仏」も「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」も「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」も「一向専念無量寿仏」も素直に理解できる筈です。
しかし、罪福の因果を強調し、仏智不思議を疑っている高森会長のような、浄土真宗の教えのイロハも知らない者は、

下品下生の往生と言っても、今生では無善造悪であっても、過去世には多くの善をしてきた人に決まっている

と考えるのです。
これが宿善(過去世の善根)の最初の発想であり、天台大師智顗の著と伝えられている『浄土十疑論』には、

能臨終遇善知識 十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って、十回の念仏で往生を遂げた者は皆、宿善業(過去世の善業)が強い者であったから、初めて善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げることができたのだ、ということです。逆に、宿善業(過去世の善業)が弱い者は、善知識に遇うこともできず、往生も遂げられない、ということです。聖道門で教える罪福の因果に従えば、このように無理な解釈をせざるを得ないでしょう。

それに対して善導大師が、下品下生を含む下輩について『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と定義なされて、下品下生の者は、過去世において「仏法・世俗の二種の善根」は全くなかった者だ、と断定なされているのです。
『観無量寿経』下品下生を素直に読めば、善導大師の仰る通りとなります。

とはいうものの、往生するには過去世の善根が関係していない筈がない、という迷信に囚われる人がいますから、そんな人に対して、覚如上人が親鸞聖人のお言葉として『口伝鈔』において、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と書かれ、更に覚如上人御自身のお言葉として

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と補足なされています。もちろん、ここでいう「宿善」とは過去世の善根のことであり、「宿悪」とは、過去世の悪根です。下品下生の者は、「宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」に当たり、過去世において善をせず悪しかしてこなかったから、今生でも無善造悪であり、善導大師の仰せと一致します。そんな者でも往生できるのは、善悪は「得ともならず失ともならざる条」であり、「ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて」だからです。

ここまでくれば、善悪無関係に救う阿弥陀仏の18願を否定する者が、宿善論を取り上げることが御理解いただけたと思います。

下品下生の往生を理解すれば、宿善論と同様、三願転入論も観念の遊戯となります。

過去世において聖道門の修行をしてきた方ももちろん多くあると思います。親鸞聖人は『正像末和讃』

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり

と仰っている通りですが、しかし一方では、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の者もいるのです。そんな、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の者でも救いたもうのが、18願です。これを仏智不思議と言われるのです。

源信僧都は『往生要集』で、

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 (中略)

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。(中略)

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

と仰っています。まさに、仏智不思議です。この仏智不思議を疑っている親玉が高森会長です。

高森会長には"馬の耳に念仏"でしょうが、親鸞聖人は親鸞会の会員の為に『正像末和讃』

仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

と教えておられます。宿善だの、三願転入だの、善の勧めだとか言って仏智不思議を疑うことを止めない限りは、仏智の不思議をたのむことはできません。

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