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2012年12月

2012年12月31日 (月)

mixiにおける三願転入の法論の最終結末

前回、mixi上での三願転入の法論の概要について書きました。実質的にはあれで終了だったのですが、法論での負けは親鸞会にとってはあってはならないことですから、こうへい氏(高森会長)が起死回生を狙った詭弁を考え出します。

> 浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、
> 覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、
> 蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
> ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、
> 【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

今では簡単に論破できる詭弁ですが、当時としては親鸞会は会心の反撃をして得意満面であったと思われます。
しかし、結果は親鸞会が嵌められただけでした。予想された展開だったからです。
この詭弁を破る根拠は「他の方便なし」です。

『教行信証』行巻に引かれた『往生要集』に

『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉

とありますし、また『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と19願・20願の方便は不要と、直接的な表現で仰っています。
この意味を説明するまでもなく、これで完全に終わりました。

ところが、親鸞会はあの三願転入の法論惨敗から、何も学んでいないことが判ります。
完全に論破された主張を今でもそのまま言い続けているのですから。

一応簡単に「他の方便なし」の意味を説明しておきますと、

『観無量寿経』の下品下生には、善という方便は最初から最後まで説かれることなく、十回の念仏を称えて往生を遂げる

と説かれているということです。

こうへい氏(高森会長)の言葉を借りれば、

未信の人が、18願だけで導かれるということです

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2012年12月28日 (金)

mixiにおける三願転入の法論概要

今から3年近く前に、mixi上に三願転入のトピックが立てられ、そこで激しい議論(実際は親鸞会の一方的な防戦と話題逸らし)がなされまして、最終的には親鸞会側の逃亡で終わり、更にはそのトッピックを削除して、三願転入の法論自体を無かったことにしようとしました。その内容を教えてほしいという御要望を何人かの方から頂きましたので、取り上げてみます。

大まかな流れについては、この議論に参加されていたある方がまとめられたコメントがありますので、それを紹介しておきます。

登場人物は以下です。
こうへい氏(講師部員で、途中から高森会長がコメントの原稿を書いています)
るぅでる氏(退会者)
sutybi氏(退会者)

これまでのるぅでるさんやsutybiさんと、こうへいさんとのやりとりを私なりにまとめてみました。
以下のように、こうへいさまが「どちらが正しいか」と仰っていることについては【はっきり結論が出ています。

まず、
1.19願の対機について

『平等覚経』17願(前半が『大経』17願、後半が18願)

我作佛時。令我名聞八方上下無數佛國。
諸佛各於弟子衆中。歎我功徳國土之善。
【諸天人民蠕動之類】聞我名字。皆悉踊躍。
來生我國。不爾者我不作佛。

『平等覚経』18願(『大経』19願)

我作佛時。【諸佛國人民有作菩薩道者】。
常念我淨潔心。壽終時我與不可計比丘衆。
飛行迎之共在前立。即還生我國作阿惟越。
不爾者我不作佛

『大阿弥陀経』4願(前半が『大経』17願、後半が18願)

使某作佛時。令我名字。皆聞八方
上下無央數佛國。皆令諸佛。各於比丘僧大
坐中。説我功徳國土之善。
【諸天人民。?飛蠕動之類】聞我名字。
莫不慈心歡喜踊躍者。皆令來生我國。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

『大阿弥陀経』7願(『大経』19願)

使某作佛時。令【八方上下。無央數佛國。
諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。】
奉行六波羅蜜經。若作沙門不毀經戒。
斷愛欲齋戒清淨。一心念欲生我國。
晝夜不斷絶。若其人壽欲終時。
我即與諸菩薩阿羅漢。共飛行迎之。
即來生我國。則作阿惟越致菩薩。智慧勇猛。
得是願乃作佛。不得是願終不作佛

このように、18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」とは、本来意味が異なっていることが、『大経』異訳本から判ります。18願の「十方衆生」は、「諸有衆生」のことであり、あらゆる生き物で、漏れているものはありませんが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を作す者となっており、対機が限定されていて、すべての衆生とはいえません。

このことを踏まえられてと思われますが、法然聖人は『選択本願念仏集』の中で、

釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。

と仰り、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と解説しておられます。それで、『真宗大辞典』(永田文昌堂)の「十方衆生」の項には。

 四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り、第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、その意は狭いとする。

とあります。

また梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』には

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であって、古今に例を見ないところである。
(中略)
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。
(中略)
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。

(中略)

 第十九願・第二十願は、自力の執着がふかく、罪(悪)福(善)の因果に則った廃悪修善の教えは信じても、善悪を超えた他力不思議の救いを受け容れることが出来ない未熟のものを育てるために施設された権仮方便の教えであるというのが親鸞聖人の領解であった。特に第十九願は、聖道門の機を浄土門に誘引するために諸行往生を誓われた方便の誓願であり、第二十願は、諸行往生の機を自力念仏の機に育て、さらに第十八願の他力念仏に入れしめるための方便願であるといわれている。

とあります。

このように19願の対機は、【菩薩道を行じられるいわゆる善人であることが明白】です。

次に、
2.【19願についての親鸞聖人はどのように見られたか】について、

上記の19願対機を踏まえられて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈で

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と仰っています。この解釈について梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』

 浄土門内の方便教を明かすについて、まず第十九願要門の意を明かし、次いで三経の陰顕を顕わし。最後に第二十願の意を釈されるが、その最初に方便教を説かねばならなかった仏意を明らかにされる。すなわち、釈尊の導きによって、真実に背いた外道を離れて聖道門に入ることができた者も、なおその自力修行の厳しさゆえに、真実をさとり得た者は極めて少なく、せっかく一度は外道を離れて仏道に入りながら、内心は外道から離れることができず、再び邪道に退転してしまう偽の仏弟子も甚だ多かった。そのような状況を憐れんで、釈尊は聖道門から浄土門へと導くために権仮方便の法門を説かねばならなかったというのである。
(中略)
 そこで釈尊は浄土の教門を開いて行かれる。まず最初に開顕されたのが福徳蔵といわれる定善、散善によって往生を願う諸行往生の法門であった。その経典が『無量寿仏観経』であった。『観経』の散善顕行縁には、世、戒、行の三福散善を指して、「三世諸仏の浄業正因なり」といわれているように、諸仏の成仏道であった。また定善は、真身観に「無量寿仏を見たてまつれば、すなわち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す」といわれているように、諸仏から成仏の授記を得るための「般舟三昧」の行であった。したがって定散諸善の行体は、聖道門の諸行と同じ此土入聖の行であった。そのような聖道門の行を浄土に往生するための行として転換する心がすでに述べたように「至心発願欲生」の三心であり、『観経』でいえば「至誠心、深心、回向発願心」の三心だったのである。こうして、聖道門の修行をそのまま往生の行に転換させ、浄土に生まれさせることによって、聖道門に行き詰まっている行者を浄土門へと誘引し救っていかれるのである。

とあり、また山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

として、【聖道門の人を浄土門に誘引し、すでに浄土門に入っている人と共に18願真実門に導かれる】とありまして、極めて素直な解釈です。

この要門釈は親鸞聖人独自の見解ではなく、法然聖人の教えを受け継がれています。

『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師が言われていたと弟子が記した『広疑瑞決集』に

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

とあります。経典、法然聖人、隆寛律師のお言葉から
親鸞聖人は19願を、聖道門の人を浄土門に誘引する願】と見做されていたのです。

19願の役割を先程の要門釈の後に、

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

とも仰っています。これを言い換えて仰ったのが、『一念多念証文』です。

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

なお、「浄土の方便の善」につきましては、『教行信証』化土巻・三経隠顕問答で

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

と仰っていますので、「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」です。
聖道門の人を「欣慕浄土の善根」により浄土門に誘引するのが要門19願であり、すでに浄土門に入っている人と共に、「本願一乗海」である18願に導き入れると仰っているのです。
ですからすでに浄土門に入っている人を「欣慕浄土の善根」により要門19願に導くという意味ではありません。

浄土門の人に対して親鸞聖人は、三願を真仮廃立で教えておられます。『教行信証』『三経往生文類』等にも教えられていますが、最も顕著なのが『正像末和讃』の誡疑讃です。誡疑讃は23首ありますが、19願について明確に仰ったは以下の1首のみです。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがえば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

あとは20願の誡めです。

19願を願うことを厳しく誡められているだけで、19願を勧められているところは1箇所もありません。

親鸞聖人は【19願を聖道門の人を誘引する願と仰り、浄土門の人には19願を勧められていませんので、すでに浄土門に入っている人が、19願を必ず通らなければ18願に入れないという「親鸞聖人の三願転入の教え」というものはありません

浄土門に入って、親鸞聖人の教えを信じている人は、覚如上人のお言葉で言えば「浄土教を信受する機」であり、蓮如上人のお言葉で言えば「宿善の機」ということです。
ですから、「浄土教を信受する機」「宿善の機」は、【18願1つを聞けばよいというのが善知識方の教えです】。19願に心を掛けていることは「みづからが身をよしとおもふこころ」となりますので、すぐに捨て去るべき心です。

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2012年12月25日 (火)

親鸞聖人が強調された「欣慕浄土の善根」を無視し続ける高森会長と親鸞会

親鸞会は、法論に連戦連勝(?)することで、教義の正当性を会の内外にアピールしてきました。今でも『歎異抄をひらく』の反論本が出ていないとか、お目出度いことを言っているのですが、実際に親鸞会を攻撃してきた相手に対しては、逃げの一手です。3年近く前になりますが、mixiでの三願転入の法論で、完膚なきまでに叩きのめされてからは、公式な法論は厳禁になりました。

何のことはありません、高森会長も親鸞会も、真宗教義には全くの無知であったのです。高森会長が学んだ教義は、味わい中心の大沼師の教学と創価学会の教義です。そんな無知の人物が、真宗教義を語ってきたのですから、お笑いです。

さて、前回少し述べた第三深信ですが、この善導大師の解釈について『教行信証』化土巻

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

とあります。19願、定散二善の実践に励んでも化土往生しかできないが、ではなぜそんな教えを説かれたのかと言えば、欣慕のためである、ということです。

同じことを『教行信証』化土巻・隠顕釈に、

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と教えられています。
19願、定散二善は、欣慕浄土の善根なのです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるためのものである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。
浄土を願っていない聖道門の人には、浄土を願わせる欣慕浄土善根必要です。浄土を願わない者が往生することはないからです。そのための19願、定散二善という方便だと親鸞聖人は繰り返し仰っているのです。

こんな簡単な話が理解できない、というよりも理解したくないのが高森会長と親鸞会の面々です。

では、方便の19願、定散二善のままで終わってしまったならばどうなるのか、について

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。

と仰っているのです。つまり、聖道門の人を浄土門に導くための方便である19願、定散二善ではあるけれども、そこに留まっていたならば化土往生にしかならないということです。

だから、報土往生の18願、他力念仏に帰しなさいと繰り返し教えられたのです。

それを、親鸞聖人が19願、定散二善を勧められていると大ウソをつきまくって大恥を晒したのが、mixiでの三願転入の法論でした。

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2012年12月20日 (木)

高森会長の知らない第三深信

親鸞聖人は他力の信心を「」で顕わされていることを述べましたが、この「」を三願転入の教えを聞くことだと高森会長は近年言い出しました。とんでもない邪義です。

この「」は18願成就文の「」のことです。『教行信証』信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

とあります。親鸞会の幹部会員ならば誰でも知っていると思いますが、18願成就文は、

諸有衆生 聞其名号
信心歓喜 乃至一念
至心回向 願生彼国
即得往生 住不退転
唯除五逆 誹謗正法

です。18願成就文に19願、20願のことは全くでてきません。
かつて高森会長は「聞其名号」について、

その名号とは、「其」のですから、その前の17願に誓われた名号のこと

と強調して説明していましたが、よもや忘れたとはいわせません。18願に誓われた念仏を解説されたものが17願、とも高森会長は説明してきた筈です。その名号を「」くのですから、19願とは無関係な話です。

18願成就文については『一念多念証文』にも解説があります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

親鸞聖人が「本願」と仰るのは、18願のことです。「本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり」と仰り、名号のいわれを如実に聞く、そのまま受け入れることが信心なのです。従って、「本願の嘉号をもって己が善根とする」20願の「聞我名号」とも異なります。

仏願の生起を聞く」とは、機のことです。「仏願の本末を聞く」とは、法のことです。

真実信心を説明する上では、基本中の基本です。19願、20願を聞くことが「仏願の生起本末を聞きて」だというのは、根拠が無いどころか、親鸞聖人の教えを根底から覆すほどの邪義です。

しかし、釈尊は善の勧めばかりを説かれ、阿弥陀仏が19願を建てておられるので、それも聞かなければ片落ちではないか、という気が利いて間の抜けた反論を高森会長は内輪だけにするでしょうから、真実信心について教えて差し上げましょう。

真実信心は深信です。『愚禿鈔』

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

とある通りです。その内容を

文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

と教えておられます。七深信は、善導大師の『散善義』にありますが、その第三深信が、

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

です。
定散二善、そして19願は浄土を「欣慕」せしめるためのもの、つまりは、浄土を「欣慕」していない聖道門の人を浄土門に入らしめるための権仮方便と深く知らされるのが真実信心なのです。

従ってすでに浄土を「欣慕」している人、浄土門を信じている人にとっては、不要なものということです。

結論をいえば、19願を18願に入るためには絶対に必要なもの聞く」ことは、聴聞になりませんし、19願を18願に入るためには絶対に必要なもの疑心あることなし」と「聞く」ことは間違った信心ということです。

高森会長は第三深信については知らなくても、本願成就文の「」と19願とは関係のないことは知っているのです。しかし、金集めのためにはどうしても19願の善の勧めが必要なのです。会員を18願に入れさせるためではありません。私利私欲を満たすためです。

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2012年12月16日 (日)

顕真「ひと口問答」終了?のお知らせ

私が親鸞会に提示してきました10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

について、親鸞会は私の方には直接反論せず、会内で"想定"の法論として、顕真に毎回「ひと口問答」なるものを掲載してきました。

まだ6番目までしか"反論"がありませんでしたが、今月号の顕真には「ひと口問答」はありませんでした。もしかしたら休載なのかもしれませんが、終了の可能性が高いでしょう。

これまでの"想定"法論の詳細は

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

にあります。
私から言わせれば、よく続けてこれたものだと思います。親鸞会でも聞いたことのない珍しき根拠や解釈もあったり、意味をまるっきり反対に間違えていたり、聖教上の根拠さえだせなかったり、と酷いものでしたので、早めに止めるのが正解だろうと常々思っていました。私が親鸞会の立場なら、徹底して無視を決め込むでしょうが、曲がりなりにも反論してきたということは、意外と自信のある反論だったのかもしれません。

いずれにしましても、上記10項目を含めて、親鸞聖人の仰せと真逆のことを言いふらしているのが高森会長であると、多くの人に知らしめる縁となりまして、これがきっかけで退会した人も何人もあり、喜ばしいことです。

願わくば、違う形でもよいので、高森会長か親鸞会の上層部とまた法論をしたいものです。

今年3月18日に、法論申し込みの書面を弘宣局長宛てに書留と以下のメールも送っておきましたが、返事もなくはや9ヶ月です。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。

                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

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高森会長知ったかぶりの「聞」

前回、「」について少し述べました。親鸞聖人は「」を他力の信心という意味で使われています。

『教行信証』信巻

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『尊号真像銘文』

「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり

『一念多念証文』

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

『唯信鈔文意』

「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。

親鸞聖人は、自力念仏と他力念仏との峻別に力を注がれ、念仏という行よりも念仏の信心を問題にされているのです。もちろんそこには、念仏1つという大前提があってのことです。
高森会長は、信心正因称名報恩を誤解して、念仏と信心とが別の要素のように説明していますが、念仏1つという信心に自力と他力があるのですから、念仏抜きに信心を語ることはできません。
念仏1つという信心に自力と他力があり、親鸞聖人は「」をもって他力を顕わされたのです。

ところが高森会長は、念仏1つどころか善を勧めて、その理由として「」と善とを組み合わせて「聞法善」とか言っているのですから滑稽です。

存覚上人は『浄土見聞集』で、

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

と言われていますが、聴聞という自力の積み重ねで他力になるのではありません。「他力よりきき」であり、「自力のはからひちりばかりもよりつかざる」なのです。

何から何までずれているのが高森会長です。

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2012年12月13日 (木)

高森会長の知らない本物の他力の信心

高森会長が専売特許としている信心ですが、その信心の説明としてよく利用されるのが二種深信です。二種深信を、

「地獄行き間違いなし」と「極楽参り間違いなし」と絶対に矛盾することがはっきり知らされる

という摩訶不思議なものとして、それを絶対の幸福と称しています。高森会長の話を聞かなければ、この信心は頂けない、と会員を騙し続けていますが、高森会長の話を八万劫年聞き続けても、絶対にそんな信心は頂けません。第一、高森会長自身がその信心を体得していません。

無教学の高森会長と親鸞会は、二種深信といえば、『散善義』にあるお言葉しか知らないのですが、善導大師は『往生礼讃』でも、教えておられます。

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。
自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。
ゆゑに深心と名づく。

(現代語訳)

二つには深心。 すなわちこれは真実の信心である。
わが身は、 あらゆる煩悩を具えている凡夫であり、 善根は少なく、 三界にさまよって迷いの境界を出ることができないと信知し、
いま弥陀の本願は、 名号を称えること、 わずか十声・一声などの者に至るまで、 まちがいなく往生を得させてくださると信知して、 一声の称名に至るまで疑いの心がないから深心と名づける。

高森会長の言う摩訶不思議な信心

「地獄行き間違いなし」と「極楽参り間違いなし」と絶対に矛盾することがはっきり知らされる

とは、明らかに異なります。『往生礼讃』の二種深信を簡単に言えば、

私は三界を出ることのできる善ができず、そんな者を念仏1つで極楽に往生させてくだされると疑い無く信じる

ということです。理屈の上でも矛盾がありません。

親鸞聖人はこの二種深信を『教行信証』信巻でも説明されているのですが、直接『往生礼讃』から引用されずに、『往生礼讃』を引用した『集諸経礼懺儀』にある二種深信を引用されています。『往生礼讃』と『集諸経礼懺儀』とでは少し違います。法の深信の

下至十声一声等

下至十声聞等

となっています。親鸞聖人は「」を入れられるために、敢えて『集諸経礼懺儀』にある二種深信を引用されたと考えられています。親鸞聖人の御心は、自力信心と他力信心とを峻別された、つまり、念仏1つといっても、名号を称える行に拘る自力と名号を聞く他力の違いがあるということを明らかに示されたかったということではないでしょうか。

もちろん、真宗学の1も知らない高森会長には本物の他力の信心は、レベルが高すぎてチンプンカンプンな内容だとは思いますが、少なくとも高森会長が専売特許としている信心と、親鸞聖人が明らかになされた他力の信心とは、大きく異なることくらいは理解してほしいものです。

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2012年12月10日 (月)

念仏軽視の高森会長には判らない他力念仏と自力念仏

『観無量寿経』に説かれた下品下生の往生について理解できれば、親鸞会に提示している以下のことは容易に判ることです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

ただし、5の白道と7の19願については『観無量寿経』に関連したこととは言いながらも、真宗学をもう少し勉強しないと判らないことでしょう。

さて、下品下生の往生という基礎の上に組み立てられたのが真宗学ですが、その骨組みとなるのが自力念仏と他力念仏との峻別です。そのことがよく判るのが、『三経往生文類』です。

『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

とあります。
中品下生以上には諸善が説かれ、下品上生以下に念仏が勧められているのですが、その念仏が「自力の称名念仏」であると、それは「観経往生」であり、「方便化土の往生」「双樹林下往生」と仰っているのです。

下品下生の意味も、もちろん知らない高森会長

のところで紹介した『唯信鈔文意』のお言葉は他力念仏です。
つまり、五逆の者が臨終に十回の念仏で往生するといっても、

他力念仏 → 報土往生
自力念仏 → 化土往生

という違いのあることを親鸞聖人は教えられているのです。『阿弥陀経』に説かれている念仏についても同様です。
もちろん自力念仏では無間地獄に堕ちるなどと教える外道とは、次元の違う教えです。これが信心ということになるのですが、それはあくまで基礎である下品下生の往生ということが判った上でのことです。そうでないと

念仏1つで助かると言うのは間違いで、信心1つで助かるが正しい

とかいう高森会長のような頓珍漢な教えになるのです。
一応説明しておきますと、念仏と信心との関係を判るように言うと

念仏1つで助かるという信心1つで助かる

ということです。言葉は違っても、「念仏1つで助かる」と「信心1つで助かる」とは同じことです。その信心に他力の信心と自力の信心があることを詳しく教えて下されたのが親鸞聖です。『末灯鈔』にも

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

と教えられている通りです。「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」が他力の信心です。
一方で自力の信心とは『正像末和讃』誡疑讃

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

とある通りです。「罪福信じ善本をたの」むことが自力の信心ですから、高森会長が何かの1つ覚えでいっている”因果の道理”を強調すればするほど、自力の信心から離れられなくなります。
尤も、高森会長は念仏自体を軽視していますので、親鸞会においては自力念仏を問題にする必要はないでしょう。善を勧めていて、浄土真宗になっていないのですから。

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2012年12月 8日 (土)

善知識の能といふは、諸善を捨てて念仏一行になれと、ひとをすすむべきばかりなり

下品下生の往生を理解すると、真宗教義の基礎ができます。しかし、下品下生の往生が理解できないと、真宗は始まりません。親鸞会は、真宗を名乗っていますが、真宗が始まっていないのです。

五重の義では、宿善の次に善知識ですが、下品下生の者に善知識が勧められたことは何でしょうか?
念仏だけです。
『観無量寿経』でも、もちろん『玄義分』においても

命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。

と、念仏だけしか善知識は教えられていないのです。これが善知識の役割です。
親鸞会でも言葉だけは知っている『御文章』2帖目第11通

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり

にもある通り、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と教える方が善知識なのです。
ところがこの「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」を読めないのが、高森会長です。阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に仕えてはならない、としか理解していないのですが、実にお粗末です。

高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます

でも教えてあげた通り、諸仏とともに諸善を捨てて念仏一行になれを「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と仰っているのです。
法然上人のお言葉でいうなら、

諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ『選択本願念仏集』

親鸞聖人のお言葉なら

一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。(『一念多念証文』

蓮如上人のお言葉では

南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや(『御文章』2帖目第9通

です。
つまり、諸善を勧めることは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは正反対だということです。

実際に、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が諸善を勧められたお言葉は皆無です。

捨てよとは教えられているが不要とは教えられていない

とか、小学生のようなだだを捏ねるのが精一杯でしょう。
高森会長がどんな根拠をだそうが、すべて、

高森会長は悪知識

を証明する根拠にしかならないのです。

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2012年12月 7日 (金)

真宗教学「0」の高森会長は、善知識ですか?

下品下生の往生と聞いて連想するのが耳四郎です。耳四郎のことは、親鸞会でも聞いたことのある人も多いと思います。
『顕真』平成22年11月号には

しかも宿善厚き頓機は極めて少なく、宿善薄き漸機は圧倒的に多いと説かれている。

 記録に残っているものから窺っても、法然上人のお弟子三百八十余人の中、頓機は親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の三人のみ。

とあります。「頓機」「漸機」の意味が違っていますが、それはさておき、耳四郎の人物像については『勅伝』に

河内国に天野の四郎とて、強盗の張本なるものありけり。人をころし財をかすむるを業として世をわたりけるが、としたけて後、上人の化導に帰し、出家して教阿彌陀佛と号しけり。

とあります。五逆罪まで造っていたとは伝えられていませんが、耳四郎は強盗、殺人を平気で犯す人物でした。ある時、法然上人の御法座に紛れて盗みの機会を窺っていたところ、法然上人の御説法を聞いて、それが我が事と思い、潜んでいた縁の下から出てきて、法然上人のお弟子になったと伝えられています。このことをもって高森会長は、法然上人の弟子の中で極めて短期間で救われた人として耳四郎を挙げています。
では、耳四郎は法然上人のお弟子になった後、犯罪を止めたのかといえば、盗みは相変わらず行っていたようです。止めようと努力しても止めることができなかったのです。

つまり、耳四郎は信前信後を通して、盗みという粗い悪さえも止まなかったということです。耳四郎のことを『唯信鈔』でいえば、「宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず」ですし、『口伝鈔』でいえば、「宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし」です。親鸞会的な宿善論ならば、耳四郎は、信前信後ともに宿善薄いものであって、宿善が厚くなっていないのに、救われたことになります。

高森会長の言う宿善論の破綻は明白ですが、問題は五逆罪の者でも善知識に遇って念仏の教えを聞き信じる者もいれば、善知識に遇うことができない者、また善知識に遇っても念仏の教えを信じようとしない者がいるということです。
ここから、「宿善」という概念が生れたことは前回のエントリーでも御理解いただけたのではないかと思います。

存覚上人は『浄土見聞集』に

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

と教えられ、これを承けられて蓮如上人が『御文章』2帖目第11通

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

と教えられたのも、「善知識」にあって念仏の教えつまり18願を聞かなければ救われることはありませんので、一番最初に「宿善」を出されて、次に「善知識」なのです。「善知識」の後に「宿善」ではないことが重要です。「善知識」と18願の教えに遇う条件が「宿善」なのです。
前回も述べたように、どんな因縁かはわかりませんが、「宿善」のあった人は、「善知識」に遇って18願を聞き願い求めるのですから、「善知識」に遇った後に「宿善」をどうこうするという問題ではないのです。

真宗教学「」の高森会長のために、「1からわかる浄土真宗講座」の「」の部分である下品下生の往生から説明してきました。しかし、大沼師の著書さえ読み間違う教養では、到底理解できない内容かもしれません。

ただ1つ言えることは、ここまで馬鹿にされても、何一つ言い返すことのできないのが、浄土真宗親鸞会の会長たる高森顕徹という人物だということです。

さて、真宗教学「」の高森会長を「善知識」とか思っている人は、残念ながら「宿善」のない人かもしれません。

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2012年12月 4日 (火)

仏智不思議を疑う親玉の高森会長

下品下生の往生が理解できれば、悪人正機も「極重悪人唯称仏」も「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」も「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」も「一向専念無量寿仏」も素直に理解できる筈です。
しかし、罪福の因果を強調し、仏智不思議を疑っている高森会長のような、浄土真宗の教えのイロハも知らない者は、

下品下生の往生と言っても、今生では無善造悪であっても、過去世には多くの善をしてきた人に決まっている

と考えるのです。
これが宿善(過去世の善根)の最初の発想であり、天台大師智顗の著と伝えられている『浄土十疑論』には、

能臨終遇善知識 十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って、十回の念仏で往生を遂げた者は皆、宿善業(過去世の善業)が強い者であったから、初めて善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げることができたのだ、ということです。逆に、宿善業(過去世の善業)が弱い者は、善知識に遇うこともできず、往生も遂げられない、ということです。聖道門で教える罪福の因果に従えば、このように無理な解釈をせざるを得ないでしょう。

それに対して善導大師が、下品下生を含む下輩について『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と定義なされて、下品下生の者は、過去世において「仏法・世俗の二種の善根」は全くなかった者だ、と断定なされているのです。
『観無量寿経』下品下生を素直に読めば、善導大師の仰る通りとなります。

とはいうものの、往生するには過去世の善根が関係していない筈がない、という迷信に囚われる人がいますから、そんな人に対して、覚如上人が親鸞聖人のお言葉として『口伝鈔』において、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と書かれ、更に覚如上人御自身のお言葉として

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と補足なされています。もちろん、ここでいう「宿善」とは過去世の善根のことであり、「宿悪」とは、過去世の悪根です。下品下生の者は、「宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。」に当たり、過去世において善をせず悪しかしてこなかったから、今生でも無善造悪であり、善導大師の仰せと一致します。そんな者でも往生できるのは、善悪は「得ともならず失ともならざる条」であり、「ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて」だからです。

ここまでくれば、善悪無関係に救う阿弥陀仏の18願を否定する者が、宿善論を取り上げることが御理解いただけたと思います。

下品下生の往生を理解すれば、宿善論と同様、三願転入論も観念の遊戯となります。

過去世において聖道門の修行をしてきた方ももちろん多くあると思います。親鸞聖人は『正像末和讃』

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり

と仰っている通りですが、しかし一方では、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の者もいるのです。そんな、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の者でも救いたもうのが、18願です。これを仏智不思議と言われるのです。

源信僧都は『往生要集』で、

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 (中略)

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。(中略)

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

と仰っています。まさに、仏智不思議です。この仏智不思議を疑っている親玉が高森会長です。

高森会長には"馬の耳に念仏"でしょうが、親鸞聖人は親鸞会の会員の為に『正像末和讃』

仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

と教えておられます。宿善だの、三願転入だの、善の勧めだとか言って仏智不思議を疑うことを止めない限りは、仏智の不思議をたのむことはできません。

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