« 「世間甚難信」と「世間甚易信」 | トップページ | 雑行を捨てることのできない「宿善なき機」 »

2012年11月 6日 (火)

「難信」と宿善との関係

これまで「難信」について述べてきました。簡単にまとめますと、「難信」とは、

18願1つでの救いを願い求めながら、救われることが「難しい」

という意味ではなく、

18願だけでいい、と善知識方が教えられているのにも関わらず、まずは19願を通らなければ、あるいは善をしなければ、という聖道門的、世間的な考え方に囚われて、18願だけでいい、と信じることが「難しい」

ということです。
それを覚如上人は、『口伝鈔』

性相に封ぜられて、ひとのこころおほく迷ひて、この義勢におきて疑をいだく。

聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふ

と仰っていることも述べました。聖道門の考え方、罪福の自業自得の道理という概念が邪魔をして本願力回向を疑うのです

このことと、宿善との関係については、『改邪鈔』

宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば

と教えられています。これを更に、『口伝鈔』

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。

と教えられています。同じことです。

過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。

とは、「宿善のある機」「浄土教を信受する機」「過去の宿善あつきもの」は、18願の教えに遇って獲信できます、ということです。しかし、

宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。

と、「宿善なき機浄土教を信受せざる機」「宿福なきもの」は、18願の教えに遇っても、それをそのまま受け取らずに、勝手なはからいを入れるから、遇っていないのと同じ、と仰っています。
宿善なき機」浄土教を信受せざる機」「宿福なきもの」とは、まさしく親鸞会の会員のことです。

以上を承けられて蓮如上人は『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。

と仰っています。
覚如上人と蓮如上人のお言葉は
宿善のある機
=「浄土教を信受する機
=「過去の宿善あつきもの
=「宿善の機
=「宿善開発の機
ということであり、このような機は「おのづから信を決定すべし」です。18願だけでいい、となっている人は、人によって時間の差はありますが、獲信は容易いということです。

同じく
宿善なき機
浄土教を信受せざる機
=「宿福なきもの
=「無宿善の機
ということであり、このような機は「信心をとりがたし」です。18願だけでは駄目だ、19願を通らねば、善をしなければ、としか思えない人は、獲信は難しいということです

このような
宿善なき機
浄土教を信受せざる機
=「宿福なきもの
=「無宿善の機
が非常に多いので、「難信」と言われるのです。

ところで、高森会長の説によると、獲信したら、「逆謗の屍」「極重の悪人」「地獄一定」と必ず知らされることになっています。一方で、過去世からの善根が多い人が救われるのなら、獲信した人は未信の人よりも過去世からの善根が多い、と知らされることになります。
矛盾も甚だしいことです。
「逆謗の屍」「極重の悪人」「地獄一定」と知らされた人ならば、他の人よりも善根が少ない、善根がない、と知らされねばなりませんし、他の人よりも善根が多いと知らされたならば、他の人よりは善人と知らされることになります。

まあ、「逆謗の屍」「極重の悪人」「地獄一定」も軽いですし、善根の意味も判っていませんから、親鸞会は求道ごっこ、獲信ごっこですね。

|

« 「世間甚難信」と「世間甚易信」 | トップページ | 雑行を捨てることのできない「宿善なき機」 »

コメント

「18願だけでいい」というのを素直に受け入れられないから「難信」なのですね。
それにしても、親鸞会の最大の罪は「親鸞聖人の教えられたことを歪めている」ことだとつくづく思えます。罪悪ばかりを強調し、ことあるごとに地獄の恐怖をあおり、会員を不安にさせ精神的に不安定にまでさせておいて、その上で会のために活動し献身すればその先に救いがある…などと主張しているだけなのですから。こうなるともはや立派な「カルト」です。仏法とは縁もゆかりもないものです。しかし、会員の中には会をやめても本当の浄土真宗の教えに触れる機会に恵まれず、親鸞聖人の教えを誤解したまま、真宗も仏教もすっかり嫌いになり、謗るようにさえなってしまう人が少なくないでしょう。時々ブログ等でそのような声があり、悲しいことだと思えます。繰り返しになりますが、本当に親鸞会の罪は重いです。せめて「浄土真宗」「親鸞」の看板だけは降ろして欲しいです。

投稿: あずきあらい | 2012年11月 7日 (水) 18時33分

あずきあらい 様

>「18願だけでいい」というのを素直に受け入れられないから「難信」なのですね。

そういうことです。
立派かどうかは判りませんが、正真正銘の「カルト」です。
「カルト」には、理屈は通じませんから、「カルト」に期待することは無理です。騙されている被害者はなんとか救出したいですね。

投稿: 飛雲 | 2012年11月 8日 (木) 20時52分

もう良いのではないでしょうか。
たとえ名もなき方でも「親鸞聖人の御教えが蹂躙されている」と聞けば、法論を挑まずにおれないはず。それは会販売(作成とは言いません、念のため)のアニメ2部で聖道門の群僧が衆合したように。
決着は着いたのです。
「会は外道」「会に反論の文証なし」が現実です。高森に踊らされたのです。

投稿: | 2012年11月 8日 (木) 21時46分

いまだに会が「本当の親鸞聖人のみ教えをお伝えする者の集まり」と宣言しているなら、聖人のみ跡に続く学徒を自称しているなら、聖人が教行信証を著して選択集の正しさを明らかにされたように、「誹謗サイト」を破邪顕正しなければなりません。盗作と言われカルトと言われ、反論を恐れて法論できない現状を会員の皆さんはいつまで見ないつもりなのか。嗚呼。

投稿: | 2012年11月 9日 (金) 20時30分

名無し 様

仰る通りですが、これが判れば宿善の機、判らなければ無宿善の機ということだと思います。
無宿善の機に至りては力及ばず、ですが、会員の中でも宿善の機もいるでしょうから、呼びかけは続けていきましょう。

投稿: 飛雲 | 2012年11月 9日 (金) 21時43分

皆様方の呼びかけが聞こえました。
会では救われないと知り、退会しました。
以前に飛雲さんが書かれていた通り、僕の周りにも20年30年の学徒が退会を口にし始めています。僕の小さな周りだけでです。全国にはもっと多くの方が退会を考えている事と思います。飛雲さんの書かれていた通りと知りました。
有難うございました。

投稿: ? | 2012年11月10日 (土) 14時32分

? 様

コメント有難うございます。
親鸞聖人の教えられたことと反対のことを平気で教えている親鸞会にいて、救われることなど「難きが中に難し」です。
救われたいと思うならば、まずは親鸞会を離れることです。そして、親鸞聖人の教えられたことに忠実に話をする人の話を聞くか、書物を読むか、あるいは親鸞聖人、蓮如上人の書かれたものを直接読むことをお勧めします。
他の会員も、続いて欲しいものです。

投稿: 飛雲 | 2012年11月10日 (土) 21時16分

?さん、おめでとうございます。
高森会長の呪縛を逃れて、活き活きと聞法してください。
残っている会員も誘って、退会まで導ければ最高ですね。

投稿: | 2012年11月11日 (日) 09時16分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「世間甚難信」と「世間甚易信」 | トップページ | 雑行を捨てることのできない「宿善なき機」 »