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2012年11月 5日 (月)

「世間甚難信」と「世間甚易信」

最近の顕正新聞などを見ると、アニメを見ることがやたら推奨されています。アニメの内容に問題があることは言うまでもないのですが、高森会長の説法・座談会よりは余程ましです。アニメには大沼師からのパクリ損ない「親鸞聖人の教えの根基は三願転入」もなければ、宿善論もありません。親鸞聖人の比叡山での御修行の強調と、韋提希が定善をしようとしていることくらいで、善の勧めがありません。アニメで繰り返し出てくることは、「一向専念無量寿仏」です。
このことからも親鸞聖人の教えに善の勧めがないことを、高森会長も判っているのです。それで、説法・座談会に比べて非難を受けにくいアニメの推奨しているという訳です。つまり、善の勧めの有無を使い分けたダブルスタンダードです。

ここ最近の傾向として、マインドコントロールのよく効いた会員だけでも騙し通せればいい、くらいに騙しのレベルが下がってきています。度重なる財施から教義に疑問を持った会員を説得するだけの詭弁も尽きています。

さて、高森会長と組織からの理不尽な要求に堪えて会員に留まれる”善人”にとりましては、善もせずして阿弥陀仏に救われることなど考えられないことだと思います。それを

難信

と教えられているのです。長い長い求道が必要だから難信なのではなく、求道の要らない教えであるから難信なのです。

このことを親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「世間甚難信」については更に、元照律師の弟子の顕した『聞持記』を引かれて

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはちコ売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。
「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と解説なされています。「屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法」である18願は、「甚難信」の法ということです。「善悪を選ばず」であり「ただ十念によりてすなはち超往を得」とは、18願の救いには善が全く必要がないのです。従って、「甚難信」の法とは、「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」という意味です。

親鸞会の幹部会員が救われないのは、財施などの善が足りないからでも、高森会長の話を真剣に聞いていないからでもなく、「世間甚難信」つまり「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」を「世間甚易信」つまり「自分の常識で判断した信じやすい卑しい教え」に貶めているからです。

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コメント

耳四郎は殺人放火強盗なんでもござれだったと聞いたことがありますが、法然上人が信心獲得しているとしたとかは本当でしょうか。
耳四郎は宿善を積んで信仰が進んで信心決定したのなら何が宿善だったのでしょうか。
善因善果で宿善をつむなら善果がある気がしますが殺人とか放火や盗みがその結果なのか、それらはさらに原因で結果は地獄へ堕ちたのでしょうか。それともそれまで耳四郎はなにか良いことをしていたのでしょうか。
高みの見物会長も盗作や会計報告なしの絵画や壺購入、不誠実なホウロンと称した言いがかりや難癖因縁を吹っ掛けては人を搾取しているので師も弟子も信心失せて地獄行きと大宇宙の真理の因果の道理ですよね。
信楽の身になるなら善でなくてはいけないのに情報操作しなくてはいけないのは嘘だからですよね。

ケ光会のことを隠すのも宿善なんて積んでいない過去だからですよね。
18で信心決定したと言っていましたが講師部員達は今何歳でしょうか。
何であの幹部連のような人種は人を踏みにじって平気な顔をして他を荒らすのでしょうか。
無能とばれたくないから叱責して指摘会合とか十講制度で差別社会を詭弁で誤魔化しているんですよね。

と書きたかったのですがどうしてお念仏するようになったのか学ぶ度思い出す度恨みが一時的に蒸発していきます。
恨みは人を滅ぼすようで、何が特で何が損なのかわからない毎日です。

投稿: 元会員 | 2012年11月 5日 (月) 20時41分

元会員 様

お気持ちはよく判ります。

投稿: 飛雲 | 2012年11月 6日 (火) 21時01分

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