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2012年11月27日 (火)

下品下生の意味も、もちろん知らない高森会長

親鸞会を辞める人に対して、「善をしたくないだけだろう」と親鸞会は言います。もちろん、これは高森会長が考えたセリフです。この言葉だけをとってみても、高森会長が真宗とは無関係の人物であることが判ります。
下品下生の者でも往生させると誓われたのが、18願です。下品下生の者とは、「善をしたくない」者のことです。
善導大師は下品上生・下品中生・下品下生の定義として『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰っています。「善をしたくない」「善をしようとも思わない」者が、下品上生・下品中生・下品下生、つまり悪人のことです。

全人類は下品下生の者

と断定しておきながら、退会者を「善をしたくないだけだろう」と罵倒しているのですから、漫才です。
また、「善をしたくない」「善をしようとも思わない」者を往生させることのできる阿弥陀仏のお力を疑っているのですから、そんな講師部員、会員が救われる筈もありません。

親鸞聖人は『唯信鈔文意』で、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

と仰っています。善など、何の関係もありません。
最低の者の最悪の状況でも救うことのできるのが阿弥陀仏です。
最低最悪でない状況ならば、なお救われるのです。それで平生業成の教えになるのです。

如何なる人物の如何なる状況においてでも、往生を願って念仏を称える者は必ず往生できる、これが18願です。

善をしたくないだけだろう」などと平然と言っているのは、完全に多生業成の教えですね。真宗とは無関係と宣言すべきでしょう。

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コメント

高森会長の教義は間違いが幾重にも重なっていて一言でどこがおかしいと指摘できないほどです。
飛雲さんのような親切な方でなければ誰も相手にしてくれないと思います。
会長はよく、「一生や二生の目的でない。多少永劫の目的だ」と言っていましたが、最初から言い訳を考えてあるずるいやり方ですね。

投稿: | 2012年11月27日 (火) 22時18分

一生を大事にできなくて多生を語ることは難しいと最近気づきました。
たった一度しかない人生と今の私には、この人生の私にはたった一度しかないのです。
また今度生まれられたら宿善を積もうと思う人は徳と善行を言い換えられたことに気づくべきだし、親鸞会の人達にあげるより仏菩薩に奉納する方が善行だと思います。
なぜ言い換えて言い訳まで用意しているのかは、その金で生活していかなくてはならない環境になればわかるのかも知れませんが、なりたくはありませんね。
やらなくてもわかりますよ。
仏菩薩より偉ぶって仏法らしきものを言えば対価として布施を得ていることの反省は幹部にはないのではないのかな。
豊田商事と関係があったと聞いても驚かない人は他人の命や金に疎いのだと思います。
尊いものだからと言われても、それをキチンと自分で調べないと、お礼だからと出したときの言い訳まで用意されては、詭弁に気づかない人も少し出るのでしょう。
勧誘の初対面に嘘をつくところから永遠に求まらない求道になるのだと思います。

投稿: 退会者B | 2012年11月27日 (火) 22時58分

名無し 様

親鸞会の相手をしてくれるのは、退会者だけでしょう。真宗十派では、親鸞会は他宗か他教と見做していますから。


退会者B 様

御尤もです。

投稿: 飛雲 | 2012年11月28日 (水) 21時28分

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