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2012年11月 2日 (金)

真宗別途の他力を疑ふ宿善薄き親鸞会会員

浄土真宗における宿善の有無、あるいは宿善の厚薄というのは、過去世の善根ということではなく、阿弥陀仏のお育て、という意味で使われることは、前回述べました。
その心は、阿弥陀仏の18願を信じて受け入れることができる人と、信じることも受け入れることもできない人とに分かれるのは、過去世の善根という単純な理屈では説明ができないからです。

そのことが端的に判るのが覚如上人のお言葉です。『口伝鈔』で、親鸞会の会員の心を見透かされたように説明されています。

 おほよそ凡夫の報土に入ることをば、諸宗ゆるさざるところなり。しかるに、浄土真宗において善導家の御こころ、安養浄土をば報仏報土と定め、入るところの機をばさかりに凡夫と談ず。

 このこと性相の耳を驚かすことなり。さればかの性相に封ぜられて、ひとのこころおほく迷ひて、この義勢におきて疑をいだく。その疑のきざすところは、かならずしも弥陀超世の悲願を、さることあらじと疑ひたてまつるまではなけれども、わが身の分を卑下して、そのことわりをわきまへしりて、聖道門よりは凡夫報土に入るべからざる道理をうかべて、その比量をもつていまの真宗を疑ふまでの人はまれなれども、聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふこと、かつは無明に痴惑せられたるゆゑなり、かつは明師にあはざるがいたすところなり。そのゆゑは、「浄土宗のこころ、もと凡夫のためにして聖人のためにあらず」(遊心安楽道)と[云々]。しかれば貪欲もふかく、瞋恚もたけく、愚痴もさかりならんにつけても、今度の順次の往生は、仏語に虚妄なければいよいよ必定とおもふべし

(石田瑞磨著著『親鸞全集』による現代語訳)

 おおよそ、愚かなひとが真実の浄土にはいるということは、諸宗では許されないところである。ところが、浄土真宗では、善導大師を奉ずるひとたちのお考えとしては、安養浄土をば、かつて立てた誓いをなしとげてその報いとしてあらわれた真実の仏が報いとしてえられた真実の浄土であると定め、そこにはいることのできるひとはまさに愚かなひとなのである、と説いている。

このことは聖道門の教えを奉ずるひとの耳を驚かすことである。だから、聖道門の考えに閉じこめられて、多くのひとは心に迷いを生じ、その勢いの赴くところ、疑いを抱くようになる。その疑いがきざすところは、阿弥陀仏の、世に超えすぐれた大慈悲の誓いについて、かならずしもそんなことがあるわけがない、と疑うようになっているほどのものではないし、またわが身のほどを卑下して分相応のものしかえられないという理屈を弁え知ったうえで、聖道門によるかぎりは愚かなひとは真実の浄土にはいることはできない、という道理を思い浮べて、こうした対比によって、いまの真宗の教えを疑うようになっているほどのひともごく稀である。しかしそうではあるけれども、聖道門の教えが世に行われているのを、どういうこともなく、耳に触れて聞きなれたためか、多くのひとは、これに妨げられて、真宗独特の他力の教えを疑っている。これは一つには智慧の勝れた師に逢わないことがもたらした結果である。このように考えられるわけは、浄土の教えのこころは、本来、愚かなひとを目当てとし、行い澄ました聖人のためにあるのではない、といわれることである。こうしたわけであるから、貪りの心深く、怒りの心はげしく、心の暗い愚かさがさかんになるにつけても、このたび来世でかならず浄土に生れるということは、仏の言葉にうそいつわりはないから、いよいよ決定的である、と思わなければならない。

とあります。聖道門の論理は理解しやすく、信じやすいのです。それは罪福の因果の道理から説明されているからです。それに対して18願の論理は、「性相の耳を驚かすことなり」です。過去世もそして現在世も、善根に励む聖道門の人には、18願の教えは到底受け入れることができず、

聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふこと、かつは無明に痴惑せられたるゆゑなり、かつは明師にあはざるがいたすところなり。

と親鸞会の会員の現状を指摘されています。
高森会長の論理は、聖道門の論理であり、会員はそんな教えが染みついて離れないのです。会員は「明師にあはざるがいたすところなり」であるが故に、18願の教えを信じ受け入れることのできない宿善薄き者となってしまっているのです。

親鸞会の会員にとって18願の救いを「難信」としか思えない理由は、「明師にあはざるがいたすところなり」だからです。
つまり高森会長を「明師」と思っている間は、いつまでたっても「真宗別途の他力を疑ふ」状態であり、18願だけでいい、という歴代の善知識方の御教導をないがしろにしたままということです。

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