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2012年11月15日 (木)

高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます

高森会長も講師部員も会員も、阿弥陀仏一仏に向いてさえいれば、諸善をしていても「一向専念無量寿仏」だと思っているのでしょうが、それはとても恥ずかしい勘違いです。「一向専念無量寿仏」の意味も知らないで、アニメを作り、「ひと口問答」を書いているのですから、本願寺から相手にされなくて当然でしょう。

一向専念無量寿仏」については法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」ことが「一向」です。つまり法然上人の仰っている「一向」とは念仏だけを専ら修することです。

親鸞聖人も法然上人の教えを継承されて『一念多念証文』

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰り、蓮如上人も『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と仰っています。
もちろん、「一向」とは、「余の善にうつらず」のことであり、雑行である「自余の万善万行」に対して、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」なのです。念仏1つと教えられていることであり、諸善を捨てよ、ということです。

ところが高森会長は、諸善を勧めていて、「一向専念無量寿仏」を勧めていると胸を張っているのですから、もの凄いギャグです。右へ行けと親鸞聖人が教えられているから、左へ行くのが正しい、と言っているようなものです。

最近の流れで言えば、

一向専念無量寿仏

極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得

本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

は皆同じことです。

また高森会長は、念仏と信心との関係も全く判っていませんが、

念仏1つで助かるというのは間違いで、信心1つで助かるが正しい

とか自信満々に言っているのも「一向専念無量寿仏」の意味が判っていないからでしょう。

高森会長は、余りにも親鸞聖人の教えに疎いのです。

高森会長が言っていることで、親鸞聖人の仰せの通りのところがどこにあるのかを探さないと見つからない程です。

無二の善知識として崇めてほしいのなら、少しは勉強してくださいよ、高森顕徹先生。
それとも勉強はあきらめて、カルトに付きものの暴力沙汰を検討中ですか?

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コメント

英語教師が英語読めないで適当な意味教えているようなものですね。

投稿: | 2012年11月15日 (木) 22時25分

会長はなにかしら個人的思い込みを基に解釈しているようでまさに珍しき教えです
だから聖教も読んでない、全然違うことを教える
ただのヒロイズムの妄想家です

投稿: | 2012年11月16日 (金) 00時20分

前の名無し 様
後の名無し 様

真宗の勉強をしていないのなら、善知識のふりをするな、ということです。
死人のことを仏と言っている人を馬鹿にしていますが、人のことを言えるレベルではないですね。

投稿: 飛雲 | 2012年11月18日 (日) 09時09分

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