« 雑行を捨てることのできない「宿善なき機」 | トップページ | 顕真11月号「ひと口問答」--聖教上の根拠が皆無 »

2012年11月12日 (月)

高森邪義を粉砕するには「極重悪人唯称仏」の説明だけで十分

18願1つだけで救われると信じることが難しいことを「難信」と教えられているのですが、別の言い方をすれば、念仏1つで救われると信じることが難しい、あるいは「一向専念無量寿仏(=専修念仏)」で救われると信じることが難しい、ということです。

少し前に『安心決定鈔』を通して、18願の救いについて紹介しましたが

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行ではないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めてくだされたからである。

と判り易く書かれています。
阿弥陀仏が凡夫の我々の代わりに、五劫の思惟と兆載永劫の修行をなされたのに、自分で不足を補おうと考えるから、「難信」なのです。

これは『観無量寿経』の下品下生の往生について言われたのですが、これを歴代の善知識方は様々に教えてくださっています。
最も簡潔に仰ったのが源信僧都で、『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と教えられています。下品下生の「極重の悪人」には、念仏以外の方便(善)は全くないのです。
『往生要集』のこのお言葉は、『教行信証』行巻にも引かれていますが、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と19願の方便も定散二善も不要と、直接的な表現で仰っています。

これが18願の救いであり、これを信じることが18願1つと信じることです。しかし、親鸞会の会員のように、これを信じることが「難中之難」です。どうしても、「他の方便あり」としか思えないのです。

この親鸞聖人の教えの基本中の基本を踏まえていれば、『歎異抄』も容易く理解できます。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。

は、「他の方便なし」を言い換えられたものです。18願に救われるのに、善は不要ということです。
また

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

はそのまま「ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」を言い換えられたものです。念仏1つで救われる、ということです。

以上、真宗の基本中の基本の話をしたのですが、この基本中の基本を踏まえれば、高森会長の『歎異抄をひらく』が如何に寝恍けた書であるかがお判り頂けると思います。

高森会長を論破するのに、難しい聖教は必要ありません。『正信偈』の「極重悪人唯称仏」だけを説明すれば、高森邪義はすべて粉砕できます。

『歎異抄をひらく』の反論書がでていない、とか騒いで、会員からも白い目で見られていますが、こんな寝恍けた書に、誰が反論書を書こうという気になるか、ということです。
長年の会員が次々と退会していく状況を正視できず、会員が誰もいなくなって初めて自分の愚かさに気が付くことでしょう。いや、それでも気が付かず、本願寺の陰謀と一人で喚き続けるかもしれません。

お目出度いことです。

|

« 雑行を捨てることのできない「宿善なき機」 | トップページ | 顕真11月号「ひと口問答」--聖教上の根拠が皆無 »

コメント

親鸞聖人は、正信偈に、

速入寂静無為楽
必以信心為能入

速やかに寂静無為の楽に入ることは
必ず信心を以って能入と為す

必ず信心をもって、つまり「必ず信じる心を持って」救われると言っておられます。

それまで信心を得るために様々な行い(念仏ふくめ)を行っていましたが、初めに信心を得たと思っていた間(8ヶ月ほど)、何が良くて信心を得られたのかとずっと悩んでいました。しかし、あるきっかけで、自分のおごった心、愚かで罪深い正体がはっきりし、本当に信じることのみで、信じた瞬間、そうだったか!とわかり、阿弥陀仏から本当の信心を頂けた、信心がかたまったと理解したのです。

称名念仏で救われるわけではありませんし、
冒頭にあるように、
18願1つだけで救われると信じることが難しいこと=念仏1つで救われると信じることが難しいこと というのは間違っています。

19願→20願→18願と進んだのだと後から理解致しました。
19→20→18願と進んで信心決定するのだ、と、頭で考えているうちは自力の心が抜けていなく、本当の信心をえることは厳しいでしょうね。

投稿: mina | 2012年11月14日 (水) 23時34分

minaさんは、日本語が理解できないのでしょうか?

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

極重悪人唯称仏

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし


これ以外にもたくさんありますが、念仏で救われると、善知識方が仰っていることが理解できないみたいですね。

それと信心と念仏との関係も全く理解できていないようです。

あなたが、「19願→20願→18願と進んだのだと後から理解致しました」のは勝手ですが、それが正しいかどうかは別です。
少なくとも親鸞聖人以外の方で、「19願→20願→18願と進んだ」と仰った方はありません。親鸞聖人も御本典に一箇所だけしか仰っていません。

それが何を意味するかは、国語の能力があるか無いかで分かれれるでしょうね。

まずは、国語をよく勉強すべきでしょうね。

投稿: 異安心 | 2012年11月15日 (木) 03時23分

mina 様

異安心さんの仰る通りです。
念仏と信心との関係については
「安心問答」
念仏が大事と分かりましたが、親鸞聖人の教えは信心が大事なのではないでしょうか?(頂いた質問)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121102/1351847659

でも、最近取り上げられていました。
よく、読んで、正しく理解してください。

投稿: 飛雲 | 2012年11月15日 (木) 08時13分

親鸞会のHP

体験至上主義ともいわれる彼らの生命線は、そんな体験談なのだ。 彼らに、体験談を話すな、書くなということは、親鸞学徒に、親鸞聖人の教えを説くな、教えるな、というのに等しい衝撃である。 生命を断たれることになるからだ。

 ↑
これはminaさんへの皮肉ですかね。
minaさんが会員ならば、親鸞会で非難される体験談。
会員でないとしても、お聖教を無視する体験至上主義と非難されても仕方がないです。

念仏1つと至る所に教えられているのに、親鸞会で破壊された脳では、読めないのでしょう。

投稿: 最近辞めた会員 | 2012年11月15日 (木) 12時03分

称名の否定は本願の否定になるんじゃないかな
誰のために案じいだされたのか

弥勒付属の一声
ということを聞いたことがある

行巻と一念多念分別事及び文意が参考になるでしょう

一念だけで念仏要らないと言う人は救われていないと疑われてもしようがない

なお一念多念の争いをする人は異学別解のひとと親鸞聖人は仰るようです

三願転入したのならどの仏典の修行をして、少なくとも七日間は称名されたとおもいますが、どのお寺でどなたのもとで御修行されて、書いててどうでもよくなりました。

さいなら

投稿: スパンク | 2012年11月15日 (木) 12時47分

皆様のコメント、ありえないほど有り難いと感じ、読ませて頂きました。

最初の私のコメントで「称名念仏で救われるわけではありませんし」と書かせて頂きましたが、
これは、「称名念仏だけで救われるわけではありませんし」の意味です。言葉が足りなかったようで申し訳ありません。
もちろん、信心だけではなく念仏とのセットで救われる、と理解させて頂いております。

「念仏」=「南無阿弥陀仏と口に出して言うこと」そして、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり」とありますから、
「南無阿弥陀仏」=「阿弥陀仏に帰命致します」の義だと理解しております。(そしてもちろん、発願回向の意味も含んでおります)   

つまり、念仏=「阿弥陀仏に帰命致します」と口に出して言うこと ですから、
大変な阿弥陀仏の本願力にて信心を得させて頂けた私が、「阿弥陀仏に帰命致します、阿弥陀仏に帰命致します」と何度か
繰り返して述べさせて頂いたこと、皆様になら推察して頂けるかと存じます。
(信心を得るのは、一瞬。そのあと念仏を唱えるのに少し時間がかかりました。また、当然ですが、五逆罪・誹謗正法は行いません。)

体験至上主義と言われる方々がいることを初めて聞きました。
また、何回称名したのだ?と聞かれるとしたら、私は、
信心を得させて頂いた時には10回念仏致しました、と答えさせて頂きます。

投稿: mina | 2012年11月18日 (日) 04時26分

ここにコメントさせて頂いたことも、阿弥陀仏のご回向と理解しております。

投稿: mina | 2012年11月18日 (日) 04時28分

minaさん

三願転入についての反論がありませんね。

19願→20願→18願と進んだのだと表明されていない龍樹、天親、道綽、善導、源信、法然、覚如、存覚、蓮如の皆さまは、minaさんと信心が異なるようですね。

投稿: 異安心 | 2012年11月18日 (日) 08時43分

mina 様

>18願1つだけで救われると信じることが難しいこと=念仏1つで救われると信じることが難しいこと というのは間違っています。

が間違っていることだけでも御理解いただけたのなら、結構です。

投稿: 飛雲 | 2012年11月18日 (日) 09時14分

称名念仏で救われるわけではありません
というのは称名否定の邪義だと思うよ
だけで救われるわけではない、というのもお慈悲を知らないのではなかろうか?
ひとまずどのお寺にお世話になったのか、どの先生に教わったのか、知りたいです。


本願の名号をひとこえとなえて往生す
阿弥陀仏のちかい


称名念仏で救われるわけではありません、
はホウボウザイに思えますな。一念往生とも多念往生とも言われず念仏往生と言われるのに。


念仏成仏これ真宗


信心成仏とは聞いたことがありません


多念をひがごとと思うまじき事
七日もしは一日、名号をとなうべし
これは多念の証文なり

御名を称するは、かならず安楽浄土に往生をうるなり。仏の本願によるがゆえなり。


コメントの文章をみたところ念仏ではなくて信心だ、と見えたり、いや念仏で救われないとは書いてなくて念仏だけで救われるわけではない、となにか少し念仏に加味するような書き方をされたり。三業安心ともとれる書き方のようにも見える。
信心を得たかどうかはわからないけれども文章が変。なんか微妙にずらしたりしてませんか?
師がいないひとの信心主張はなんか匂うな。
もしや親鸞会か無量寿寺か。念仏だけで救われるわけではないという書き込みのどこが阿弥陀仏の回向なんだろうか。

まことに尋常のときより信なからん人は、ひごろの称念の功によりて最後臨終のとき、はじめて善知識のすすめにおうて、信心をえんとき、願力摂して往生をうるものもあるべしとなり。

一文不通にして、経釈のゆくじもしらざらをひとの、となえやすからんための名号におわします。


しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもっぱらにして、専修専念・一向一心になるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

投稿: 退会者 | 2012年11月18日 (日) 10時09分

解らない

なぜ18願念仏を否定しておいて行も信もと言いつつ信心だけになり三願転入にスライド移行させようとするのか

なぜ阿弥陀仏の誓願に救われたと言いながら名号不思議の称名で救われないと発言するのか

なぜ千日回峰行や常行三昧堂で修行していないのに三願転入を勧めるのか

なぜ救われていないのに救われたと信心の嘘をついてもよいと親鸞聖人が言われないことを教えるのか

なぜ親鸞聖人は法然上人の恩徳と言われるのに高森顕徹という要素に入れるをもって信仰としているのか


浄土真宗親鸞会の教えや流派は一刻も早くこの世やどの世からも永久に消えてなくなってください

投稿: 退会者 | 2012年11月18日 (日) 13時42分

退会者 様

理屈が通じないのが、親鸞会です。
理屈の通じない相手に、理屈を理解させるのは、大変な手間がかかります。

投稿: 飛雲 | 2012年11月19日 (月) 21時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 雑行を捨てることのできない「宿善なき機」 | トップページ | 顕真11月号「ひと口問答」--聖教上の根拠が皆無 »