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2012年11月

2012年11月29日 (木)

高森会長のための「1からわかる浄土真宗講座」

最近の親鸞会主催文化講座のチラシには、「1からわかる浄土真宗講座」とありますが、もの凄いギャグです。
浄土真宗の教えの1も判っていないのに、ハッタリだけは一流です。

講師:高森顕徹先生

講座の内容

  • 人生の目的
  • 苦しみの根源
  • 運命の鍵
  • 命の意味
  • 『歎異抄』の解説
  • 『正信偈』のお言葉
  • 見捨てられない幸福
  • 本当の私  など

とありますが、高森会長の『歎異抄をひらく』とかいう駄本を見れば、『歎異抄』の正しい解説などできるはずもないことは、真宗関係者なら容易に判るでしょう。

さて、『歎異抄をひらく』の宣伝広告として、悪人正機を取り上げていますが、この悪人正機も根本的に間違っています。

全人類は悪人しかいない

という妄想で論理展開するから、すべてが狂ってくるのです。

悪人正機とは、善人傍機のことです。『歎異抄』だけしか読んだことがない無教学の高森会長と会員が知らないのも無理はありませんが、『口伝鈔』には次のようにあります。

一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。

 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。

18願を悪人正機と言われるのは、悪凡夫が正機で善凡夫が傍機、という意味です。全人類が悪人ということではなく、全人類の中で悪人を正機とし、全人類の中で善人を傍機とするということです。当然ながら、善人がいて、悪人がいるのです。

前回のエントリーで述べた下品下生、前々回の「極重悪人唯称仏」を正しく理解していれば、何も難しいことでありません。
善人には「他の方便」である諸善がありますが、悪人には「他の方便なし」で最初から最後まで念仏しかないのです。
従って、「他の方便」のある善人は、「他の方便なし」の悪人よりも救いが結果的に遠回りになりがちです。親鸞聖人は『教行信証』信巻で「迂回の善なり」と仰っていることからも判ります。
それを『歎異抄』では

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや

と言われているのです。

一方で、阿弥陀仏のお力から言えば、極重の悪人の臨終でさえ救うことができるのですから、軽度の悪人や善人で、しかも平生なら尚更救うことができます。これが平生業成ということです。

最近述べていることは、高森会長のための「1からわかる浄土真宗講座」です。浄土真宗の教えは、下品下生、「極重悪人唯称仏」の理解からです。これさえ間違って布教しているから、親鸞会は浄土真宗とは無関係の高森教と揶揄されるのです。

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2012年11月27日 (火)

下品下生の意味も、もちろん知らない高森会長

親鸞会を辞める人に対して、「善をしたくないだけだろう」と親鸞会は言います。もちろん、これは高森会長が考えたセリフです。この言葉だけをとってみても、高森会長が真宗とは無関係の人物であることが判ります。
下品下生の者でも往生させると誓われたのが、18願です。下品下生の者とは、「善をしたくない」者のことです。
善導大師は下品上生・下品中生・下品下生の定義として『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰っています。「善をしたくない」「善をしようとも思わない」者が、下品上生・下品中生・下品下生、つまり悪人のことです。

全人類は下品下生の者

と断定しておきながら、退会者を「善をしたくないだけだろう」と罵倒しているのですから、漫才です。
また、「善をしたくない」「善をしようとも思わない」者を往生させることのできる阿弥陀仏のお力を疑っているのですから、そんな講師部員、会員が救われる筈もありません。

親鸞聖人は『唯信鈔文意』で、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

と仰っています。善など、何の関係もありません。
最低の者の最悪の状況でも救うことのできるのが阿弥陀仏です。
最低最悪でない状況ならば、なお救われるのです。それで平生業成の教えになるのです。

如何なる人物の如何なる状況においてでも、往生を願って念仏を称える者は必ず往生できる、これが18願です。

善をしたくないだけだろう」などと平然と言っているのは、完全に多生業成の教えですね。真宗とは無関係と宣言すべきでしょう。

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2012年11月23日 (金)

本当に真宗教義に無知な高森会長

念仏1つで助かる、18願だけで助かる、というのは間違いだ

と断言しているのが高森会長と親鸞会です。真宗教義のイロハも知らない戯言ですが、これは『正信偈』

極重悪人唯称仏

で顕わされた下品下生の往生について無知だからです。

『観無量寿経』下品下生

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

善知識から諸善は全く勧められていません。勧められていることは念仏だけです。当たり前です。雑毒の善さえもできないのが下品下生で、しかも、五逆の罪を犯している最下の者です。そんな者が最悪の状態である臨終になって、初めて仏法を聞くのです。それまで仏法を聞いてこなかったのですが、善知識は念仏だけを勧められて、10回の念仏を称えて往生を遂げています。
最下の者の最悪の状態で善知識が勧められることは念仏だけです。

これを『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

『観無量寿経』の中に、<きわめて重い罪をかかえた悪人に、この他の手だてはない。ただ弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生させていただくばかりである>と説かれている。

と教えられています。
親鸞聖人は『正信偈』

極重悪人唯称仏

と仰り、蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説なされています。「極重の悪人」である下品下生には、諸善という方便がないのです。もちろん
念仏まで導く権仮方便もありません。
九品を見れば一目瞭然ですが、諸善という方便があるのは、中品下生までの善凡夫に対してです。
下品下生について善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と仰っています。

法然上人は下品上生・下品中生・下品下生について『選択本願念仏集』

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことですが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論の完全な否定です。

以上は往生のためには念仏1つであることの根拠であり、悪凡夫には諸善という権仮方便のないことを、どの聖教にも書かれてあることです。しかし、高森会長は聖教を読んだことがないから、何も知らないで妄想教義を呟いているだけです。

妄想を呟くだけならまだしも、阿弥陀仏のお力を

そんな上手い話がある訳がない

と疑って謗り続けているのですから、酷いものです。

会員は、念仏誹謗を続ける高森会長についていくとどうなるか、少しでも理性が残っているなら判る筈です。

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2012年11月19日 (月)

今回は余談です

講師部員が立場を偽装して、本願寺僧侶、退会者としてブログを書いています。親鸞会の講師部員としては、ブログを書けない訳があるのです。法論に負けると、大変なことになるからです。法論に勝てるとは思っていないのです。実際、いつも惨敗です。
ところで、立場の違うこの”2人”の主張と根拠及び引用論文は、なぜか一致しています。偽装したいのならば、もっと上手くすればいいものを、書くネタが限られているのに無理に書くからボロがでるのです。その”2人”がよく引用する書について、コメントを頂きましたので、紹介しておきます。

M野クンの大好きな『相伝叢書』なる書物の来歴は何なのか?が長らく疑問でしたが、
龍谷大学学術機関リポジトリで藤田真証師の論文を読んで詳細がわかりました。
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/1555
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1555/4/dk_136_abstract.pdf

蓮師以降、本願寺の歴代門主ならびに格式ある五箇寺に相伝された教学であるが、江戸時代に本派、ついで大派でも途絶えた、とされているそうです。
近年になって大派の学者さんが発掘し出版されて、大派の一部で注目を受けているようですが、
この論文で藤田師は「相伝教学の系譜に信憑性が認められない」と結論付けています。

藤田師の言われる通り、存師の六要鈔における本典解釈を「附仏法の外道」とまで批判している書物が蓮師の手によるはずがないですよね。
室町~江戸時代初期に歴代の門主や一部の僧侶に相伝された、なんらかの教学があったとしても、「相伝叢書」の書物自体は17世紀の僧侶らによる著述だと見做すのが妥当のようです。
六要鈔を持ち出したかと思えば、六要鈔を否定する立場の書物を「これぞ伝統的な真宗の教義解釈のオーソドックスである」と強弁したり、M野くんも忙しいですね。会長並の二転三転ぶりです。

読まれた通りです。

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2012年11月16日 (金)

一口問答(19願・定散二善)の追加

物判りの悪い高森会長、講師部員、幹部会員のために、「ひと口問答」への反論を、一応追加しておきます。

問い

蓮如上人は『御文章』で「一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。」(2帖目第9通)と教えられていますから、真宗における「一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や神に向かないことです。善を捨てよということではありません。

答え

蓮如上人はこの後に「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。」と仰っています。親鸞聖人は「一向は余の善にうつらず」(一念多念証文)と仰っています。存覚上人も「諸行をまじふべからずとみえたり。」(持名鈔)と仰り、真宗においても「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」(選択本願念仏集)の法然上人の仰せがそのまま継承されています。
要するに、「一向専念無量寿仏」とは善を捨てよ、ということで、高森会長の言う善の勧めを否定された根拠ですよ。

問い

念仏1つで助かるというのは間違いで、信心1つで助かる、と教えられたのが親鸞聖人です。

答え

親鸞聖人は「専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。」(一念多念証文)と仰っています。信心とは専修念仏の心、善と他の仏に心を掛けないことをいいます。
つまり、信心1つとは、念仏1つで助かると信じた心1つということです。
したがって、念仏1つで助かるというのは間違いだ、と言っている人は、親鸞聖人と信心(念仏1つで助かると信じた心)が異なるということですね。

(参照)
高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます

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2012年11月15日 (木)

高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます

高森会長も講師部員も会員も、阿弥陀仏一仏に向いてさえいれば、諸善をしていても「一向専念無量寿仏」だと思っているのでしょうが、それはとても恥ずかしい勘違いです。「一向専念無量寿仏」の意味も知らないで、アニメを作り、「ひと口問答」を書いているのですから、本願寺から相手にされなくて当然でしょう。

一向専念無量寿仏」については法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」ことが「一向」です。つまり法然上人の仰っている「一向」とは念仏だけを専ら修することです。

親鸞聖人も法然上人の教えを継承されて『一念多念証文』

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰り、蓮如上人も『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と仰っています。
もちろん、「一向」とは、「余の善にうつらず」のことであり、雑行である「自余の万善万行」に対して、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」なのです。念仏1つと教えられていることであり、諸善を捨てよ、ということです。

ところが高森会長は、諸善を勧めていて、「一向専念無量寿仏」を勧めていると胸を張っているのですから、もの凄いギャグです。右へ行けと親鸞聖人が教えられているから、左へ行くのが正しい、と言っているようなものです。

最近の流れで言えば、

一向専念無量寿仏

極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得

本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

は皆同じことです。

また高森会長は、念仏と信心との関係も全く判っていませんが、

念仏1つで助かるというのは間違いで、信心1つで助かるが正しい

とか自信満々に言っているのも「一向専念無量寿仏」の意味が判っていないからでしょう。

高森会長は、余りにも親鸞聖人の教えに疎いのです。

高森会長が言っていることで、親鸞聖人の仰せの通りのところがどこにあるのかを探さないと見つからない程です。

無二の善知識として崇めてほしいのなら、少しは勉強してくださいよ、高森顕徹先生。
それとも勉強はあきらめて、カルトに付きものの暴力沙汰を検討中ですか?

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2012年11月13日 (火)

顕真11月号「ひと口問答」--聖教上の根拠が皆無

皆さん、お待たせしました。顕真11月号の「ひと口問答」です。聖教上の根拠が1つくらいは出てくることを期待していましたが、皆無でした。そしていつものたとえだけが根拠です。
本当に情けないものです。

問い

親鸞聖人は定散二善を捨てよと仰っているのに、定散二善を勧めるのは間違い、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

 煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
 親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。
後生の一大事の解決は、
一向専念無量寿仏と知らされて、
初めて定散二善(自力)が現れるのです。
 後生も菩提もなく一向専念の教えも知らない、無力の人に仰ったことではないのです。

余りにもレベルが低すぎて、当ブログを以前から読まれている方なら、簡単に論破できると思います。とは言うものの、一応、たとえにも詭弁にも反論しておきます。

問い

煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。

答え

中学高校の頃、先生からよく言われませんでしたか、「煙草をのむな」と。大半の生徒は煙草をのんだことがないですが。温泉にいくと、「服や水着を着て入らないでください」と注意書きしてあるところがあります。99%以上の人は素っ裸ですが。聖道門では結婚を禁じています。日本は別として他国の僧侶は誰も結婚していませんが。
親鸞聖人が定散二善を行っていない人に、定散二善をせよと仰ったお言葉を示してください。

問い

後生の一大事の解決は、
一向専念無量寿仏と知らされて、
初めて定散二善(自力)が現れるのです。
後生も菩提もなく一向専念の教えも知らない、無力の人に仰ったことではないのです。

答え

後生の一大事の解決は、
一向専念無量寿仏専修念仏)でしかできないと教えられて、
定散二善(他の方便)なしが、真宗の超常識です。
それが、「極重悪人唯称仏」(正信偈)です。
ちなみに一向専念無量寿仏とは、「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」(選択本願念仏集)と教えられているように、専修念仏のことです。こんなことさえも知らないとは、無宿善の人ですね。

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2012年11月12日 (月)

高森邪義を粉砕するには「極重悪人唯称仏」の説明だけで十分

18願1つだけで救われると信じることが難しいことを「難信」と教えられているのですが、別の言い方をすれば、念仏1つで救われると信じることが難しい、あるいは「一向専念無量寿仏(=専修念仏)」で救われると信じることが難しい、ということです。

少し前に『安心決定鈔』を通して、18願の救いについて紹介しましたが

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行ではないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めてくだされたからである。

と判り易く書かれています。
阿弥陀仏が凡夫の我々の代わりに、五劫の思惟と兆載永劫の修行をなされたのに、自分で不足を補おうと考えるから、「難信」なのです。

これは『観無量寿経』の下品下生の往生について言われたのですが、これを歴代の善知識方は様々に教えてくださっています。
最も簡潔に仰ったのが源信僧都で、『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と教えられています。下品下生の「極重の悪人」には、念仏以外の方便(善)は全くないのです。
『往生要集』のこのお言葉は、『教行信証』行巻にも引かれていますが、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と19願の方便も定散二善も不要と、直接的な表現で仰っています。

これが18願の救いであり、これを信じることが18願1つと信じることです。しかし、親鸞会の会員のように、これを信じることが「難中之難」です。どうしても、「他の方便あり」としか思えないのです。

この親鸞聖人の教えの基本中の基本を踏まえていれば、『歎異抄』も容易く理解できます。

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。

は、「他の方便なし」を言い換えられたものです。18願に救われるのに、善は不要ということです。
また

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

はそのまま「ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」を言い換えられたものです。念仏1つで救われる、ということです。

以上、真宗の基本中の基本の話をしたのですが、この基本中の基本を踏まえれば、高森会長の『歎異抄をひらく』が如何に寝恍けた書であるかがお判り頂けると思います。

高森会長を論破するのに、難しい聖教は必要ありません。『正信偈』の「極重悪人唯称仏」だけを説明すれば、高森邪義はすべて粉砕できます。

『歎異抄をひらく』の反論書がでていない、とか騒いで、会員からも白い目で見られていますが、こんな寝恍けた書に、誰が反論書を書こうという気になるか、ということです。
長年の会員が次々と退会していく状況を正視できず、会員が誰もいなくなって初めて自分の愚かさに気が付くことでしょう。いや、それでも気が付かず、本願寺の陰謀と一人で喚き続けるかもしれません。

お目出度いことです。

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2012年11月 9日 (金)

雑行を捨てることのできない「宿善なき機」

前回までの復習も兼ねて、宿善についてもう少し述べておきます。
今日の真宗における宿善の概念を確立されたのが覚如上人です。親鸞聖人までは、宿善とは過去世の善根という意味で用いられていまして、この意味での無宿善の者でも救われるのが18願であり、それを親鸞聖人までの善知識方は教えられています。たとえば、法然上人は、『拾遺語灯録』

弥陀は悪業深重の者を来迎し給ふちからましますと、おぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号をとなふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。

と仰っています。過去世の善根の有る無しは、18願の救いとは関係がないのです。

ところが覚如上人は親鸞聖人まで使われていた宿善の意味を変えられました。覚如上人は阿弥陀仏のお育て、という意味で宿善を定義されました。阿弥陀仏のお育てによる不思議な御縁によって、18願の教えを聞き、18願だけでいいと思う人を「宿善のある機」「浄土教を信受する機」「過去の宿善あつきもの」と覚如上人は仰って、そんな人は「今生にこの教にあうてまさに信楽す」と教えられているのです。
一方で「宿善なき機」「浄土教を信受せざる機」「宿福なきもの」にとっては、「今生にこの教にあうてまさに信楽す」が難しく、「難信」なのです。

ところで存覚上人は、親鸞会のアニメで50回以上出てくる「一向専念無量寿仏」とこの「難信」との関係について、『持名鈔』で教えられています。

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

 しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

前半は以前にも何回か『選択本願念仏集』の御文を紹介した通り、「一向専念無量寿仏」とは「諸行をまじふべからず」という専修念仏のことを言われています。これは浄土門の常識ですが、それさえも高森会長は知らず、あのアニメで意味も知らないのに「一向専念無量寿仏」を連発し、無知を晒しています。
後半では、高森会長の好きな「難きがなかに難し」の理由について書かれています。

いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ

会員の立場で言うならば、

高森会長から聞いてきた宿善、19願の実践が18願の救いとは無関係に思えず、雑行(19願・諸善)をすてるためにはまず雑行をしなければと思い

ということです。
つまり「諸行をまじふべからず」の「一向専念無量寿仏」が信じられないのです。言葉を替えれば、「もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ」「如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむ」のです。もっと言えば、雑行を捨てて専修念仏になることを拒んでいるのです。

以前に、会員と思われる方がコメント欄で「信一念まで雑行は捨てられない」と主張し続けていましたが、18願だけでいいと思い、「如来の功徳」と「念仏のちから」を信じたならば、念仏1つになり、もちろん信前に雑行は捨てることができるのです。
当たり前過ぎることですが、この当たり前のことがなぜ判らないのかといえば、
もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ」がある「宿善なき機」「浄土教を信受せざる機」「宿福なきもの」にとっては、雑行を捨てることさえ「難きがなかに難し」と勝手に思い込んでしまうからです。

雑行を捨てるには雑行を捨てようと思うだけのことで簡単なことですが、18願の救いには雑行が必要だという思いが捨てられないと「難きがなかに難し」です。

これだけ言えば、誰でも判る筈ですが、判らない会員がいて残念です。

まことに宿善まかせとはいいながら…

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2012年11月 6日 (火)

「難信」と宿善との関係

これまで「難信」について述べてきました。簡単にまとめますと、「難信」とは、

18願1つでの救いを願い求めながら、救われることが「難しい」

という意味ではなく、

18願だけでいい、と善知識方が教えられているのにも関わらず、まずは19願を通らなければ、あるいは善をしなければ、という聖道門的、世間的な考え方に囚われて、18願だけでいい、と信じることが「難しい」

ということです。
それを覚如上人は、『口伝鈔』

性相に封ぜられて、ひとのこころおほく迷ひて、この義勢におきて疑をいだく。

聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふ

と仰っていることも述べました。聖道門の考え方、罪福の自業自得の道理という概念が邪魔をして本願力回向を疑うのです

このことと、宿善との関係については、『改邪鈔』

宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば

と教えられています。これを更に、『口伝鈔』

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。

と教えられています。同じことです。

過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。

とは、「宿善のある機」「浄土教を信受する機」「過去の宿善あつきもの」は、18願の教えに遇って獲信できます、ということです。しかし、

宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。

と、「宿善なき機浄土教を信受せざる機」「宿福なきもの」は、18願の教えに遇っても、それをそのまま受け取らずに、勝手なはからいを入れるから、遇っていないのと同じ、と仰っています。
宿善なき機」浄土教を信受せざる機」「宿福なきもの」とは、まさしく親鸞会の会員のことです。

以上を承けられて蓮如上人は『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。

と仰っています。
覚如上人と蓮如上人のお言葉は
宿善のある機
=「浄土教を信受する機
=「過去の宿善あつきもの
=「宿善の機
=「宿善開発の機
ということであり、このような機は「おのづから信を決定すべし」です。18願だけでいい、となっている人は、人によって時間の差はありますが、獲信は容易いということです。

同じく
宿善なき機
浄土教を信受せざる機
=「宿福なきもの
=「無宿善の機
ということであり、このような機は「信心をとりがたし」です。18願だけでは駄目だ、19願を通らねば、善をしなければ、としか思えない人は、獲信は難しいということです

このような
宿善なき機
浄土教を信受せざる機
=「宿福なきもの
=「無宿善の機
が非常に多いので、「難信」と言われるのです。

ところで、高森会長の説によると、獲信したら、「逆謗の屍」「極重の悪人」「地獄一定」と必ず知らされることになっています。一方で、過去世からの善根が多い人が救われるのなら、獲信した人は未信の人よりも過去世からの善根が多い、と知らされることになります。
矛盾も甚だしいことです。
「逆謗の屍」「極重の悪人」「地獄一定」と知らされた人ならば、他の人よりも善根が少ない、善根がない、と知らされねばなりませんし、他の人よりも善根が多いと知らされたならば、他の人よりは善人と知らされることになります。

まあ、「逆謗の屍」「極重の悪人」「地獄一定」も軽いですし、善根の意味も判っていませんから、親鸞会は求道ごっこ、獲信ごっこですね。

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2012年11月 5日 (月)

「世間甚難信」と「世間甚易信」

最近の顕正新聞などを見ると、アニメを見ることがやたら推奨されています。アニメの内容に問題があることは言うまでもないのですが、高森会長の説法・座談会よりは余程ましです。アニメには大沼師からのパクリ損ない「親鸞聖人の教えの根基は三願転入」もなければ、宿善論もありません。親鸞聖人の比叡山での御修行の強調と、韋提希が定善をしようとしていることくらいで、善の勧めがありません。アニメで繰り返し出てくることは、「一向専念無量寿仏」です。
このことからも親鸞聖人の教えに善の勧めがないことを、高森会長も判っているのです。それで、説法・座談会に比べて非難を受けにくいアニメの推奨しているという訳です。つまり、善の勧めの有無を使い分けたダブルスタンダードです。

ここ最近の傾向として、マインドコントロールのよく効いた会員だけでも騙し通せればいい、くらいに騙しのレベルが下がってきています。度重なる財施から教義に疑問を持った会員を説得するだけの詭弁も尽きています。

さて、高森会長と組織からの理不尽な要求に堪えて会員に留まれる”善人”にとりましては、善もせずして阿弥陀仏に救われることなど考えられないことだと思います。それを

難信

と教えられているのです。長い長い求道が必要だから難信なのではなく、求道の要らない教えであるから難信なのです。

このことを親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「世間甚難信」については更に、元照律師の弟子の顕した『聞持記』を引かれて

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはちコ売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。
「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と解説なされています。「屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法」である18願は、「甚難信」の法ということです。「善悪を選ばず」であり「ただ十念によりてすなはち超往を得」とは、18願の救いには善が全く必要がないのです。従って、「甚難信」の法とは、「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」という意味です。

親鸞会の幹部会員が救われないのは、財施などの善が足りないからでも、高森会長の話を真剣に聞いていないからでもなく、「世間甚難信」つまり「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」を「世間甚易信」つまり「自分の常識で判断した信じやすい卑しい教え」に貶めているからです。

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2012年11月 2日 (金)

真宗別途の他力を疑ふ宿善薄き親鸞会会員

浄土真宗における宿善の有無、あるいは宿善の厚薄というのは、過去世の善根ということではなく、阿弥陀仏のお育て、という意味で使われることは、前回述べました。
その心は、阿弥陀仏の18願を信じて受け入れることができる人と、信じることも受け入れることもできない人とに分かれるのは、過去世の善根という単純な理屈では説明ができないからです。

そのことが端的に判るのが覚如上人のお言葉です。『口伝鈔』で、親鸞会の会員の心を見透かされたように説明されています。

 おほよそ凡夫の報土に入ることをば、諸宗ゆるさざるところなり。しかるに、浄土真宗において善導家の御こころ、安養浄土をば報仏報土と定め、入るところの機をばさかりに凡夫と談ず。

 このこと性相の耳を驚かすことなり。さればかの性相に封ぜられて、ひとのこころおほく迷ひて、この義勢におきて疑をいだく。その疑のきざすところは、かならずしも弥陀超世の悲願を、さることあらじと疑ひたてまつるまではなけれども、わが身の分を卑下して、そのことわりをわきまへしりて、聖道門よりは凡夫報土に入るべからざる道理をうかべて、その比量をもつていまの真宗を疑ふまでの人はまれなれども、聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふこと、かつは無明に痴惑せられたるゆゑなり、かつは明師にあはざるがいたすところなり。そのゆゑは、「浄土宗のこころ、もと凡夫のためにして聖人のためにあらず」(遊心安楽道)と[云々]。しかれば貪欲もふかく、瞋恚もたけく、愚痴もさかりならんにつけても、今度の順次の往生は、仏語に虚妄なければいよいよ必定とおもふべし

(石田瑞磨著著『親鸞全集』による現代語訳)

 おおよそ、愚かなひとが真実の浄土にはいるということは、諸宗では許されないところである。ところが、浄土真宗では、善導大師を奉ずるひとたちのお考えとしては、安養浄土をば、かつて立てた誓いをなしとげてその報いとしてあらわれた真実の仏が報いとしてえられた真実の浄土であると定め、そこにはいることのできるひとはまさに愚かなひとなのである、と説いている。

このことは聖道門の教えを奉ずるひとの耳を驚かすことである。だから、聖道門の考えに閉じこめられて、多くのひとは心に迷いを生じ、その勢いの赴くところ、疑いを抱くようになる。その疑いがきざすところは、阿弥陀仏の、世に超えすぐれた大慈悲の誓いについて、かならずしもそんなことがあるわけがない、と疑うようになっているほどのものではないし、またわが身のほどを卑下して分相応のものしかえられないという理屈を弁え知ったうえで、聖道門によるかぎりは愚かなひとは真実の浄土にはいることはできない、という道理を思い浮べて、こうした対比によって、いまの真宗の教えを疑うようになっているほどのひともごく稀である。しかしそうではあるけれども、聖道門の教えが世に行われているのを、どういうこともなく、耳に触れて聞きなれたためか、多くのひとは、これに妨げられて、真宗独特の他力の教えを疑っている。これは一つには智慧の勝れた師に逢わないことがもたらした結果である。このように考えられるわけは、浄土の教えのこころは、本来、愚かなひとを目当てとし、行い澄ました聖人のためにあるのではない、といわれることである。こうしたわけであるから、貪りの心深く、怒りの心はげしく、心の暗い愚かさがさかんになるにつけても、このたび来世でかならず浄土に生れるということは、仏の言葉にうそいつわりはないから、いよいよ決定的である、と思わなければならない。

とあります。聖道門の論理は理解しやすく、信じやすいのです。それは罪福の因果の道理から説明されているからです。それに対して18願の論理は、「性相の耳を驚かすことなり」です。過去世もそして現在世も、善根に励む聖道門の人には、18願の教えは到底受け入れることができず、

聖道の性相世に流布するを、なにとなく耳にふれならひたるゆゑか、おほくこれにふせがれて真宗別途の他力を疑ふこと、かつは無明に痴惑せられたるゆゑなり、かつは明師にあはざるがいたすところなり。

と親鸞会の会員の現状を指摘されています。
高森会長の論理は、聖道門の論理であり、会員はそんな教えが染みついて離れないのです。会員は「明師にあはざるがいたすところなり」であるが故に、18願の教えを信じ受け入れることのできない宿善薄き者となってしまっているのです。

親鸞会の会員にとって18願の救いを「難信」としか思えない理由は、「明師にあはざるがいたすところなり」だからです。
つまり高森会長を「明師」と思っている間は、いつまでたっても「真宗別途の他力を疑ふ」状態であり、18願だけでいい、という歴代の善知識方の御教導をないがしろにしたままということです。

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