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2012年10月23日 (火)

「真実の信楽まことに獲ること難し」と「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」

親鸞会の会員を、20年・30年・40年と続けてきた方が、ここ数年、次々と退会しています。今でもその傾向は続いています。
退会の理由は、親鸞会にいては獲信することはできない、教義が間違っていることが判った、という親鸞会の存在意義を根本的に否定するものばかりです。
親鸞会が教義の間違いをいくら誤魔化したところで、どこまでも誤魔化しきれるものではありませんから、当然の流れです。

さて、親鸞会の会員はもちろんですが、退会者でも、獲信は極めて難しいことだ、と思っている方が少なくないようです。確かに、親鸞聖人は「真実の信楽まことに獲ること難し」と仰っています。

『教行信証』信巻

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

(現代語訳)

ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

とあります。「真実の信楽」は「如来の加威力」と「大悲広慧の力」によって獲られるものなのに、自分で何かをしなければならないという愚かな計らいを入れるから、難しいのです。
具体的には、高森会長の説く因果の道理と「真実の信楽とが関係あるとか、過去に行ってきた善やこれから行うであろう善と「真実の信楽とが関係あるとか、19願を通らなければ「真実の信楽」を獲られない、とかいう愚かな計らいです。
如来の加威力」と「大悲広慧の力」とは、衆生に何か用意してくることを期待したものではありません。世間的な発想や、聖道門的な発想とは別次元であるのが如来の加威力」と「大悲広慧の力」ですが、それを同次元に思うから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。逆にいえば、親鸞会で聞いてきたような世間的な発想や、聖道門的な発想をすべて捨てされば、「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。

信巻には、また

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

とあります。高森会長の邪説を払拭すれば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」です。高森会長の邪説をいつまでも引き摺っていることを、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と言われているのです。聖教に書かれた通りにそのまま従えば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」ですが、聖教を額面通りに受け取らず、裏を詮索するのを「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と非難されているのです。

真実の信楽まことに獲ること難し」の意味がお判りいただければ、あとは「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」と知らされるのも間もなくでしょう。

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コメント

親鸞会で10年にもわたって染み付いた思考を改めるというのは大変です。

どうしても何か激しく、熱心に、命懸けで求めきった所に真実の信楽があるように思えてしまうんですよね。

何か仏法の本を読んだり、飛雲を読んでも、その後に「頑張って求めねば」という考えになってしまいます。

信は願より生ずれば念仏成仏自然なり

この高僧和讃をふと思い出しました。

投稿: | 2012年10月24日 (水) 01時24分

名無し 様

心情はよく判ります。敢えて言うならば、
「頑張って邪義を振り払って、仏願の生起本末を聞き求めねば」
でしょう。もちろん、「聞き求める」を自力と捉えては問題がありますが、
「邪義を振り払い、仏願の生起本末を素直に受け入れる」
という心にすることも必要です。
会員歴の長い人、熱心に会員を続けてきた人は、そうでない人に比べてハンディがあるようなものです。
しかし、親鸞聖人も20年の比叡山の教えを即座に捨てられましたので、心がけ次第でしょう。

投稿: 飛雲 | 2012年10月24日 (水) 07時12分

観無量寿にここを去るところ遠からず、というのが最初の方にあったと思います。

十九願以前にある気がします。

投稿: 般若 | 2012年10月24日 (水) 10時37分

般若 様

定善を説かれる前ですね。

投稿: 飛雲 | 2012年10月26日 (金) 20時20分

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