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2012年10月31日 (水)

会員最後の砦、「宿善」の定義

長年親鸞会の会員を続けてきて、高森会長の教えに間違いがあることに気が付いても会員を辞めるまでに至らない方があります。そんな方が高森邪義で最後に引っ掛かっているのが宿善です。

宿善の「善」に騙されるのですが、高森会長も講師部員も、もちろん会員も宿善の定義を知らないのです。過去に何度も書いてきたことですが、再度書いておきます。

宿善は、通仏教では、過去世の善根という意味で使われます。その元となったのが、天台智顗が著したとされる『浄土十疑論』の、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

です。五逆罪を犯した者が、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げるのは、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったからだと解釈したのです。もちろん、『観無量寿経』下品下生の往生について言われたものです。

しかしここには、矛盾があります。源信僧都は『往生要集』でそのことを問題提起されていますが、聖覚法印も『唯信鈔』

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。聖道門でいう因果の道理に照らして考えると、過去世に善根を積んできた人は今生でも善根を積もうと励み悪を慎む心がある筈です。そうなると五逆罪の者は、過去世に善根を積んできた人なのかどうか疑問が出てくるのですが、五逆罪を犯した者でさえも宿善があるのなら、五逆罪を犯していない私たちは、なお宿善があることになります。
同じことを覚如上人も『口伝鈔』

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ
(中略)
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。


(現代語訳)

こうしたわけだから、生れつき具えている善・悪のいずれも、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは、勿論である。
(中略)
したがって、過去世の善根厚いものは、この世においても善を好み悪を恐れるが、過去世で重い罪を造ってきたものは、この世でも悪を造ることを好み、善をしようとはしない。過去世で行った善悪の2つは過去の種まきとして、往生という大益は、阿弥陀仏の本願他力にまかせるべきです。決して自分の過去世現在世の善し悪しにとらわれて往生ができるかできないかの判定をしてはならないのです。

と仰っています。なお、中略の前の部分は、親鸞聖人の仰ったこととして、覚如上人が書かれたものです。
ところが高森会長は『本願寺なぜ答えぬ』で

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と断言しているのです。『会報』第3集にも

過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

と同様のことを書いています。

高森会長の説明と『唯信鈔』『口伝鈔』を照らし合わせてみてみると

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、『口伝鈔』の「しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり」を言いかえると

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

ということになり、高森会長の宿善論を完全に否定されているのです。
それで、浄土真宗では宿善を、18願を聞いて願い求める縁であり、それは阿弥陀仏の不思議なお育て、という意味で使われます。

その意味で、『口伝鈔』では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

(現代語訳)

十方衆生の中に、阿弥陀仏の18願を信じて受け入れるものもあれば、信じられず受け入れることのできないものがいる。なぜかといえば、『大無量寿経』にも説かれているように、過去の宿善の厚いものは今生にこの教えに遇えば信じて救われるが、宿善のないものはこの教え遇っても信じて念仏することがないから遇わないのと同じである。「欲知過去因」とあるように、今生で18願を信じられるか信じられないかによって宿善の有無が明らかにわかる。

と教えられています。

宿善あつきもの=浄土教を信受する機
宿福なきもの=信受せざる機

です。
また『改邪鈔』には、

宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば

(現代語訳)

宿善のあるものは、正しい教えを説く善知識に親しむのであり、招かれなくても人を惑わすことのない教えには必ず近づくものである。宿善のないものは、招かれなくても自分から悪知識に近づいて善知識から遠ざかるものであるから

とあります。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。
過去世にどんな因縁かあったのかはわかりませんが、18願の教えを聞いて信じ求めている人は宿善のある人であり、外道や聖道門、19願に迷って、18願を信じることのできない人は宿善のない人ということです。この宿善の有無は、往生・獲信と極めて深い関係にありますので、蓮如上人も五重の義の一番最初に宿善を挙げておられるのです。宿善のある人は二番目の善知識に遇えるということです。

高森顕徹会長の説を否定されているのが、歴代の善知識方です。

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コメント

親鸞会の宿善は高森を求道の条件にしたいバイアスなんじゃないでしょうか

講演で刷り込み宿善ポイントで自己洗脳

ただ親鸞会の人達は単に条件反射しているにすぎないのではないでしょうか

その度合いを計って宿善を積むだの横の道が進んだだの信仰が進んだだの

実際はパブロフが深化したのではないのでしょうか

重ねて聴聞も刷り込みと反復作用で重度の患者に仕立て、離れれば剥がれるものだから、また次回とか言うのではないのでしょうか

高森以外から聞いて救われない理由でもあるのでしょうか

高森を通してしか救わないのか救われるところまでいけないのならそのようにできる人だけでしょうが、それには観無量寿経の定善散善をするために親鸞会をやめて天台宗か浄土宗に改宗しなければいけない

このように考えていけば親鸞会の宿善は人心掌握のための架空のシステムではないでしょうか

投稿: たらい回し | 2012年11月 1日 (木) 19時50分

たらい回し 様

>親鸞会の宿善は人心掌握のための架空のシステムではないでしょうか

その通りかもしれませんね。

投稿: 飛雲 | 2012年11月 2日 (金) 18時27分

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