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2012年10月 6日 (土)

真実の証果

真実の行と真実の信によって、真実の証を得ることができます。一方で、方便の行と方便の信によっては、方便の証を得ることになります。そのことを説明されているのが、『三経往生文類』です。

方便だからすべての人に必ず必要なものだ

とか寝恍けたことをいうのが高森会長ですが、真実を信じる気のない人がいるから仮に方便として説かれているのであって、方便を方便と知り、真実を求める気のある人には、不要なものです。それで、親鸞聖人は真実と方便とを比較なされて、方便に迷うなと誡められているだけです。

前回、真実の行と真実の信についての御文を紹介しましたので、その続きで真実の証について、現代語訳をつけて紹介しておきます。

 また真実証果あり。すなはち必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。[文]
 同本異訳の『無量寿如来会』にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」と。[文]
 『無量寿如来会』にのたまはく、「他方仏国の諸有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜愛楽せん。あらゆる善根回向して、無量寿国に生れんと願ぜば、願に随うてみな生れて、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間と正法を誹謗し、および聖者を謗ぜんをば除かん」と。 必至滅度・証大涅槃の願(第十一願)成就の文、『大経』にのたまはく、 「それ衆生あつてかの国に生れんもの、みなことごとく正定の聚に住せん。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」。[文]
 また、『如来会』にのたまはく、 「かの国の衆生と、もしまさに生れんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し涅槃の処に到らん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」と。{以上抄要}

 この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。この正定聚に住するを等正覚を成るとものたまへるなり。等正覚と申すは、すなはち補処の弥勒菩薩とおなじ位となると説きたまへり。しかれば、『大経』には「次如弥勒」とのたまへり。
 『浄土論』(論註)にいはく、「〈荘厳妙声功徳成就は、偈に《梵声悟深遠微妙聞十方》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なるや。『経』(平等覚経)にのたまはく、〈もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生れんと願ずると、また往生を得ると、すなはち正定聚に入る〉と。
これはこれ国土の名字、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。{乃至}〈荘厳眷属功徳成就は、偈に《如来浄華衆正覚華化生》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界は、もしは胎もしは卵、もしは湿もしは化、眷属そこばくなり、苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来の正覚浄華の化生する所にあらざることなし。 同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるにそれ四海の内みな兄弟とするなり、眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」。
 また、のたまはく(論註)、「往生を願ずるもの、本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なることなし。また淄澠の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや」。{以上}
 また、『論』(同)にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就は、偈に《観彼世界相勝過三界道》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるあつて、またかの浄土に生を得るに、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得。いづくんぞ思議すべきや」。{以上抄要}

 この阿弥陀如来の往相回向の選択本願をみたてまつるなり。これを難思議往生と申す。これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

(現代語訳)

 また真実の証がある。これはすなわち、慈悲の心からおこしてくださった必至滅土の願(第十一願)に示されている。その証果の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、わたしの国のものが正定聚の位にあり、必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」
 同じ経典の異訳である『如来会』に説かれている。
 「わたしが仏になるとき、わたしの国のものが間違いなく等正覚を成就し、大涅槃をさとることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」
 また『如来会』に説かれている。
 「他の国のすべてのものが、無量寿如来の名号のいわれを聞き、たちどころに清らかな信をおこして歓喜し、すべての功徳をおさめた名号を与えられ、無量寿如来の国に生れようろ願うなら、願いどおりにみな往生し、不退転の位を得て、この上ないさとりを開くことができる。ただし、無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、仏法や聖者たちを謗るものだけは除かれる」
 必至滅土・証大涅槃の願(第十一願)が成就したことを示す文は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「浄土に生れるものは、すべてみな正定聚の位にある。なぜなら、阿弥陀仏の浄土には邪定聚や不定聚のものはいないからである」
 また『如来会』に説かれている。
 「浄土に生れたものも、まさに生れようとするものもみな、必ずこの上ないさとりをきわめ、涅槃に至るであろう。なぜなら、邪定聚や不定聚のものは、浄土に往生する因が設けられていることを知らず、往生することができないからである」

 この真実の称名と真実の信楽を得た人を、ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになったのである。この正定聚の位に定まることを、等正覚を成就するともいわれている。等正覚というのは、すなわち一生補処の弥勒菩薩と同じ位になることである。だから、『無量寿経』には、「次如弥勒(次いで弥勒のごとし)」と説かれている。
 『往生論註』に説かれている。
 「〈荘厳妙声功徳成就とは、願生偈に、《清らかなさとりの声は実に奥深くすぐれて、いて、すべての世界に響きわたる》といわれている〉と『浄土論』に述べられている。これがなぜ不思議なのであろうか。経典に、〈阿弥陀仏の浄土が清く安らかであることを聞いて、他力の信を得て往生しようと願うものと、また往生したものとは、ともに正定聚に入る〉と説かれている。これはその浄土の名そのものがすべてのものを救うはたらきをするのである。どうして思いはかることができようか。(中略)また〈荘厳眷属功徳成就とは、願生偈に、《浄土の清らかな方々は、みな如来のさとりの花から化生する》といわれている〉と『浄土論』に述べられている。これがなぜ不可思議なのであろうか。この世界には、胎生や卵生や湿生や化生というさまざまな生れ方をするものが多くいて、そこで受ける苦も楽も千差万別である。それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。しかし、浄土では、みな阿弥陀如来の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏するものはみな兄弟となるのであり、浄土の仲間は数限りない。どうして思いはかることができようか」
 また『往生論註』にいわれている。
 「浄土への往生を願うものは、この世では九品の違いはあっても、往生してからは何の違いもない。それは淄川の水も澠川の水も海に入れば一つの味になるようなものである。どうして思いはかることができようか」
 また『往生論註』にいわれている。
 「〈荘厳清浄功徳成就とは、願生偈に、《浄土のあり方を観ずると、迷いの世界を超えている》といわれている〉と『浄土論』に述べられている。これがなぜ不可思議なのであろうか。あらゆる煩悩をそなえた凡夫が、阿弥陀仏の浄土に生れると、迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、もはやその力を失う。これは自ら煩悩を断ち切らずに、そのまま浄土で涅槃のさとりを得るということである。どうして思いはかることができようか」

 こうした、阿弥陀如来によって選び取られた往相回向の本願のはたらきについて、うかがってきたのである。これを「難思議往生」という。このことを心得て、他力においては自力のはからいがまじらないことを根本の法義とすると知らねばならない。

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コメント

会員は「方便だからすべての人に必ず必要なものだ」とか「全ての人は方便を通るのだ」などと刷り込まれているようなので、善巧方便と権仮方便についても説明したほうが良いかも知れませんね。

投稿: | 2012年10月 7日 (日) 19時05分

名無し 様

善巧方便と権仮方便については、これまでに何度も述べてきました。しかし、最近コメントをしている会員は、過去のエントリーをほとんど読んでいないようですので、またどこかで説明したいと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 7日 (日) 19時55分

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