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2012年10月12日 (金)

「いかにして高森会長の御こころにかなはんずるとおもひ、高森会長に追従して」で救われることがあるか?

親鸞会の会員も、そして退会者も知りたい、念仏と信心との関係及びどうすれば信心を頂けるのかについても『安心決定鈔』で教えられています。

念仏三昧の領解ひらけなば、身もこころも南無阿弥陀仏〔に〕なりかへりて、その領解ことばにあらはるるとき、南無阿弥陀仏と申すがうるはしき弘願の念仏にてあるなり。念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず、阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふなり。
さてこの領解をことわりあらはせば、南無阿弥陀仏といふにてあるなり。この仏の心は大慈悲を本とするゆゑに、愚鈍の衆生をわたしたまふをさきとするゆゑに、名体不二の正覚をとなへましますゆゑに、仏体も名におもむき、名に体の功徳を具足するゆゑに、なにとはかばかしくしらねども、平信のひともとなふれば往生するなり。されども下根の凡夫なるゆゑに、そぞろにひら信じもかなふべからず、そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり。

(現代語訳)

仏の御名の力で参らせて頂くという念仏三昧のお謂れが信じられれば、身も心も全く南無阿弥陀仏になってしまう。そうしてその信心が言葉に顕われて南無阿弥陀仏と称えるのが麗しい第十八願の念仏である。大体、念仏と申すのは、口に南無阿弥陀仏と称えるばかりを申すのではない。阿弥陀の四字のなかに籠められてある功徳が、我々の信ずる南無の心に入り満ちてお助け下さるというお謂れが、十劫以前に仏が正覚を御成就あそばしたその時からできているから、お助けに預かると信じられた信心の起ったのを念仏というのである。

その信心領解を言葉に顕わしたのが、南無阿弥陀仏という称名である。この仏のお心は、大慈悲が本であるから、愚鈍な衆生をたすくることを何よりも先とせられる。愚鈍な衆生が受取り易いように、仏体のままを御名に顕わされて名体不二の正覚を得られた。それであるから仏体はそのまま御名の中に入り込んで御名に仏体の功徳がそなわる。何の道理理屈を知らなくてもそのまま平に信じて、御名を称えている人は浄土に生るるのである。左様ではあるが、下根の凡夫のことであるから、理屈なしで平に信ずることもできぬ。詳しく法義を聞き開きて信心が起るのである。

最後の「そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり」が、重要です。「そのことわり」とは、前回でいえば、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」です。高森会長の強調する”因果の道理”を何百年聞いていても信心は頂けません。当たり前です。高森会長の強調する”因果の道理”を「超異」した「別異の弘願」を聞かなければ、「下根の凡夫なるゆゑに、そぞろにひら信じもかなふべからず」です。

次に自力の念仏について説明されています。

自力のひとの念仏は、仏をばさしのけて西方におき、わが身をばしらじらとある凡夫にて、ときどきこころに仏の他力をおもひ名号をとなふるゆゑに、仏と衆生とうとうとしくして、いささか道心おこりたるときは、往生もちかくおぼえ、念仏もものうく道心もさめたるときは、往生もきはめて不定なり。凡夫のこころとしては、道心をおこすこともまれなれば、つねには往生不定の身なり。もしやもしやとまてども往生は臨終までおもひさだむることなきゆゑに、口にときどき名号をとなふれども、たのみがたき往生なり。たとへばときどきひとに見参、みやづかひみやづかひするに似たり。そのゆゑは、いかにして仏の御こころにかなはんずるとおもひ、仏に追従して往生の御恩をもかぶらんずるやうにおもふほどに、機の安心と仏の大悲とがはなればなれにて、つねに仏にうとき身なり。この位にてはまことにきはめて往生不定なり。

(現代語訳)

自力の人の念仏は、仏をばさしのけて、遠く西方浄土において、我が身をば仏と無関係な凡夫として折りに触れて、時々仏の他力のことを思うて御名を称えているのであるから、仏と衆生とが、どうしても疎遠になって、少しでもありがたい道心らしい心でも起ると、往生も遂げられるように思われ、もしそうでなくて、念仏も懈怠になり、ありがたい心も失せてしまったときには、往生もできまいかと心配して、往生は極めて不定である。ところが、凡夫としては、そのありがたい道心を起すことも、極稀であるから、常に往生は、できまいかと心配しなければならぬ身である。そのうちには往生のさだまる時があろうかと待っても、往生は臨終まで思い定められるときはない。それゆえに、口には時々御名を称えても、往生はあてになりがたいのである。
それをたとえて申すならば、ときどき主君に目見えし奉公するようなものである。その理由は自力の人はどうかして仏の御心にかなおうと心配し、仏に追従して、往生させて頂く御恵みに預かろうと思うのであるから、その衆生の安心と仏の大慈悲心とは、しっくり合わなくて、離れ離れであって、常に仏とは疎遠な身である。そのようなことでは、まことにきわめて往生は不定である。

自力のひとの念仏」は、「仏と衆生とうとうとしくして」「つねに仏にうとき身」なのです。阿弥陀仏が遠い存在になっているのです。
それでも親鸞会の会員に比べたら、まだましです。親鸞会の会員は「自力のひとの念仏」も称えないのですし、「仏と衆生とうとうとしくして」「つねに仏にうとき身」以前の問題として、阿弥陀仏と会員との間に高森会長を挟んで、しかも

高森会長と会員とうとしくして

です。会員からしても高森会長が遠いのです。高森会長の直弟子である筈の講師部員でさえ、高森会長と直接話をしたこともない有様です。

自力の念仏者は「いかにして仏の御こころにかなはんずるとおもひ、仏に追従して」ですが、会員はそれさえもできない

いかにして高森会長の御こころにかなはんずるとおもひ、高森会長に追従して

ですから、こんなことでは昿劫多生を経ても、信心が頂けることなどありません。

どの聖教にも、親鸞会の会員が救われない理由が明示されています。

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コメント

安心決定鈔はやっぱり素晴らしい。横にいて指導していただくようにありがたい。

それにしても親鸞会はどうしてこのように有難い先人の書物を全文勧めないのだろうか。
自分達が必要なくなるのが恐ろしいからか。
それとも日蓮さんの生まれ変わりだからか。
日蓮系の刺客なのかな。
それともM十三青雲から来た異星人かしら。

ふと異邦人の歌が頭に流れました。

投稿: 廃棄物 | 2012年10月13日 (土) 00時33分

廃棄物 様

高森会長は、安心決定鈔を読んでいません。
仮に読んでいたとしても、意味を理解することができません。
有り得ないことですが、高森会長が安心決定鈔の内容を正しく理解していたと仮定しても、都合が悪いので会員に勧めることはしません。

どの場合であってでも、安心決定鈔、その他の聖教を読むように勧めることはありません。今は、真宗聖典どころか御文章も指定個所以外は読んではならないことになっています。

酷いものです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月13日 (土) 20時14分

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