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2012年10月 9日 (火)

法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛されているのが『安心決定鈔』です。

『安心決定鈔』は最初に、衆生の往生と阿弥陀仏の正覚の機法一体について説示され、

仏は衆生にかはりて願と行とを円満して、われらが往生をすでにしたためたまふなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひしなり。
かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。

(現代語訳)

仏のお手元では、衆生に代って、衆生が浄土往生の為になくてはならない願と行とを、欠け目なくととのえてあげて、我々の浄土往生ということがすでに明らかに認められるのである。
このように十方の衆生の願行が欠け目なくととのえられて、浄土往生ということができあがったとき、仏の正覚はできたのである。それで仏の正覚は機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのである。このような訳であるから、仏の正覚の外に我々凡夫の往生と言うことはないのである。十方の衆生の浄土往生がととのったとき仏も正覚を得られたのであるから、仏が正覚を得られたときと、我々凡夫の往生がととのった時とは前後はなく同時である。仏のお手元から申すならば、我々衆生の往生はすでにととのっている。けれども、衆生がこのお謂れを信じさせて頂くことが同一様でないから、往生する事実においては前後があり、これより前にすでに往生した人もあり、現に今往生する人もあり、これから後に当に往生すべきひともある。このように人々によって往生することは過去・現在・未来と三世にわかれて同一様ではない。けれども、仏が衆生にかわって衆生の往生をととのえあげて自分の正覚を得られた一念そのものの外に、衆生の方からいささかでも更に付け加えるということはないのである。

と述べられています。
ここで、「衆生がこのことわりをしること」が信心ということです。親鸞会ならば、十劫安心と貶すところでしょう。
この信心については、この後様々な表現がされています。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行でないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたからである。此仏が凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたことを領解させて頂いて、仏に救わるる事となったのを三心(至誠心・深心・回向発願心)とも三信(至心・信楽・欲生我国)とも信心ともお示し下されている。かように仏が凡夫の願行を御名に成就して下されてあるのを口に称えあらわす、それが南無阿弥陀仏の称名念仏である。
このような訳で、仏が凡夫の願行を成就して下されたことを領解し、称うるのであるから、領解も自分の機の力であると自分に功を認めなくて、全く仏の願力であると功を願力にもどし、全く他力を仰ぐのである。以上、申したようなわけであるから、浄土門の教義は、つまり第十八願のお謂れを、よくよく心得さして頂くより外のことは、ないのである。

法蔵菩薩の五劫兆載の願行」によって、「凡夫の願行を成ずる」のであり、「下品下生の失念の称念」も「機の願行にあらずとしるべし」なのです。
これは先の、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり」と同じことです。
また、

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。

(現代語訳)

第十八願のお謂れを心得さして頂くというのは、南無阿弥陀仏の名号のお謂れを心得さして頂くのである。その名号のお謂れを心得さして頂くというのは、阿弥陀仏が我ら衆生に代って我々のもたねばならぬ願行を成就して下され、我等の浄土往生ということが我等がそれを信じない以前に成就されたその時、そのすべての衆生の往生を、仏の正覚、そのものとされたことを領解さして頂くのである。

とも表現されています。
我々が信じる信じない以前に、我々が往生できるようになっているのです。それなのに、何かをしなければならない、と阿弥陀仏から賜る功徳だけでは不足だ、と勝手な計らいをいれて「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」によって成就した「凡夫の願行を撥ねつけるから、往生できないのです。

蓮如上人が絶賛されている理由が、少しでも御理解いただけたでしょうか。

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