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2012年10月11日 (木)

願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず

高森会長は何かの一つ覚えで、「仏教の根幹は因果の道理」だと言い続けていますが、この”因果の道理”を親鸞聖人が教えられているところはないのです。造悪無碍の者に対する誡めのために言われることはあっても、18願の救いに対しては否定された言い方しかされていません。その理由は『安心決定鈔』を読むと判ります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

(現代語訳)

まことに極楽に参りたいと思えば、我々衆生自分にこそ、そのための願を起し行も励まねばならぬのであるのに、その願行は法蔵菩薩のお手元にお励み下されてその出来上がりは我々のものと成就して下された。このように仏のお励み下されたものが、私のものとなるということや、世間や仏法の上に普通いわれる自分のものは自分に造らればならぬという因果の道理には、はるかに超えており、異なっているものである。それで善導大師は『観経疏』玄義分には「別意の弘願」と讃嘆なされてある。その衆生に代って願行を成就せられたことは、迷いの世界に沈んでいるよりほかに仕方のない者を第一として、善人に至るまで一人にでも及ばないならば、仏の大慈悲の願は満足することはできない。衆生の一人一人のための願行が悉く成就したとき、仏は正覚ができ、凡夫は往生ができたと申されるのである。

別異の弘願」は「世間・出世の因果のことわりに超異せり」だからです。「世間・出世の因果のことわり」を強調すればするほど、「別異の弘願」は信じられなくなります。本願力回向は、高森会長の説く”因果の道理”では説明できないことです。空の思想によるものだからです。法蔵菩薩の願行によって得られる功徳を衆生に与えられることを、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」と言われているのです。

では、衆生の方で何もする必要がないから最初から救われているのではないか、という早合点をする人がいますから、そのことについても説明なされています。

かかる不思議の名号、もしきこえざるところあらば正覚取らじと誓ひたまへり。われらすでに阿弥陀といふ名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりといふことを。きくといふは、ただおほやうに名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて疑はざるをきくとはいふなり。御名をきくも本願より成じてきく、一向に他力なり。たとひ凡夫の往生成じたまひたりとも、その願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆゑに名号をききても形像を拝しても、わが往生を成じたまへる御名ときき、「われらをわたさずは仏に成らじと誓ひたまひし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまへる御すがたよ」とおもはざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。

(現代語訳)

その上に仏はその衆生の往生と、仏の正覚とが一緒に成就した不可思議な名号が、何れの世界にも聞こえないところがあるならば、正覚は得まいと誓われた。それに我々はすでに阿弥陀という仏の正覚の御名を現に聞いている。そうすると仏の正覚と一体に、成就される我々の往生は、すでに成就しているということを知らねばならない。その聞くと申すことは、ただおおように御名を聞き流しているのではない。我々が易く助けられる本願他力の不思議を聞いて、更に疑う所のないものを聞くと申すのである。その御名を聞くと申すのも、私の方ではなくて本願他力の上に成就して聞かせていただくのであるから、全分他力である。それであるから、名号を聞いても、自分の浄土往生の成就されてある御名と聞かなかったならば、聞いても聞かないのと同じであり、また御形像を拝んでも衆生を助けないならば、仏にならないとお誓いされた法蔵菩薩の願が無駄でなくて、仏の正覚を成就せられたお姿と思わないならば、拝んでも拝まないのと同じである。

たとひ凡夫の往生成じたまひたりとも、その願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき」です。
高森会長の話を何十年真剣に聞いていても、「きくともきかざるがごとし」にしかなりません。高森会長には自力と他力の水際が説けないのですから、当たり前のことです。

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コメント

ある講師が、本願寺では今法に遇っているのでもう救われているのだと教えていると批難してました。
自力いっぱい善を求めてその自力が廃って信心決定しなければならないということを主張してましたね。
それに騙され長い時間と莫大な精神を消耗させられ全て徒労に終わりました。
自力と他力の水際が説けない会だったわけですね。

投稿: | 2012年10月11日 (木) 16時13分

名無し 様

高森会長には、自力とは何か、他力とは何かという基本的なことが理解できていないのです。大沼師の味わいと高森会長の思いつきで創られたのが、今のヘンテコ教義です。

投稿: 飛雲 | 2012年10月11日 (木) 19時46分

浄土真宗において語られうる衆生成仏の因果の道理は、曇鸞大師が明らかにされ『正信偈』の「天親菩薩論註解」以下に讃じられる阿弥陀如来の他力回向にほかならないところ、高森親鸞会においてはでっち上げの因果、即ち「宿善」と「絶対の幸福」にすりかわっているところに問題があるのでしょう。

投稿: | 2012年10月11日 (木) 22時11分

後の名無し 様

親鸞聖人が報土の因果を教えられたのに対して、高森会長はよく見ても化土の因果、普通に見れば必堕の因果を説いているのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2012年10月12日 (金) 06時33分

親鸞会の講師のなかには勧誘のためには救われたと嘘をいえばいい
他に方法があったら教えてください、と言っていてなかなか反論できませんでした。
特にこうせん部長
なぜああも嘘や詭弁を用いて平気なんでしょう。

親鸞会の姿勢は目的もずれ、目的のためなら手段が正当化されるという危険性がある、と今なら言えます。

嘘のない本願を、聞いていないのに聞いたと嘘をついて勧誘という行を積めば求道になると勘違いさせていました。もう滅茶苦茶です。


ふと思うのですが、このように親鸞会の悪行を推奨したりやったりする人のなかで聞く人と聞かない人がいる気がします。

なぜ分かれるのかもわかりませんがなぜ聞くようになるのかも不思議です。

退会するしないも別の意味で不思議です。

なぜなんでしょう、と一度でなく何度も誰かに聞いてみたい。


最近は聖典等読む時間が減ってしまいました。
紹介していただきありがとうございます。
別異の弘願、すばらしいですね。
因果の道理で六道輪廻に縛られた人を解脱?させる力強さがあると思います。

投稿: 頭お花畑 | 2012年10月12日 (金) 11時59分

頭お花畑 様

聖教は、実に有り難いです。高森会長が如何に出鱈目な人物で、如何に出鱈目なことを言い続けてきたかが判ります。
会員には、聖教を直接読んでもらいたいと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年10月12日 (金) 21時28分

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