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2012年10月 7日 (日)

往相回向と還相回向

真実の行と真実の信、更には真実の証まで、阿弥陀仏が用意して下されて、私たちはそれをそのまま賜るのです。これを往相回向といい、前回までに紹介した『三経往生文類』の御文で親鸞聖人は教えられています。

今回は、還相回向のところです。『三経往生文類』

 二つに還相の回向といふは、『浄土論』にいはく、「本願力の回向をもつてのゆゑに、これを出第五門と名づく」といへり。これは還相の回向なり。一生補処の悲願(第二十二願)にあらはれたり。
 大慈大悲の願(第二十二願)、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生すれば、究竟してかならず一生補処に至る。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除かんと。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」と。[文]
 この悲願は、如来の還相回向の御ちかひなり。

 如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚の位に住するがゆゑに他力と申すなり。しかれば『無量寿経優婆提舎願生偈』にいはく、「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」とのたまへり。
 これは『大無量寿経』の宗致としたまへり。これを難思議往生と申すなり。

(現代語訳)

 二つに、還相の回向というのは、『浄土論』に次のようにいわれている。
 「阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という」
 これは還相の回向であり、慈悲の心からおこしてくださった一生補処の願(第二十二願)に示されている。その大いなる慈悲の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。ただしそれぞれの願いに応じて、自由自在に人々を導くため、かたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、仏がたの国に行って菩薩の行を修め、すべての世界の仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることもできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。もしそうでなければ、わたしは決してさとりを開かない」
 慈悲の心からおこしてくださったこの願は、如来の還相回向のお誓いである。

 如来の二種の回向によって、真実の信楽を得た人は間違いなく正定聚の位に定まるのであるから、他力というのである。そこで『浄土論』にいわれている。
 「回向してくださるということはどういうことであろうか。阿弥陀仏は苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、いつも功徳を与えようと願い、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである」
 これは『無量寿経』に説かれた教えのかなめとされているものである。これを「難思議往生」というのである。

回向について親鸞聖人は『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』を引かれて「一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」と教えています。衆生教化のはたらきまでも阿弥陀仏が与えて下さるのですから、衆生が何かをして補う要素は全くありません。

もちろん、これを拒否していたら真実の利益は受け取ることができません。阿弥陀仏からの賜り物を拒否することを、「仏智不思議を疑う」と言われます。阿弥陀仏がすべてを用意なされているのに、阿弥陀仏のお力に不足があると考えて、罪福の因果をもって何かを加えようとするから、「仏智不思議を疑う」のです。

そのことを『正像末和讃』誡疑讃

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

と仰り、自因自果を信じている人は自因自果の道理によって、報土往生はできず化土往生にしかならない、ということです。
もちろん、浄土を願っているという前提ですので、この前提のない(絶対の幸福を目指している、とか、必堕無間から逃れたいとか思っている)人は化土往生もできません。

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