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2012年10月 5日 (金)

真実の行と信

親鸞聖人は、18願で救われるとはどういうことなのかを、いくつかの御著書で明らかになされています。『教行信証』が最も詳しいのですが、『三経往生文類』には、19願・20願の化土往生と比較なされて、まとめられています。なぜ19願・20願について仰ったのかといえば、それだけ善に拘り、自力念仏に執着する人が当時は非常に多かったからです。三願転入を説かれたのでもなく、19願を勧められたのでもありません。

さて、親鸞聖人は『三経往生文類』で、『教行信証』同様、真実の行を17願、真実の信を18願、真実の証を11願、還相回向を22願で説明なされています。非常に重要なところですので、現代語訳を付けて紹介しておきますが、長くなりますので、今回は真実の行と真実の信についてのところだけです。

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
 称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。[文]

 また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。 信楽の悲願は『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじと。ただ五逆と正法を誹謗せんを除かん」と。[文]
 同本異訳の『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ無上覚を証得せんとき、余の仏刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞きをはりて、所有の善根、心々回向して、わが国に生れんと願じて、乃至十念せん。もし生れずは、菩提を取らじと。ただ無間悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんを除かん」と。[文]

(現代語訳)

 この如来の往相回向について、真実の行がある。これはすなわち、慈悲の心からおこしてくださった諸仏称名の願(第十七願)に示されている。その称名の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなほめたたえて、わたしの名を称えないようなら、わたしは決してさとりを開かない」
 慈悲の心からおこしてくださった称名・信楽の願(第十七・十八願)が成就したことを示す文は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「すべての世界の数限りもない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべてのものは、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うときそのまま往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏法を謗るものだけはのぞかれる」

 また、真実の信がある。これはすなわち、慈悲の心からおこしてくださった念仏往生の願(第十八願)に示されている。この信楽の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、すべてのものがまことの心で信じ喜び、わたしの国に生れようと思って、たとえば十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない。ただし、五逆の罪を犯したり、仏法を謗るものだけは除かれる」
 同じ経典の異訳である『如来会』に説かれている。
 「わたしがこの上ないさとりを得るとき、他の国のものがわたしの名号のいわれを聞いて、すべての功徳をまことの心から与えられ、わたしの国に生れようと願い、たとえば十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、私は決してさとりを開かない。ただし、無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、仏法や聖者たちを謗るものだけは除かれる」

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