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2012年10月29日 (月)

いつもの我田引水

聖教の中に「善」という文字を見つけると、「善を勧められたお言葉だ」と騒ぎ、「十九願」もしくはその同義語を見つけると、「19願を勧められたお言葉だ」と喚き散らすのが親鸞会です。実に幼稚な発想ですが、「方便」についても同じです。
「あさ川進の、宗教と私」で紹介されていましたが、11月1日号の顕正新聞に、最近発見された

如来の遺教を疑謗し
 方便破壊せんものは
 弓削の守屋と思うべし
 親しみ近づくことなかれ

の御和讃について、大々的に取り上げているようです。

「方便」とは「目的を果たすに不可欠な方法手段」

と勝手に定義して、親鸞会の邪義を正当化させるのに必死になっています。この御和讃の正しい意味については、すでに

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」

で解説されていますので、詳しくは述べませんが、一言だけ言えば、

「方便」とは「目的を果たすに不可欠な方法手段」

ではなく、

「方便」とは「方法手段」

ということです。この違いが大違いです。
なお、親鸞会がいつもいうヘンテコ理論については、「一口問答」ですでに述べていますので、関連箇所だけ、取り上げます。

問い

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。

答え

極重悪人唯称仏」(正信偈)も知らないのですか。この元は源信僧都の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)です。また蓮如上人も「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり」(正信偈大意)と教えられています。極重の悪人は、念仏以外の方便(善)はない、唯念仏して極楽に往生できるのだ、ということですが、善知識方の仰せを否定するのですか。
難しい聖教は読めなくても、『正信偈』くらいは読んでおいてください。

問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とは、救われたならば念仏だけということで、そこまで導く善は必要です。『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」と同じことで、真宗の学者が誰も反論できない『歎異抄をひらく』には、
弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである
と解説されていますよ。

答え

ここだけで、高森会長が阿弥陀仏の救いに極めて疎い人物と判ります。
悪人である下品の往生について法然上人は判りやすく、「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)、と解説なされています。この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って善もせず浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇って往生を得る、ということです。救われるまでに善は不要ということが、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」です。
真宗の学者から「われらの相手に非ず」と失笑されていることを知りましょう。

問い

蓮如上人は、「方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」(御一代記聞書)と仰っているように、方便からしか真実に入れず、でしょう。それなのに、念仏が方便とは呆れます。

答え

方便の理解が根本的におかしいですね。蓮如上人が仰っていることは、権仮方便を捨て善巧方便を立て、善巧方便によって真実の信を獲られる、ということです。
善巧方便とは、「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)とあるように、18願他力念仏のことです。親鸞聖人も18願他力念仏について解説なされた『教行信証』信巻で「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と仰ってます。
権仮方便とは、「浄土の要門、方便権仮を顕開す」(教行信証化土巻)とあるように、19願定散二善のことです。
あなたの言葉を正しく修正するなら、善巧方便の念仏からしか真実報土には往けず、ということです。

問い

親鸞聖人は、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。(中略)この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」(一念多念証文)と仰っているように、すべての人に「浄土の方便の善」を勧められているのではないですか。

答え

全く逆です。「浄土の方便の善」「要門・仮門」より「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るように教え勧められた、ということです。もちろん、「浄土の方便の善」「要門・仮門」に迷っている人に対してです。「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」である18願を願い求めている人に、「浄土の方便の善」「要門・仮門」を勧められたという解釈は、どこの世界の文法を使っているのでしょうか。

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コメント

方便 正直 我
と検索したら日蓮系ばかりでてきて浄土門の方便がわからなかった。

日蓮宗系も親鸞会に似ている。

法華経の常不敬菩薩の誰しも仏になられるから軽蔑など争わなかったらしいですが、そちらより常不敬菩薩を誹謗したひとは地獄に落ちたほうに?着目するみたいです。

自分達のことではないか、と思うんですよね。人を恐怖感で縛りたいのでしょうな。

七祖の著作はやっぱり読まないと操られかねませんね。

投稿: MC | 2012年10月29日 (月) 12時07分

余談ですが、この和讃の件、S会の新聞の記事だと「未発見の和讃が見つかった」のか、或いは「(すでに伝わっている和讃の)真筆が見つかった」のかが理解しがたいですが、後者なんですね。真宗聖教全書にも収録されてます。
あと、「本願寺が発表した」などと書いてあるから、お西なのかお東なのか?と思ってたら、発表したのは本願寺維持財団(お東騒動で分裂した中の一派)でした。
顕正新聞のあの記事を書いたのがS会の誰なのかはわかりませんが、教義面のみならず、文章一つをとってみても、やはりS会や会幹部のいい加減というかテキトーな体質が出てますね。

投稿: Rudel | 2012年10月29日 (月) 21時05分

やっぱり親鸞会の説明の方が分かりやすい。

投稿: | 2012年10月30日 (火) 00時43分

親鸞会の教義は何のために分かりやすいのかな。

極重悪人唯称仏
他の方便無し
親鸞会の方がいいという人は何のためにいいと言いたいのかスッキリハッキリしないなあ。

親鸞会の人生の目的は聖典を誤読することかしら。

掲示板荒らしと同じ論理かな。

正体を隠した勧誘も似たようなもんか。

投稿: はてな | 2012年10月30日 (火) 01時46分

しばらく考えていたのですが親鸞会のはステマなんですね

親鸞会はステマを多用するから気を付けろ
という書き込みがどこかでありましたがようやくわかりました。

論点ずらし等の詭弁を用いるといい浄土真宗とは違った宗教になっている

語意や語源を調べてもわからなくさせたり他に行かないように感想を先に刷り込んでいたのですね。ガードレールのようなもので不正確な情報を駆使して人を操っていたわけだ。

自己判断が大事ですがいかに危ういかと揺らして、情報を断章したり。

人としての会話を成り立たせたり、相手を尊重する、配慮するということを無視している。

仏法のためとのたまって悪を行じている。環境次第で厚顔無恥になるのですね。

口は災いの元、仁義をわきまえるなど倫理観も人によって騙されるものなんですね。

話し手の品位が話の内容に関係することにも注意して人を見抜いていきたいと思いました。

投稿: はてな | 2012年10月30日 (火) 10時56分

ひとは色々ですからね。教えはまた別で。

投稿: やっぱり | 2012年10月30日 (火) 15時48分

無宿善の人とは同座すべからず

人と教えは関係あるんじゃないですか

高森会長の話は大事として聞きにいく人は親鸞聖人の教えを無視する人だと思うね

投稿: はてな | 2012年10月30日 (火) 22時53分

会員らしき人が、負け犬の遠吠えですか。
いつものことながら、みっともないですね。

高森会長の話は分かりやすい、これって謗法罪でしたよね。
それに比べて親鸞聖人の御著書は分かりにくい、凄い謗法罪ですよね。

教えのイロハも分からない人は、この程度の荒らしで憂さ晴らし。

投稿: どんぐり | 2012年10月30日 (火) 23時10分

御釈迦様が遺して下された他力念仏の教えを疑い謗り、種々の手段を用いて念仏の法を破壊する者は、和国の教主聖徳太子を害さんとした物部守屋であると思いなさい。親しみ近づいてはなりません。

上記真偽検証からコピペ

親鸞会という組織は組織の体質だけでなく高森会長の話もおかしいから近づいてはいけない。
人柄も関係するでしょう。教えがおかしいと様々なサイトで言われているのにいまだに高森会長の話を聞きにいく人ってなんなの?
高森会長の悪行も暴露されているのにまだ覆い隠そうとするのはなんなの?

親鸞会の教えは狂っていると根拠を出して解説してもろくに読まずに高森会長の話を持ち上げる人はいったいなんの得があるのでしょうか?

さっぱりわからない。さっぱり理解できない。マインドコントロールされているの?

人を見て話を聞く聞かないを取捨選択しないと操り人形にされてしまう様ですね。無視すべき人物の話は聞いてはいけない。

引用元を明らかにする、第三者でもわかるようにする、話の前後を確認する、聖典を自分でめくる、指導者を特定の人物に頼ると偏る、親鸞聖人の著作に親しむ、法然上人の著作に親しむ、一般常識やTPOをわきまえる、他人の心に土足で入らない、ひとの痛みを知る、これらを親鸞会は親鸞聖人の名前や仏教の名の元にないがしろにしているのは、人命軽視ではなくて人命無視だからなんだろうな。

だから宿善や本尊、信楽や若不生者、方便に念仏、意味がことごとく書き換えられ都合よく利用されている。すべて高森会長の派閥のためであって、決して会員のためでもなく、全人類のためでもない。

あの人らのどこが正直だよ。どこが無我だよ。仏法無視して何が仏法のためだ?

身分詐称や正体を隠した勧誘も最初に嘘や誤魔化しが入るのは決して仏法のためでもない。

正体を明らかにして身分を偽らず宗教と言ったことがあるからわかるよ。

体験ってのは物凄く大事だ。

親鸞会のように証拠より論と言うこともあるなんて狂った人種にはなりたくない。

エムハルが月々何円おこづかい貰って何に使っているかで本性が知れるよ。

一枚の紙をおしいただいた蓮如上人とは偉い違いだ。

高森親鸞会は火急的速やかに爆沈せよ。この世から高森の教えや流派は消えてなくなれ。いらない。どの国もどの人もどの時代もどの星においてもいらない。さっさと潰れてしまえ!

投稿: はてな | 2012年10月31日 (水) 00時37分

名無し 様
やっぱり 様

判りやすいかどうかと正しいおしえかどうかは関係がないですね。
少し前に紹介しました

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

でも言えますが、易い教えは信じがたいは、判りにくいとも言えます。簡単に信じられるは、判りやすいとも言えます。どちらが正しい教えでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2012年10月31日 (水) 07時08分

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