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2012年10月 1日 (月)

一口問答(19願・定散二善12)

問い

三願転入せずしては、誰一人救われないのではないですか。19願の実践は、必要です。

答え

七高僧方も、覚如上人も蓮如上人も、そして親鸞聖人も、19願を勧められたお言葉は1箇所もありません。三願転入の文をよく読んでください。「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を「久しく出で」「永く離れ」です。これは後の「久しく願海に入りて」に対応しています。善知識のお勧めによって、19願を永久に離れた、ということです。
19願を取るのが、あなたの判断ならば、捨てるのもあなたの判断です。善知識方は口を揃えて、19願を捨てるように教えられています。

(参照)
三願転入の文の意義

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一口問答」カテゴリの記事

コメント

捨てるものが分からなくて、どうして捨てられるのですか?

投稿: 雨やどり | 2012年10月 7日 (日) 00時30分

外道を捨てよといわれますが、外道すべてがわかって捨てるのですか?
少しは頭を使ってはどうですかね。

投稿: 横から | 2012年10月 7日 (日) 03時00分

私が言っているのは、19願と20願が捨てるべきものなら、19願の願意を説かれた観無量寿経も20願の願意を説かれた阿弥陀経も捨てるべきものということになる、ということです。

投稿: 雨やどり | 2012年10月 7日 (日) 03時51分

雨やどり 様

観無量寿経と阿弥陀経には、隠彰と顕説とがあります。


『大無量寿経』──18願意-他力念仏往生
『観無量寿経』──顕説(方便)19願意-自力諸行往生
         └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生
『阿弥陀経』──顕説(方便)20願意-自力念仏往生
        └─隠彰(真実)18願意-他力念仏往生

よく勉強してください。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 7日 (日) 06時33分

>19願と20願が捨てるべきものなら、19願の願意を説かれた観無量寿経も20願の願意を説かれた阿弥陀経も捨てるべきものということになる

これを正しい言い方に変えるなら

19願と20願が捨てるべきものなら、19願の願意を説かれた観無量寿経の顕説も20願の願意を説かれた阿弥陀経の顕説も捨てるべきものということになる

つまり、

18願の願意を説かれた観無量寿経の隠彰と18願の願意を説かれた阿弥陀経の隠彰をとることになる

こういうことですね。

高森さんのいうことが出鱈目とよくわかりました。

投稿: 脱会者 | 2012年10月 8日 (月) 08時41分

阿弥陀仏って暇な仏様だと思いました。
むしろ意地悪な仏様だと思います。
19願や20願を誓わなければ誰もせずに済んだのに
なぜ衆生を迷わすような誓いを立てたのでしょうか。
存在するからみなしようと思うわけですよね?
存在しなければ初めから拾いませんので捨てる必要ないはずです。
拾いませんというより拾えません。

そう考えると、釈尊も暇人です。
なんでわざわざ聖道門を説いたんでしょうか?
釈尊が説かなければ聖道門の行なんか誰もせずに済んだわけですよね。
知らなければ、説かなければ、誰も初めからしないはずだと思うんですよね。

説き方も下手糞です。
一切経のうち、浄土三部経のパーセンテージは1%ほどしかありません。
その1%のこと以外は不要ならば、それにもっと注力すべきだったのではないでしょうか。
予備校の講師だと授業料を返せといわれるレベルです。
90分の授業で、大学受験に役立つのは2分程度ですと言われてるみたいなものです。
今現在も不要な88分の授業に振り回されている人間が何人いるでしょうか。

なぜ仏教って不要なことに時間や紙面を割くのでしょうか。
聞いてるほうが混乱するだけではないでしょうか。
ビジネスの世界では考えられません。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 04時56分

曹洞宗 様

親鸞聖人も、もちろん私も、聖道門や19願。20願が不要だなどと言ったことはありません。これまで何度も何度も述べてきたことです。必要な機があったから、説かれたのです。

八万四千の法門と機との関係が判りますか?
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-d2fe.html

対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-97d3.html

無知と勘違いからくる親鸞会の傲慢さ
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-a2c3.html

会員との問答(聖道門の修行について)
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-209d.html

このあたりを読んで頂けると浄土真宗の考え方が御理解いただけると思います。

投稿: 飛雲 | 2012年10月10日 (水) 07時10分

曹洞宗様

>阿弥陀仏って暇な仏様だと思いました。

暇といいますか
私を救わんがために兆載永劫の時間をかけられのですから
暇というより時間がかかったのですね

>むしろ意地悪な仏様だと思います。

なるほど、曹洞宗様がそう感じられたということは理解しました。
私は19願や20願まで建てられた慈悲の御心に泣けてくるのですけれども。
19願20願があるのもすべての人を漏らさないという御心、と受けとめられるのも
浄土真宗なのです。

>19願や20願を誓わなければ誰もせずに済んだのに
>なぜ衆生を迷わすような誓いを立てたのでしょうか。

迷わすとおっしゃっていますが、迷わすもなにも
19願20願がなくても元々私は迷っていたのですから、それで迷うということはないんです。
ですので「要らないのなら説かねばいいではないか。そんなの衆生を迷わすだけだ」という捉え方をしてしまうような19願20願の理解の仕方が浄土真宗的には誤りです。

>存在するからみなしようと思うわけですよね?

違います。
その「存在する(説かれている)」=「私に必要」=「正しい」
の理屈が誤りの元なのです。

お店にたくさんの商品が存在します
存在するからといってすべて買いますか?
私に必要だと思ったものだけ選択するのです
ではなぜ18願だけを置いておかないのか?というのが
以下で書かれたようにあなた様の疑問なのでしょうが、

>存在しなければ初めから拾いませんので捨てる必要ないはずです。
>拾いませんというより拾えません。

阿弥陀仏も釈尊も18願だけを置いて全ての人を救えるのなら、そうしたかったのです。
ところが、それでは見向きもしない人たちがいるんです。
そんなら要らない、と去ってしまう。
釈尊の時代はむしろそんな人のほうが多かったでしょう。
それではもう仏教と縁もゆかりもなくなって救うことができなくなってしまいます。
縁がなくてはどうしようもないからです。

18願(念仏(信心))だけ?そんなバカな。
信じられるか。

現代ですらそうなのに、昔なら尚更でしょう。
行を修することができた聖者もいたのですから。

>そう考えると、釈尊も暇人です。
>なんでわざわざ聖道門を説いたんでしょうか?
>釈尊が説かなければ聖道門の行なんか誰もせずに済んだわけですよね。
>知らなければ、説かなければ、誰も初めからしないはずだと思うんですよね。

「聖道門なら俺はやる」という人達がいたからですよ。
上で述べたことと同じです。

三願で言えば
18願は信じられないけれども19願や20願なら信じられるという人が。
だから、18願に、19願、20願を添えられた。
こうすれば、18願だけを直ちに信じられない人も19願20願に留められて
(仏教の中に入れて)いずれ19願20願を捨てさせて
18願に入って往生できるということです。

ところが今、釈尊から2600年(だったかな)の月日を経て
私たちは法然聖人とともにそれを受け継がれた親鸞聖人から
18願だけでよいのですと
詳細な理由を添えて明らかにしていただいたのです。

有難いことに18願だけでよいと知らされる立場にある真宗にとって
19願や20願は添えものなのです
だからといって始めからいらない不要なものだ
ということとは意味が違うのです

>なぜ仏教って不要なことに時間や紙面を割くのでしょうか。
>聞いてるほうが混乱するだけではないでしょうか。
>ビジネスの世界では考えられません。

ですから仏教にとって「不要」ではないのです。
仏教にとっては「必要」
浄土真宗の私にとっては不必要(と有難いことに親鸞聖人からお聞きしているのが
浄土真宗)
ですので、あなたの仰るとおり浄土真宗では18願だけを勧められています

確かに、ビジネスではありませんね(笑)
ビジネスでは、すべての人を網羅するということはできませんし、考えませんものね。

投稿: からくり@通りがかったので | 2012年10月10日 (水) 17時37分


聖道門の必要な機もあるんだよという言い方に
まさしく、私はそこに真宗の欺瞞があると思っています。

浄土信奉者は誰一人として本心で聖道門の機がいるとは思ってないんです。

そのくせ、一切経と浄土三部経の割合がおかしいですよね?
必要の無いものをなぜ説いたんですか?と言うと

「いや、不必要ではないんですよ。そういう機もいるんですよ」と言うわけです。
場合によっては「方便ですよ」と言うわけです。

内では、「あんなの無駄ですよ」と言いながら、外には「必要な機もいるんですよ」と言うわけです。
その論理的矛盾を突かれているのに真直な答えを言わないのが真宗の実態なのです。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 21時06分

曹洞宗 様

今朝紹介したエントリーを読んで頂ければ御理解いただけると思ったのですが。
何も矛盾していませんが、立場が違いますので、議論は平行線になると思います。
私の立場は、親鸞聖人の仰ったことを是とする立場ですので、聖道門の方の立場と違うことは重々承知しています。

浄土真宗内での議論であれば、続ける意味はありますが、浄土真宗の枠を超えての議論は致しませんので、ご了解ください。

投稿: 飛雲 | 2012年10月10日 (水) 21時17分


真宗の言い分は分かるんです。
正直正しいと思う。

心を禅定に保つ。戒律を保つことが難しいことぐらい誰でも分かるわけです。
そして現実にはこの世の中にそれを
厳密にできている方は一人もいないことも分かっています。

禅寺には「修行も慣れてしまえば、安楽生活かな」って言うのがあるぐらいです。
行為は改善できても心まではなかなかできません。

真宗的には、「方便ですから」と言いたいのでしょう。

ただし「必要ないですよ」と言う言葉はどうにも納得いきません。
仏説を必要ありませんと言うのはそもそも態度からしておかしいわけです。

仏様の言葉より優先される、知識の言葉なんて存在しないはずです。
真宗で言えば、親鸞や蓮如上人です。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 21時18分

一つだけ申し上げておきます。

「必要ない」というのは、「必要ない人には必要ない」ということです。
「必要のある人には必要」です。
機に応じて「必要ない」か「必要ある」かが変わってくるということです。

詳しい内容は、今朝のエントリーをご覧ください。
それでも納得頂けないのであれば、私からこれ以上は申し上げることはありません。

投稿: 飛雲 | 2012年10月10日 (水) 21時29分


「必要ない人には必要ない」
これも詭弁です。

必要のある人が一人でもいるとは本心で思ってないからです。
いたとしても100万人に一人もいるとは思っていません。

つまり事実上、「誰にも必要ない」と言ってるのと同じにしか聞こえないわけです。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 21時34分

聖道門の方がコメントされるとは、想定外ですね。念仏弾圧の時の主張と同じ。

詭弁と妄想を混同しているところがちょっとね。

法然上人のお言葉『勅修御伝』、

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」


誰にも必要ないなんて、誰も言ってませんが、僻み根性でしょうか?

親鸞会並みの妄想が激しすぎますね。

他人の主張を正見できなくて、聖道門の修行はとてもつとまりませんよ。

投稿: 浄土門 | 2012年10月10日 (水) 21時45分

『教行信証』

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。


高玉・智覚禅師には、散善が必要だったと親鸞聖人も認められてますがな。

他人を批判するなら、勉強してからにしてね。

投稿: 浄土門 | 2012年10月10日 (水) 22時00分


私は、割合的に一億人に一人も関係ないようなことを
あんなに長い時間をかけて説法したのには深い意味があってのことだと思っています。

そう考えるのが自然ではないでしょうか。

そうでなければ釈尊は暇人です。
仏様が力の配分や人生の時間の配分を間違えることがありえるでしょうか。

真宗の一向専念無量寿仏を多少は理解しているつもりですし、
浄土三部経以外を「必要ない」というのも無理からぬことかもしれません。
浄土三部経の中でも仏の願を選んでるというのは驚きですが。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 22時11分

>>聖道門の方がコメントされるとは、想定外ですね。念仏弾圧の時の主張と同じ。
詭弁と妄想を混同しているところがちょっとね。

こういう不必要なあおり文句が多いのはこのサイトの特徴です。

確かに、「誰にも必要ない」とは言ってないわけです。
ただし、私はこれが欺瞞だと言っているわけです。

なぜ、正直に「誰にも必要ないよ」と言わないのでしょうか。
本心ではそう思っているとしか思えないわけです。
批判をかわしてるつもりなんでしょうか。

私は、「必要ないんじゃなくて、できないだけだ」と思っているほうですが、
頑なに、「必要な人は必要です」と言うわけです。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 22時17分


私も本音を言うと、
「機」という観点から見れば
浄土三部経以外に悟りを得る方法はありえないのだろうと思いますが
「必要ない」と言う言葉はまったくおかしいと思いますし
むしろ「必要だった」と思います。
加えて「必要な人には必要」という言葉もあやふやだなぁと思うわけです。

私が本当に納得できないのはこの逃げの姿勢なわけです。
本心では、「必要ない」「不要だ」と思っておきながら、
「必要な人には必要」と言ってしまう、この姿勢です。
なら、必要な人がいるとお認めになるんですね?
全人口のうちどれくらいの割合でいると思われますか?
必要な人と必要でない人との違いはなんですか??
浄土三部経も必要な人だけの必要な法ですか?と言うと
「末法の時機には浄土門以外ない」と急に背筋を伸ばしたことを言うわけですよ。

もっと言ってしまえば、
「釈尊がわざわざ必要ないことやほとんどの人には関係ないことを
あんな長い時間かけて言うわけないだろう」と思うわけですが、
この辺の矛盾をどう了解してるんでしょうか。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 22時38分

>>お店にたくさんの商品が存在します
存在するからといってすべて買いますか?
私に必要だと思ったものだけ選択するのです


これも全然答えになってないわけですよ。
確かに、存在するからといってすべて買いません。
それはそのとおりです

でも冷静に考えてください。

だったら、初めから無ければ買わずに済むでしょ?といってるわけです。
なぜ、必要ないものをわざわざ人生の時間を使って陳列したんですか?と
聞いてるわけです。
釈尊にも人間としての器を利用してる以上、時間制限があるわけですよね?
何で、必要の無いものを、それも必要なものより時間をかけて陳列したんですか?と
聞いてるわけです。
陳列したら、誤まって買ってしまう人がたくさんでてきますよね?

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 22時55分


上記に加えて、もっと言ってしまうと
必要なものの陳列数が圧倒的に少ないのはどう了解してるわけですか?

真宗的に解釈してものを言うと
世の中の商品(経典)は必要でないものの数の方が圧倒的に多いことになります。

なぜ宝探しゲームみたいなことを釈尊はさせるんですか?
ともすれば、永遠に見つけられなくなるかもしれませんし、
買うほうが混乱するだけでしょう。
買うほうは悟りを得られる果実を探してるわけです。
わざわざどれが本物か分かりづらくする必要がありましょうか。

私でしたら、選ばしませんし、
これを買えとそれ以外陳列しませんし、
そればっかり陳列して並べます。
なぜ釈尊はその方法をとらなかったのでしょうか。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 23時05分

妄想は気が済んだ?

飛雲さんも言われているように、貴方とは立場を異にしているので、平行線ね。

これ以上は荒らしですよ。

投稿: 浄土門 | 2012年10月10日 (水) 23時30分

>>「聖道門なら俺はやる」という人達がいたからですよ。
上で述べたことと同じです。

>>三願で言えば
18願は信じられないけれども19願や20願なら信じられるという人が。
だから、18願に、19願、20願を添えられた。
こうすれば、18願だけを直ちに信じられない人も19願20願に留められて
(仏教の中に入れて)いずれ19願20願を捨てさせて
18願に入って往生できるということです。

>>ところが今、釈尊から2600年(だったかな)の月日を経て
私たちは法然聖人とともにそれを受け継がれた親鸞聖人から
18願だけでよいのですと
詳細な理由を添えて明らかにしていただいたのです。

>>有難いことに18願だけでよいと知らされる立場にある真宗にとって
19願や20願は添えものなのです


これもおかしいとおもうんですよ。
こういうところが念仏宗の怖さだととおもいます。

仮に阿弥陀仏の本願のうち18番目だけでよいとして
釈尊に分かりやすく明らかにできなかったものが
親鸞や法然にどうして分かりやすく明らかにできるのでしょうか。

18願でよいという詳細な理由を
釈尊は明らかにできなかったということでしょうか。
釈尊は18願でよいと明らかにしてはいたけども
2600年前の人は頭が今の人たちより悪くて、解説者も少なく
理解できなかったと言いたい訳でしょうか。
逆説的にもっと言えば
今の人は頭が良いので聖道門なら俺はやるという
2600年前の人みたいなこと言ってはいけませんよと言いたいのでしょうか。

それに「聖道門ならやる」というのは
今の人だからいえる言葉です。
時系列を考えてみてください。
釈尊が浄土三部経を説いたのは40代後半~ほぼ晩年ではなかったでしょうか。
当時の人にはそれまで「聖道門ならやる」なんて発想なんか起こりようもないわけです。
聖道門しかないわけですから。
選びようが無いわけです。
選びようが無い状態なのに「聖道門ならやる」なんておかしいでしょう。
私は、釈尊が説法した経典の順番は非常に重要な意味を持っていると思います。

投稿: 曹洞宗 | 2012年10月10日 (水) 23時46分

曹洞宗 様

御意見は、よく判りました。
しかし、ここは浄土真宗という枠の中での話をしています。
私はキリスト教が正しい、といわれて意見を言われても困ります。
イスラム教が真実だ、と言われても困ります。
同様に、他宗の立場で言われても、当ブログとしては困るわけです。

浄土真宗の立場は、はっきりしています。
それが正しいかどうかの議論は、別でお願いしたいということです。
当ブログの趣旨にはあいません。以前のエントリーでも述べた通りです。

したがいまして、今後同様のコメントをされた場合は、削除しますので、
御理解ください。

投稿: 飛雲 | 2012年10月10日 (水) 23時54分

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