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2012年10月 3日 (水)

三願について

19願・定散二善の「一口問答」は、この程度にしておきます。コメント欄でも盛り上がりましたように、この問題に関しては、邪義が根強く蔓延っています。高森会長の教えていることが間違いだ、と理解した人でも、これだけは間違いだとは思えない人が、大変多いのが事実です。
19願・20願について、親鸞聖人は御著書の中で何箇所か教えらていますが、三願転入という形で仰ったのは、『教行信証』化土巻だけです。20願から18願への「転入」は、「果遂の誓い」という点で言及されている箇所はいくつかあっても、19願から20願への「回入」についての言及は、三願転入の文以外にはありません。19願を選ぶのも自分の意思ですから、19願を捨てるのも自分の意思だからです。

さて、三願について比較して詳しく教えられているものに、『三経往生文類』があります。それぞれ抜粋しておきます。

18願

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

(現代語訳)

「大経往生」というのは、如来が選び取られた海のように広大で不可思議な本願のはたらきによるものであり、これを他力というのである。これはつまり念仏往生の願(第十八願)に誓われた因により、必至滅土の願(第十一願)に誓われた果を得るのである。この世において正定聚の位に定まって、必ず真実の浄土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向という真実の因によるものであるから、この上ない涅槃のさとりを開くのである。この教えを『無量寿経』のかなめとする。このようなわけで、「大経往生」といい、また「難思議往生」というのである。

19願

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。これは、他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。このようなわけで「観経往生」というのは、どれもみな方便の浄土への往生である。これを「双樹林下往生」というのである。

20願

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽くすことも、説き尽くすことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く重い罪であり、浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じ込められて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから、「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって、「難思議往生」とはいわないとしらなければならない。

ここで、三願は別物ということで、それぞれ関連付けられていません。

簡単にいえば、ここで親鸞聖人が仰っていることは、

浄土往生の道に3通りある。

18願他力念仏―報土往生

19願自力修善―化土往生

20願自力念仏―化土往生

ということです。つまり、19願・20願での化土往生を願うのではなく、18願の報土往生を願いなさい、ということです。

次回は、18願大経往生のところを詳しく見てみたいと思います。

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コメント

飛雲様-19願・定散二善8-のコメント打ち切り、について
もっとしっかりと議論できる方かと勘違いしていました。貴方は「顕浄土方便化身土文類講讃は私も持っており何度も読んでおります。従いまして通行人さんの仰る意味は理解しています。その上でのことです。「親鸞聖人が仰ったから正しい」は皆さん共通していると思います。問題は、「高森先生が仰ったから正しい、梯師が仰ったから正しい、どこの誰が言ったから正しい」をいくら強調したところで何の解決にもなりません。」と述べられています。しかし、私は誰が述べているから正しいなどと言っているのではありません。祖師の「雑行を捨てて本願に帰す」という御文の「雑行」は「自力を代表させて祖師が述べられたものだ」という解釈が十分に正当性を以て成立することを述べたものであり、これを「行体のことである」と述べることは前後の文章、広くは化身土文類の祖意から明らかに間違っていると申し上げているのです。親鸞会の教義上の誤りを正す活動をなされていることは、もちろん敬服もし、また影ながら支援したい念も持っておりますが、ご自分の説に固執せず、もっと広い学問的見地に立って幅広い視野から解釈論を展開することをしないと、いつの日にか親鸞会から揚げ足を取られてしまうおそれなしとしません。そのことについて十分に自覚なされて下さい。これからも貴殿のご活躍を祈念しております。

投稿: 通行人 | 2012年10月 3日 (水) 15時38分

通行人 様

御意見有り難く承りました。
何度も同じことを申して恐縮ですが、私は特定の学説に偏るつもりはありません。学説は様々ありまして、蓮如上人は親鸞聖人と教えが違うと批判する学説も多々あります。もし、その学説に私が肩入れをしたならば、『御文章』は根拠にならない訳です。ましてや、蓮如上人以上でない学説に肩入れするつもりはありません。自分で論文を読んで、実際に関連する聖教を読んで、その上で自分で判断しています。
今回もそうです。

参考までに、蓮如上人が釈迦の化身、勢至菩薩の化身と尊敬されている存覚上人は「雑行を捨てて本願に帰す」を「始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う」と解説なされています。

真宗教義の議論をするならば、親鸞聖人のお言葉に如何に忠実になるかだと考えています。親鸞聖人のお言葉にないことを、親鸞聖人の本心はこれだ、と解釈することを私は好みません。その姿勢は、最初から最後まで徹底しているつもりです。
雑行においても、何度も述べている通りです。

通行人さんがどう思われているかは判りませんが、私は学術的見地に立って述べることは普通の人よりも得意な方だと思っております。そのような経験が他の人よりも多いからです。その経験から導き出した結論は、最も信頼できる資料を根拠とする、です。

雑行に関しては、親鸞聖人のお言葉を根拠とするかしないかという、根本的なところで立場が分かれていますので、議論になりません。それで打ち切りました。

御意見はいつでも仰ってください。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 3日 (水) 15時58分

飛雲さんが以前に教えて下されたように、蓮如上人は存覚上人の解釈を無条件に受け入れられると仰ったそうですから、蓮如上人は存覚上人と解釈を同じにしている筈です。

雑行を捨てて本願に帰す

=始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う

これが蓮如上人の解釈ならば、雑行は「行体」で決まりです。

飛雲さんの言われていることが、よりわかりました。

投稿: 脱会者 | 2012年10月 3日 (水) 16時36分

飛雲様
祖師の己証の御文について、そこでいう雑行とは「行体」を言われているとのご自説には、「雑行の定義」があることの他にどのような実質的な論拠があるのか、についての議論(解釈論)がなされなかったのは残念でした。本来であれば、その実質的論拠についての議論を相互に深めるべき努力をするべきではなかったかと思います。それが本来あるべき議論の姿だと思います。しかし、今度のご返信を頂き、「相互理解が不能」という反感の念からするコメント打ち切りではなかったものと理解することができました。今後も、辛口のコメントをすることがあるかも知れませんが、上述した、双方ともに議論の方法論に立つならば、もっと冷静な議論ができるものと信じています。では、失礼します。

投稿: 通行人 | 2012年10月 3日 (水) 16時37分

>「雑行の定義」があることの他にどのような実質的な論拠があるのか、についての議論(解釈論)がなされなかったのは残念でした

私は以前のエントリーでも言ったことがありますが、善知識方の仰っていないことに対して、どうこういうことは致しません。
なぜなら、それは結論が出ないからです。もちろん、個人的な考えはありますが、それを言っていては、きりがありません。
善知識方の仰ったことに関してのみ、ここでは議論をしますので、そのようにお考えください。
私にとりましては、善知識方の仰っていない学説は、参考程度です。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 3日 (水) 17時15分

飛雲さま

質問です。

釈迦は念仏へ導くために様々な方便を説かれ、つまり阿弥陀仏の本願だけを説いたのではなく、それは方便を必要とする者が多くいたからだと思いますが、親鸞聖人が念仏往生のみを勧められたのはなぜなのでしょうか。

投稿: しつもん | 2012年10月 3日 (水) 23時38分

しつもん 様

これまで度々述べてきたことです。
聖道門で出離できる機もあれば、定散二善で諸行往生できる機もあります。定散二善のできない念仏往生しか道のない逆悪の機もあります。
親鸞聖人の考え方は、聖道門は釈尊在世と正法の時機のために説かれたもので、定散二善では化土往生しかできない。像法の龍樹菩薩や天親菩薩でさえ念仏往生を選ばれた。したがって、末法の時機の衆生が出離し、成仏する道は、念仏往生しかないと教えられたということです。

逆悪の機は最初から念仏往生だけですが、聖道の機や定散の機には、他の道が説かれるも、結局は念仏往生しかない、聖道門・定散二善は念仏往生へ導くための権仮方便なんだ、ということです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 4日 (木) 06時55分

飛雲さま

では、まだ念仏の教えを受け付けることができない無宿善の機、未熟の機はどうすればいいのでしょうか?

投稿: しつもん | 2012年10月 4日 (木) 21時36分

しつもん 様

蓮如上人は、『御文章』3帖目12通で

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。


と教えられています。
無宿善の機にはこの教えを説いてはいけない、ということです。

ではどんな話をすればいいのかについては、何も仰っていません。親鸞聖人も蓮如上人も仰っていないことを、私がこうだということはできません。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 4日 (木) 21時55分

しつもんさんは、無宿善の機、未熟の機には、諸善を勧める必要がある、と誘導したいのだろうね。
しかし、それもおかしなもの。飛雲さんが懇切丁寧に教えられているように、下輩とは「仏法・世俗の二種の善根あることなし」なんだから、下輩には善の勧め自体が無意味になるね。
もちろん、上輩・中輩は善ができるわけだから、善の勧めがあってもおかしくはない。

もっとも、M野さんが必死になって下品にも善の勧めがあると、頓珍漢なことをいっているけど、それは仏教が根本的に理解できていないところから生じたもの。

親鸞会のように、聞く気のないものを騙して無理やり行事や法話に誘うのは、蓮如上人の精神に反するもので、やはりカルト。

臨終にでも念仏の教えを聞く気になれば、それでも往生できるのが阿弥陀仏の本願だから、無理強いは厳禁だね。聞く気になるまで待つのが正解というもの。

投稿: 誘導尋問 | 2012年10月 4日 (木) 22時27分

飛雲さま

>ではどんな話をすればいいのかについては、何も仰っていません。親鸞聖人も蓮如上人も仰っていないことを、私がこうだということはできません。

納得です。有り難うございました。

投稿: しつもん | 2012年10月 4日 (木) 22時48分

誘導尋問さま

>しつもんさんは、無宿善の機、未熟の機には、諸善を勧める必要がある、と誘導したいのだろうね。

別にそういうわけではないですよ。仏様でなければ無理ですから。

一度聞いてみたいポイントが個人的にあっただけです。

投稿: しつもん | 2012年10月 5日 (金) 00時05分

しつもん 様

『末灯鈔』に

悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。

とありますが、仏になってからですね。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 5日 (金) 06時33分

18願、19願、20願の三願が別物なら、親鸞聖人の「三願転入の御文」と合わないのではないですか?

投稿: 雨やどり | 2012年10月 6日 (土) 20時21分

雨やどり 様

まず、親鸞聖人が三願は別物として教えられているということです。
次に、三願転入の文との関係ですが、判りやすくいえば、方便の教えから正しい教えに入った、というだけです。
曇鸞大師で言えば、仙人の教えから18願に入られました。仙人の教えと18願と別物ですね。
他の高僧方も、聖道門から18願に入られました。聖道門と18願とは別物ですね。
同じことです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 6日 (土) 20時48分

では、「方便」は正しくない教えで、18願だけが正しい教えということですか?

投稿: 雨やどり | 2012年10月 6日 (土) 23時50分

方便では、報土往生できませんから、報土往生できる正しい教えを求めなさい。
方便は報土往生に対して正しくない教え、18が難は正しい教え。
揚げ足取りの典型例。
それで、三願は別物と分かったの?

雑行では負けたから悔しいのはわかるけどさ。

投稿: 横から | 2012年10月 7日 (日) 03時04分

三重廃立が分かって言っているのですか?

投稿: 雨やどり | 2012年10月 7日 (日) 04時05分

雨やどり 様

方便は正しい教えですか?
仮の教えは正しい教えですか?

外道を捨て、聖道門を捨て、仮を捨てる。
捨てるものが、正しい教えですか?

投稿: 飛雲 | 2012年10月 7日 (日) 06時36分

雨やどり様、考えてみてください
それはどの観点から「正しい」と言っているのか
(その「正しい」とはどういう意味で正しいということなのか)

S会の思考をすれば、方便も正しいに決まってるということになるんです
説かれている=必要=正しいんだと。
ただし、(ポイント)今は仏教の中の浄土門の中の真宗の話だということですよ

「正しい」という言葉を使って
(正しいか正しくないかの二極論に持ち込んで)
正しくない(私には必要のないもの)ものを正しい(やらねば助からない)とすり替えられるんです

「その「正しい」とはどういう意味ですか?」
ということですね、飛雲様

投稿: からくり@今にして思うと | 2012年10月 8日 (月) 17時24分

からくり@今にして思うと 様

そうです。
親鸞聖人は信巻に

真の言は偽に対し仮に対するなり。

と仰って、

真-18願
仮-19願・20願・聖道門
偽-外道

と定義されています。分かりやすく言えば

真=正しい
仮=正しくない
偽=間違った

と言えます。仮、方便とは言えども、間違いではありませんが、正しいとは言えません。
あくまで、真、正しい教えへ導き、捨て去るべきものです。

他の方からの要望もありましたので、方便について簡単に説明しておくと、
善巧方便と権仮方便とに分かれ、善巧方便とは「真」、権仮方便とは「仮」です。
捨てよと言われる方便は権仮方便です。
『歎異抄』に

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。

とある通りです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 8日 (月) 18時01分

親鸞会では19願も20願も阿弥陀仏の願だから計らっては
いけないと 言われていたように思います。
そう聞かされていたので私の救われる道程として
「三願転入」が成り立っていました。 

投稿: 秋風 | 2012年10月 9日 (火) 20時55分

秋風 様

私もそのようなことを聞いたことがあります。
善知識方が、どのように教えられているかを無視した高森理論に多くの人が騙されています。
嘆かわしいことです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 9日 (火) 21時49分

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