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2012年10月

2012年10月31日 (水)

会員最後の砦、「宿善」の定義

長年親鸞会の会員を続けてきて、高森会長の教えに間違いがあることに気が付いても会員を辞めるまでに至らない方があります。そんな方が高森邪義で最後に引っ掛かっているのが宿善です。

宿善の「善」に騙されるのですが、高森会長も講師部員も、もちろん会員も宿善の定義を知らないのです。過去に何度も書いてきたことですが、再度書いておきます。

宿善は、通仏教では、過去世の善根という意味で使われます。その元となったのが、天台智顗が著したとされる『浄土十疑論』の、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

です。五逆罪を犯した者が、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げるのは、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったからだと解釈したのです。もちろん、『観無量寿経』下品下生の往生について言われたものです。

しかしここには、矛盾があります。源信僧都は『往生要集』でそのことを問題提起されていますが、聖覚法印も『唯信鈔』

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。聖道門でいう因果の道理に照らして考えると、過去世に善根を積んできた人は今生でも善根を積もうと励み悪を慎む心がある筈です。そうなると五逆罪の者は、過去世に善根を積んできた人なのかどうか疑問が出てくるのですが、五逆罪を犯した者でさえも宿善があるのなら、五逆罪を犯していない私たちは、なお宿善があることになります。
同じことを覚如上人も『口伝鈔』

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ
(中略)
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。


(現代語訳)

こうしたわけだから、生れつき具えている善・悪のいずれも、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは、勿論である。
(中略)
したがって、過去世の善根厚いものは、この世においても善を好み悪を恐れるが、過去世で重い罪を造ってきたものは、この世でも悪を造ることを好み、善をしようとはしない。過去世で行った善悪の2つは過去の種まきとして、往生という大益は、阿弥陀仏の本願他力にまかせるべきです。決して自分の過去世現在世の善し悪しにとらわれて往生ができるかできないかの判定をしてはならないのです。

と仰っています。なお、中略の前の部分は、親鸞聖人の仰ったこととして、覚如上人が書かれたものです。
ところが高森会長は『本願寺なぜ答えぬ』で

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と断言しているのです。『会報』第3集にも

過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

と同様のことを書いています。

高森会長の説明と『唯信鈔』『口伝鈔』を照らし合わせてみてみると

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、『口伝鈔』の「しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり」を言いかえると

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

ということになり、高森会長の宿善論を完全に否定されているのです。
それで、浄土真宗では宿善を、18願を聞いて願い求める縁であり、それは阿弥陀仏の不思議なお育て、という意味で使われます。

その意味で、『口伝鈔』では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

(現代語訳)

十方衆生の中に、阿弥陀仏の18願を信じて受け入れるものもあれば、信じられず受け入れることのできないものがいる。なぜかといえば、『大無量寿経』にも説かれているように、過去の宿善の厚いものは今生にこの教えに遇えば信じて救われるが、宿善のないものはこの教え遇っても信じて念仏することがないから遇わないのと同じである。「欲知過去因」とあるように、今生で18願を信じられるか信じられないかによって宿善の有無が明らかにわかる。

と教えられています。

宿善あつきもの=浄土教を信受する機
宿福なきもの=信受せざる機

です。
また『改邪鈔』には、

宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば

(現代語訳)

宿善のあるものは、正しい教えを説く善知識に親しむのであり、招かれなくても人を惑わすことのない教えには必ず近づくものである。宿善のないものは、招かれなくても自分から悪知識に近づいて善知識から遠ざかるものであるから

とあります。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。
過去世にどんな因縁かあったのかはわかりませんが、18願の教えを聞いて信じ求めている人は宿善のある人であり、外道や聖道門、19願に迷って、18願を信じることのできない人は宿善のない人ということです。この宿善の有無は、往生・獲信と極めて深い関係にありますので、蓮如上人も五重の義の一番最初に宿善を挙げておられるのです。宿善のある人は二番目の善知識に遇えるということです。

高森顕徹会長の説を否定されているのが、歴代の善知識方です。

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2012年10月29日 (月)

いつもの我田引水

聖教の中に「善」という文字を見つけると、「善を勧められたお言葉だ」と騒ぎ、「十九願」もしくはその同義語を見つけると、「19願を勧められたお言葉だ」と喚き散らすのが親鸞会です。実に幼稚な発想ですが、「方便」についても同じです。
「あさ川進の、宗教と私」で紹介されていましたが、11月1日号の顕正新聞に、最近発見された

如来の遺教を疑謗し
 方便破壊せんものは
 弓削の守屋と思うべし
 親しみ近づくことなかれ

の御和讃について、大々的に取り上げているようです。

「方便」とは「目的を果たすに不可欠な方法手段」

と勝手に定義して、親鸞会の邪義を正当化させるのに必死になっています。この御和讃の正しい意味については、すでに

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」

で解説されていますので、詳しくは述べませんが、一言だけ言えば、

「方便」とは「目的を果たすに不可欠な方法手段」

ではなく、

「方便」とは「方法手段」

ということです。この違いが大違いです。
なお、親鸞会がいつもいうヘンテコ理論については、「一口問答」ですでに述べていますので、関連箇所だけ、取り上げます。

問い

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。

答え

極重悪人唯称仏」(正信偈)も知らないのですか。この元は源信僧都の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)です。また蓮如上人も「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり」(正信偈大意)と教えられています。極重の悪人は、念仏以外の方便(善)はない、唯念仏して極楽に往生できるのだ、ということですが、善知識方の仰せを否定するのですか。
難しい聖教は読めなくても、『正信偈』くらいは読んでおいてください。

問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とは、救われたならば念仏だけということで、そこまで導く善は必要です。『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」と同じことで、真宗の学者が誰も反論できない『歎異抄をひらく』には、
弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである
と解説されていますよ。

答え

ここだけで、高森会長が阿弥陀仏の救いに極めて疎い人物と判ります。
悪人である下品の往生について法然上人は判りやすく、「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)、と解説なされています。この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って善もせず浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇って往生を得る、ということです。救われるまでに善は不要ということが、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」です。
真宗の学者から「われらの相手に非ず」と失笑されていることを知りましょう。

問い

蓮如上人は、「方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」(御一代記聞書)と仰っているように、方便からしか真実に入れず、でしょう。それなのに、念仏が方便とは呆れます。

答え

方便の理解が根本的におかしいですね。蓮如上人が仰っていることは、権仮方便を捨て善巧方便を立て、善巧方便によって真実の信を獲られる、ということです。
善巧方便とは、「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)とあるように、18願他力念仏のことです。親鸞聖人も18願他力念仏について解説なされた『教行信証』信巻で「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と仰ってます。
権仮方便とは、「浄土の要門、方便権仮を顕開す」(教行信証化土巻)とあるように、19願定散二善のことです。
あなたの言葉を正しく修正するなら、善巧方便の念仏からしか真実報土には往けず、ということです。

問い

親鸞聖人は、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。(中略)この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」(一念多念証文)と仰っているように、すべての人に「浄土の方便の善」を勧められているのではないですか。

答え

全く逆です。「浄土の方便の善」「要門・仮門」より「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るように教え勧められた、ということです。もちろん、「浄土の方便の善」「要門・仮門」に迷っている人に対してです。「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」である18願を願い求めている人に、「浄土の方便の善」「要門・仮門」を勧められたという解釈は、どこの世界の文法を使っているのでしょうか。

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2012年10月26日 (金)

高森会長とは、その程度の人物だということです

高森会長の盗作についての新たな情報をコメント欄で教えて頂きました。
盗作が日常茶飯事の高森会長ですから、特に驚くこともありませんが、興味を持たれる方もあると思いますので、紹介しておきます。

話は変わって申し訳ないですが、吉行淳之介氏の「赤と紫」にこういう下りがあります。『女同士の間では、日常いたるところで決闘が行われている。決闘という話が大袈裟とおもうかもしれぬが、たとえば盛装した二人の女がすれ違うとする。見ず知らずの二人であるが、すれ違った』『一瞬のあいだの視線によって相手の頭から爪先までの値踏みをし、自分の服装と比較検討し、勝負をきめようとする。それは決闘と言っても大袈裟ではない』これが、白道燃ゆでは、『女同士の間では、常に決闘が行われているようである。決闘というと少し大袈裟のようであるが、たとえば、盛装した二人の女が、道ですれ違う時の目をみるがよい。見ず知らずの二人であるが、すれ違った一瞬の間に、相手の頭の先から爪先までの値踏みをし、自分の服装と比較検討し、勝負をきめようとする』まだ、会員の方はパクっておきながら、得意然としている人物を「正しく」見たほうが良くないですか。
投稿: | 2012年10月21日 (日) 16時35分

吉行淳之介氏の情報ありがとうございます。
Amazonで発注して本日届きました。
204ページから205ページに該当文章があります。
ところで、この作品は1974年初版で「白道燃ゆ」と同じ年でした。
もっと詳しく調べてみたら、この作品は地方新聞に1963年に連載小説として連載されています。
中国新聞や北国新聞に連載されていました。
その小説を翌年に「女の決闘」という題で桃源社から単行本で出版されています。
1974年に角川文庫から元の題に戻して出版されたみたいです。
Amazonでは「赤と紫」は私が発注した翌日に2万円になっています。(私は500円でした)
「女の決闘」は千円以下で、まだ数冊あります。
「女の決闘」では143ページです。
投稿: 淀川コナン | 2012年10月26日 (金) 19時29分

他人には偉そうに善を勧めながら、自分は人一倍悪に努める人物を、会員はどう思っているのでしょうか?
盗作は法律上の問題ですが、それとは比較にならない大問題である教義を完全に間違え、捻じ曲げて教えていることに対して、高森会長はどう責任をとるつもりでしょうか?
誰かにそう詰問されても、高森会長は無視し続けるでしょう。

高森会長とは、その程度の人物だということです。

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2012年10月23日 (火)

「真実の信楽まことに獲ること難し」と「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」

親鸞会の会員を、20年・30年・40年と続けてきた方が、ここ数年、次々と退会しています。今でもその傾向は続いています。
退会の理由は、親鸞会にいては獲信することはできない、教義が間違っていることが判った、という親鸞会の存在意義を根本的に否定するものばかりです。
親鸞会が教義の間違いをいくら誤魔化したところで、どこまでも誤魔化しきれるものではありませんから、当然の流れです。

さて、親鸞会の会員はもちろんですが、退会者でも、獲信は極めて難しいことだ、と思っている方が少なくないようです。確かに、親鸞聖人は「真実の信楽まことに獲ること難し」と仰っています。

『教行信証』信巻

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

(現代語訳)

ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

とあります。「真実の信楽」は「如来の加威力」と「大悲広慧の力」によって獲られるものなのに、自分で何かをしなければならないという愚かな計らいを入れるから、難しいのです。
具体的には、高森会長の説く因果の道理と「真実の信楽とが関係あるとか、過去に行ってきた善やこれから行うであろう善と「真実の信楽とが関係あるとか、19願を通らなければ「真実の信楽」を獲られない、とかいう愚かな計らいです。
如来の加威力」と「大悲広慧の力」とは、衆生に何か用意してくることを期待したものではありません。世間的な発想や、聖道門的な発想とは別次元であるのが如来の加威力」と「大悲広慧の力」ですが、それを同次元に思うから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。逆にいえば、親鸞会で聞いてきたような世間的な発想や、聖道門的な発想をすべて捨てされば、「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。

信巻には、また

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

とあります。高森会長の邪説を払拭すれば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」です。高森会長の邪説をいつまでも引き摺っていることを、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と言われているのです。聖教に書かれた通りにそのまま従えば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」ですが、聖教を額面通りに受け取らず、裏を詮索するのを「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と非難されているのです。

真実の信楽まことに獲ること難し」の意味がお判りいただければ、あとは「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」と知らされるのも間もなくでしょう。

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2012年10月19日 (金)

嘘をつき通さねばならない哀れな高森会長と講師部員

親鸞会では、法論を申し込まれればどんな条件でも受けると公約していて、最近はそれを会員に無理やり宣伝しています。必死さが伝わって哀れみを感じます。ここまであからさまな嘘を付かなければならない程、もがき苦しんでいるようです。

過去に何人かの退会者が親鸞会に法論を申し込みました。しかし、悉く無視されています。私もその一人です。

その時のことは

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

で書きました。もちろん未だに何の連絡もありませんが、密かに顕真にて「ひと口問答」が連載されて、内輪向けに反論していることになっています。現在は10項目中の5番目までです。

その内容は以下の通りです。

飛雲

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

顕真5月号

問い

弥陀に救われずに死ぬ人は、六道輪廻するか、または十九願・二十願の行者は化土へ往生すると親鸞聖人は教えられているのに、地獄に堕ちるというのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

 蓮如上人は「信心決定せずは、報土往生すべからず」(『御文章』三帖目八通)と、報土に対する化土ですから、十九・二十願の行者の化土往生も排除されてはいません。 また、六道の中には無間地獄もありますから「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とも『御文章』(二帖目二通)にあります。

飛雲

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

顕真6月号

問い

五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。

顕真9月号

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

飛雲

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

顕真7月号

問い

親鸞聖人は善人と悪人がいると仰っているのに、すべての人は悪人というのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に断言されています。「一切の群生海」とは、すべての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、悪人ということです。 善人は一人もいないと仰っています。 これは親鸞聖人の一貫して変わらぬ人間観で、世に轟いていることです。

飛雲

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

顕真8月号

問い

親鸞聖人は 念仏一つで助かる。獲信には善は不要 と仰っているのに、 善をしなければ獲信できない というのは間違いだという人がありますが、如何でしょうか。

答え

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。「捨てよ」と「不要」との違いは、「ハケ」と「ハゲ」の読み違いどころではありません。毛の有るのと無いのとは、全く逆で大違いだからです。注意しなければなりません。

飛雲

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

顕真10月号

問い

白道とは自力の心に非ず」と教えられているのに、白道を自力の心というのは間違いだ、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

白道とは、善導大師の「二河譬」に出る言葉です。
その中で、「火焔に道を焼く」と我々の善心、聞法心を白道に喩えられ、自力の善心、求道心の微弱でお粗末なことを「極めてこれ狭少なり」と仰っています。
善導大師の「二河譬」の前段に説かれる白道とは、明らかに自力の聞法心、願往生心を喩えられたものです。
前段なしの後段はあり得ず、あとは自他力廃立あるのみです。
親鸞聖人は、この善導大師を大心海化現の方と言い、「善導独明仏正意」と讃仰されています。

以上を見て頂いてお判りかと思いますが、親鸞聖人が仰ったこととして私が書いたことを直接否定していません。つまり、親鸞聖人がこのように仰っていることを初めて認めた訳です。これまで、親鸞聖人がそのようなことを仰っていたとは、言ったことがありませんでした。というよりも、知らなかった、というのが正しいと思いますが。

従いまして、親鸞聖人が高森会長の言っていることを否定されたお言葉があることは、認めざるを得なかったのですから、進歩といえます。ただし、その否定しようのない親鸞聖人のお言葉を、高森会長の独自の解釈を持って否定しようとしているのですから、無理な話です。それが判っていながら嘘を付き通さねばならない高森会長と講師部員は本当に哀れです。その嘘に騙されて、献金を強要されて疲弊している会員はもっと哀れです。

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2012年10月15日 (月)

嘘がばれて、その嘘を隠すために別の嘘をつき、更に追い詰められる高森顕徹会長

会員には度重なる財施が勧められ、年々、会員は経済的に苦しくなってきています。会員が年々苦しくなってきているのは、親鸞会の経営もそれだけ年々苦しくなってきている証拠でもあります。
そんなこともあり、煩悩と戦う求道の象徴である「白道」に関しては、間違いを絶対に認めるわけにはいかないのです。1ヶ月遅れで詭弁を弄したつもりでしょうが、実にお粗末でした。あれでは余計に会員の印象が悪くなると思うのですが、そんなことも言っておれない程、追い詰められているのでしょう。

ただ、以前に某弘宣局長は、『愚禿鈔』を出して「白道」が自力の求道心、聞法心である根拠だと自信満々に言っていましたが、その間違いは認めざるを得なかったようです。

ところで今、話題になっているiPS細胞移植手術をしたと主張する某氏の会見を見ていると、高森会長や某弘宣局長と重なって見えます。また12年前にあった、上高森遺跡等での旧石器捏造事件も思い出されます。
嘘は早めに謝罪しないと、自分でも収拾がつかなくなります。嘘のための嘘をつき続けているうちに訳が判らなくなり、嘘付きのレッテルはより広く深く拡散されます。

まあ、今更謝罪したところで、真宗史上最悪の悪知識と名を残すことは確実です。
なぜなら、親鸞聖人が仰っていないことを仰った根拠として捏造し、親鸞聖人が実際に仰った根拠を否定しているのですから、隠すことも誤魔化すこともできない完璧な邪義ですから。

さて、今回の「ひと口問答」で

善導大師の「二河譬」の前段に説かれる白道とは、明らかに自力の聞法心、願往生心を喩えられたものです。前段なしの後段はあり得ず、あとは自他力廃立あるのみです。

とある「前段」「後段」が、何を意味しているかはっきり書かないことで誤魔化していますが、「前段」は信前つまり三定死前、「後段」は信後つまり三定死後、と会員に思わせるようにしているのは、間違いないことです。

以前に

一口問答(白道は自力か他力か1)

問い

白道」の中間で三定死になり、三定死の後は「白道」が無碍の大道に変わると教えられていますから、「白道」は求道心あるいは聞法心に決まっているではないですか。

答え

善導大師の『観無量寿経疏』、あるいは『教行信証』信巻にある二河白道の譬えを読んだことがないのですか。
三定死は、「白道」に乗る前ですよ。三定死の後も、「白道」は幅四、五寸のままです。
勝手に話を創作しないで下さい。
自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人でしたよね。

と書きましたが、この「前段」「後段」に併せて、少し修正しておきます。

問い

二河譬」の前段は三定死までの「白道」、後段は三定死後の「白道」であり、後段では「白道」が無碍の大道になると教えられていますから、前段の「白道」は求道心あるいは聞法心に決まっているではないですか。

答え

善導大師の『観無量寿経疏』、あるいは『教行信証』信巻にある二河白道の譬えを読んだことがないのですか。
三定死は、「白道」に乗る前ですよ。三定死の後も、「白道」は幅四、五寸のままです。
勝手に話を創作しないで下さい。
自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人でしたよね。

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2012年10月14日 (日)

顕真10月号「ひと口問答」とその出鱈目

顕真10月号の「ひと口問答」は以下です。

問い

白道とは自力の心に非ず」と教えられているのに、白道を自力の心というのは間違いだ、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

白道とは、善導大師の「二河譬」に出る言葉です。
その中で、「火焔に道を焼く」と我々の善心、聞法心を白道に喩えられ、自力の善心、求道心の微弱でお粗末なことを「極めてこれ狭少なり」と仰っています。
善導大師の「二河譬」の前段に説かれる白道とは、明らかに自力の聞法心、願往生心を喩えられたものです。
前段なしの後段はあり得ず、あとは自他力廃立あるのみです。
親鸞聖人は、この善導大師を大心海化現の方と言い、「善導独明仏正意」と讃仰されています。

白道とは自力の心に非ず」と教えられていることを認めながら、恣意的に曲解をしています。どうすれば会員を騙すかしか考えていないのでしょう。
これまでの問答だけでも十分ですが、一応書いておきます。

問い

白道とは、善導大師の「二河譬」に出る言葉です。その中で、「火焔に道を焼く」と我々の善心、聞法心を白道に喩えられ、自力の善心、求道心の微弱でお粗末なことを「極めてこれ狭少なり」と仰っています。善導大師の「二河譬」の前段に説かれる白道とは、明らかに自力の聞法心、願往生心を喩えられたものではないですか。

答え

まず、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観経疏)の悪人に善心があるというのが、最初から矛盾しています。
次に、「〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。」(同)とあります。「功徳の法財」は、もちろん自力ではありません。阿弥陀仏の「功徳の法財」であり、他力信心を顕わされています。
最後に、「極めてこれ狭少なり」は、他力信心は高森会長の言うような無碍の大道ではないことを顕わされたものです。つまり、他力信心を賜っても、煩悩は変わらないことを譬えられたものです。親鸞聖人はそれを「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。」(一念多念証文)と教えられているのです。

(参照)
高森邪義を徹底的に否定された二河白道の譬え

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2012年10月12日 (金)

「いかにして高森会長の御こころにかなはんずるとおもひ、高森会長に追従して」で救われることがあるか?

親鸞会の会員も、そして退会者も知りたい、念仏と信心との関係及びどうすれば信心を頂けるのかについても『安心決定鈔』で教えられています。

念仏三昧の領解ひらけなば、身もこころも南無阿弥陀仏〔に〕なりかへりて、その領解ことばにあらはるるとき、南無阿弥陀仏と申すがうるはしき弘願の念仏にてあるなり。念仏といふは、かならずしも口に南無阿弥陀仏ととなふるのみにあらず、阿弥陀仏の功徳、われらが南無の機において十劫正覚の刹那より成じいりたまひけるものを、といふ信心のおこるを念仏といふなり。
さてこの領解をことわりあらはせば、南無阿弥陀仏といふにてあるなり。この仏の心は大慈悲を本とするゆゑに、愚鈍の衆生をわたしたまふをさきとするゆゑに、名体不二の正覚をとなへましますゆゑに、仏体も名におもむき、名に体の功徳を具足するゆゑに、なにとはかばかしくしらねども、平信のひともとなふれば往生するなり。されども下根の凡夫なるゆゑに、そぞろにひら信じもかなふべからず、そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり。

(現代語訳)

仏の御名の力で参らせて頂くという念仏三昧のお謂れが信じられれば、身も心も全く南無阿弥陀仏になってしまう。そうしてその信心が言葉に顕われて南無阿弥陀仏と称えるのが麗しい第十八願の念仏である。大体、念仏と申すのは、口に南無阿弥陀仏と称えるばかりを申すのではない。阿弥陀の四字のなかに籠められてある功徳が、我々の信ずる南無の心に入り満ちてお助け下さるというお謂れが、十劫以前に仏が正覚を御成就あそばしたその時からできているから、お助けに預かると信じられた信心の起ったのを念仏というのである。

その信心領解を言葉に顕わしたのが、南無阿弥陀仏という称名である。この仏のお心は、大慈悲が本であるから、愚鈍な衆生をたすくることを何よりも先とせられる。愚鈍な衆生が受取り易いように、仏体のままを御名に顕わされて名体不二の正覚を得られた。それであるから仏体はそのまま御名の中に入り込んで御名に仏体の功徳がそなわる。何の道理理屈を知らなくてもそのまま平に信じて、御名を称えている人は浄土に生るるのである。左様ではあるが、下根の凡夫のことであるから、理屈なしで平に信ずることもできぬ。詳しく法義を聞き開きて信心が起るのである。

最後の「そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり」が、重要です。「そのことわり」とは、前回でいえば、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」です。高森会長の強調する”因果の道理”を何百年聞いていても信心は頂けません。当たり前です。高森会長の強調する”因果の道理”を「超異」した「別異の弘願」を聞かなければ、「下根の凡夫なるゆゑに、そぞろにひら信じもかなふべからず」です。

次に自力の念仏について説明されています。

自力のひとの念仏は、仏をばさしのけて西方におき、わが身をばしらじらとある凡夫にて、ときどきこころに仏の他力をおもひ名号をとなふるゆゑに、仏と衆生とうとうとしくして、いささか道心おこりたるときは、往生もちかくおぼえ、念仏もものうく道心もさめたるときは、往生もきはめて不定なり。凡夫のこころとしては、道心をおこすこともまれなれば、つねには往生不定の身なり。もしやもしやとまてども往生は臨終までおもひさだむることなきゆゑに、口にときどき名号をとなふれども、たのみがたき往生なり。たとへばときどきひとに見参、みやづかひみやづかひするに似たり。そのゆゑは、いかにして仏の御こころにかなはんずるとおもひ、仏に追従して往生の御恩をもかぶらんずるやうにおもふほどに、機の安心と仏の大悲とがはなればなれにて、つねに仏にうとき身なり。この位にてはまことにきはめて往生不定なり。

(現代語訳)

自力の人の念仏は、仏をばさしのけて、遠く西方浄土において、我が身をば仏と無関係な凡夫として折りに触れて、時々仏の他力のことを思うて御名を称えているのであるから、仏と衆生とが、どうしても疎遠になって、少しでもありがたい道心らしい心でも起ると、往生も遂げられるように思われ、もしそうでなくて、念仏も懈怠になり、ありがたい心も失せてしまったときには、往生もできまいかと心配して、往生は極めて不定である。ところが、凡夫としては、そのありがたい道心を起すことも、極稀であるから、常に往生は、できまいかと心配しなければならぬ身である。そのうちには往生のさだまる時があろうかと待っても、往生は臨終まで思い定められるときはない。それゆえに、口には時々御名を称えても、往生はあてになりがたいのである。
それをたとえて申すならば、ときどき主君に目見えし奉公するようなものである。その理由は自力の人はどうかして仏の御心にかなおうと心配し、仏に追従して、往生させて頂く御恵みに預かろうと思うのであるから、その衆生の安心と仏の大慈悲心とは、しっくり合わなくて、離れ離れであって、常に仏とは疎遠な身である。そのようなことでは、まことにきわめて往生は不定である。

自力のひとの念仏」は、「仏と衆生とうとうとしくして」「つねに仏にうとき身」なのです。阿弥陀仏が遠い存在になっているのです。
それでも親鸞会の会員に比べたら、まだましです。親鸞会の会員は「自力のひとの念仏」も称えないのですし、「仏と衆生とうとうとしくして」「つねに仏にうとき身」以前の問題として、阿弥陀仏と会員との間に高森会長を挟んで、しかも

高森会長と会員とうとしくして

です。会員からしても高森会長が遠いのです。高森会長の直弟子である筈の講師部員でさえ、高森会長と直接話をしたこともない有様です。

自力の念仏者は「いかにして仏の御こころにかなはんずるとおもひ、仏に追従して」ですが、会員はそれさえもできない

いかにして高森会長の御こころにかなはんずるとおもひ、高森会長に追従して

ですから、こんなことでは昿劫多生を経ても、信心が頂けることなどありません。

どの聖教にも、親鸞会の会員が救われない理由が明示されています。

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2012年10月11日 (木)

願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず

高森会長は何かの一つ覚えで、「仏教の根幹は因果の道理」だと言い続けていますが、この”因果の道理”を親鸞聖人が教えられているところはないのです。造悪無碍の者に対する誡めのために言われることはあっても、18願の救いに対しては否定された言い方しかされていません。その理由は『安心決定鈔』を読むと判ります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

(現代語訳)

まことに極楽に参りたいと思えば、我々衆生自分にこそ、そのための願を起し行も励まねばならぬのであるのに、その願行は法蔵菩薩のお手元にお励み下されてその出来上がりは我々のものと成就して下された。このように仏のお励み下されたものが、私のものとなるということや、世間や仏法の上に普通いわれる自分のものは自分に造らればならぬという因果の道理には、はるかに超えており、異なっているものである。それで善導大師は『観経疏』玄義分には「別意の弘願」と讃嘆なされてある。その衆生に代って願行を成就せられたことは、迷いの世界に沈んでいるよりほかに仕方のない者を第一として、善人に至るまで一人にでも及ばないならば、仏の大慈悲の願は満足することはできない。衆生の一人一人のための願行が悉く成就したとき、仏は正覚ができ、凡夫は往生ができたと申されるのである。

別異の弘願」は「世間・出世の因果のことわりに超異せり」だからです。「世間・出世の因果のことわり」を強調すればするほど、「別異の弘願」は信じられなくなります。本願力回向は、高森会長の説く”因果の道理”では説明できないことです。空の思想によるものだからです。法蔵菩薩の願行によって得られる功徳を衆生に与えられることを、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」と言われているのです。

では、衆生の方で何もする必要がないから最初から救われているのではないか、という早合点をする人がいますから、そのことについても説明なされています。

かかる不思議の名号、もしきこえざるところあらば正覚取らじと誓ひたまへり。われらすでに阿弥陀といふ名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりといふことを。きくといふは、ただおほやうに名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて疑はざるをきくとはいふなり。御名をきくも本願より成じてきく、一向に他力なり。たとひ凡夫の往生成じたまひたりとも、その願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆゑに名号をききても形像を拝しても、わが往生を成じたまへる御名ときき、「われらをわたさずは仏に成らじと誓ひたまひし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまへる御すがたよ」とおもはざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。

(現代語訳)

その上に仏はその衆生の往生と、仏の正覚とが一緒に成就した不可思議な名号が、何れの世界にも聞こえないところがあるならば、正覚は得まいと誓われた。それに我々はすでに阿弥陀という仏の正覚の御名を現に聞いている。そうすると仏の正覚と一体に、成就される我々の往生は、すでに成就しているということを知らねばならない。その聞くと申すことは、ただおおように御名を聞き流しているのではない。我々が易く助けられる本願他力の不思議を聞いて、更に疑う所のないものを聞くと申すのである。その御名を聞くと申すのも、私の方ではなくて本願他力の上に成就して聞かせていただくのであるから、全分他力である。それであるから、名号を聞いても、自分の浄土往生の成就されてある御名と聞かなかったならば、聞いても聞かないのと同じであり、また御形像を拝んでも衆生を助けないならば、仏にならないとお誓いされた法蔵菩薩の願が無駄でなくて、仏の正覚を成就せられたお姿と思わないならば、拝んでも拝まないのと同じである。

たとひ凡夫の往生成じたまひたりとも、その願成就したまへる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき」です。
高森会長の話を何十年真剣に聞いていても、「きくともきかざるがごとし」にしかなりません。高森会長には自力と他力の水際が説けないのですから、当たり前のことです。

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2012年10月 9日 (火)

法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛されているのが『安心決定鈔』です。

『安心決定鈔』は最初に、衆生の往生と阿弥陀仏の正覚の機法一体について説示され、

仏は衆生にかはりて願と行とを円満して、われらが往生をすでにしたためたまふなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を成じたまひしなり。
かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。

(現代語訳)

仏のお手元では、衆生に代って、衆生が浄土往生の為になくてはならない願と行とを、欠け目なくととのえてあげて、我々の浄土往生ということがすでに明らかに認められるのである。
このように十方の衆生の願行が欠け目なくととのえられて、浄土往生ということができあがったとき、仏の正覚はできたのである。それで仏の正覚は機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのである。このような訳であるから、仏の正覚の外に我々凡夫の往生と言うことはないのである。十方の衆生の浄土往生がととのったとき仏も正覚を得られたのであるから、仏が正覚を得られたときと、我々凡夫の往生がととのった時とは前後はなく同時である。仏のお手元から申すならば、我々衆生の往生はすでにととのっている。けれども、衆生がこのお謂れを信じさせて頂くことが同一様でないから、往生する事実においては前後があり、これより前にすでに往生した人もあり、現に今往生する人もあり、これから後に当に往生すべきひともある。このように人々によって往生することは過去・現在・未来と三世にわかれて同一様ではない。けれども、仏が衆生にかわって衆生の往生をととのえあげて自分の正覚を得られた一念そのものの外に、衆生の方からいささかでも更に付け加えるということはないのである。

と述べられています。
ここで、「衆生がこのことわりをしること」が信心ということです。親鸞会ならば、十劫安心と貶すところでしょう。
この信心については、この後様々な表現がされています。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行でないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたからである。此仏が凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたことを領解させて頂いて、仏に救わるる事となったのを三心(至誠心・深心・回向発願心)とも三信(至心・信楽・欲生我国)とも信心ともお示し下されている。かように仏が凡夫の願行を御名に成就して下されてあるのを口に称えあらわす、それが南無阿弥陀仏の称名念仏である。
このような訳で、仏が凡夫の願行を成就して下されたことを領解し、称うるのであるから、領解も自分の機の力であると自分に功を認めなくて、全く仏の願力であると功を願力にもどし、全く他力を仰ぐのである。以上、申したようなわけであるから、浄土門の教義は、つまり第十八願のお謂れを、よくよく心得さして頂くより外のことは、ないのである。

法蔵菩薩の五劫兆載の願行」によって、「凡夫の願行を成ずる」のであり、「下品下生の失念の称念」も「機の願行にあらずとしるべし」なのです。
これは先の、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり」と同じことです。
また、

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。

(現代語訳)

第十八願のお謂れを心得さして頂くというのは、南無阿弥陀仏の名号のお謂れを心得さして頂くのである。その名号のお謂れを心得さして頂くというのは、阿弥陀仏が我ら衆生に代って我々のもたねばならぬ願行を成就して下され、我等の浄土往生ということが我等がそれを信じない以前に成就されたその時、そのすべての衆生の往生を、仏の正覚、そのものとされたことを領解さして頂くのである。

とも表現されています。
我々が信じる信じない以前に、我々が往生できるようになっているのです。それなのに、何かをしなければならない、と阿弥陀仏から賜る功徳だけでは不足だ、と勝手な計らいをいれて「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」によって成就した「凡夫の願行を撥ねつけるから、往生できないのです。

蓮如上人が絶賛されている理由が、少しでも御理解いただけたでしょうか。

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2012年10月 7日 (日)

往相回向と還相回向

真実の行と真実の信、更には真実の証まで、阿弥陀仏が用意して下されて、私たちはそれをそのまま賜るのです。これを往相回向といい、前回までに紹介した『三経往生文類』の御文で親鸞聖人は教えられています。

今回は、還相回向のところです。『三経往生文類』

 二つに還相の回向といふは、『浄土論』にいはく、「本願力の回向をもつてのゆゑに、これを出第五門と名づく」といへり。これは還相の回向なり。一生補処の悲願(第二十二願)にあらはれたり。
 大慈大悲の願(第二十二願)、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生すれば、究竟してかならず一生補処に至る。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除かんと。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」と。[文]
 この悲願は、如来の還相回向の御ちかひなり。

 如来の二種の回向によりて、真実の信楽をうる人は、かならず正定聚の位に住するがゆゑに他力と申すなり。しかれば『無量寿経優婆提舎願生偈』にいはく、「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」とのたまへり。
 これは『大無量寿経』の宗致としたまへり。これを難思議往生と申すなり。

(現代語訳)

 二つに、還相の回向というのは、『浄土論』に次のようにいわれている。
 「阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という」
 これは還相の回向であり、慈悲の心からおこしてくださった一生補処の願(第二十二願)に示されている。その大いなる慈悲の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてくれば、必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。ただしそれぞれの願いに応じて、自由自在に人々を導くため、かたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、仏がたの国に行って菩薩の行を修め、すべての世界の仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることもできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。もしそうでなければ、わたしは決してさとりを開かない」
 慈悲の心からおこしてくださったこの願は、如来の還相回向のお誓いである。

 如来の二種の回向によって、真実の信楽を得た人は間違いなく正定聚の位に定まるのであるから、他力というのである。そこで『浄土論』にいわれている。
 「回向してくださるということはどういうことであろうか。阿弥陀仏は苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、いつも功徳を与えようと願い、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである」
 これは『無量寿経』に説かれた教えのかなめとされているものである。これを「難思議往生」というのである。

回向について親鸞聖人は『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』を引かれて「一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」と教えています。衆生教化のはたらきまでも阿弥陀仏が与えて下さるのですから、衆生が何かをして補う要素は全くありません。

もちろん、これを拒否していたら真実の利益は受け取ることができません。阿弥陀仏からの賜り物を拒否することを、「仏智不思議を疑う」と言われます。阿弥陀仏がすべてを用意なされているのに、阿弥陀仏のお力に不足があると考えて、罪福の因果をもって何かを加えようとするから、「仏智不思議を疑う」のです。

そのことを『正像末和讃』誡疑讃

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

と仰り、自因自果を信じている人は自因自果の道理によって、報土往生はできず化土往生にしかならない、ということです。
もちろん、浄土を願っているという前提ですので、この前提のない(絶対の幸福を目指している、とか、必堕無間から逃れたいとか思っている)人は化土往生もできません。

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2012年10月 6日 (土)

真実の証果

真実の行と真実の信によって、真実の証を得ることができます。一方で、方便の行と方便の信によっては、方便の証を得ることになります。そのことを説明されているのが、『三経往生文類』です。

方便だからすべての人に必ず必要なものだ

とか寝恍けたことをいうのが高森会長ですが、真実を信じる気のない人がいるから仮に方便として説かれているのであって、方便を方便と知り、真実を求める気のある人には、不要なものです。それで、親鸞聖人は真実と方便とを比較なされて、方便に迷うなと誡められているだけです。

前回、真実の行と真実の信についての御文を紹介しましたので、その続きで真実の証について、現代語訳をつけて紹介しておきます。

 また真実証果あり。すなはち必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。[文]
 同本異訳の『無量寿如来会』にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」と。[文]
 『無量寿如来会』にのたまはく、「他方仏国の諸有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜愛楽せん。あらゆる善根回向して、無量寿国に生れんと願ぜば、願に随うてみな生れて、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間と正法を誹謗し、および聖者を謗ぜんをば除かん」と。 必至滅度・証大涅槃の願(第十一願)成就の文、『大経』にのたまはく、 「それ衆生あつてかの国に生れんもの、みなことごとく正定の聚に住せん。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚はなければなり」。[文]
 また、『如来会』にのたまはく、 「かの国の衆生と、もしまさに生れんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し涅槃の処に到らん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」と。{以上抄要}

 この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。この正定聚に住するを等正覚を成るとものたまへるなり。等正覚と申すは、すなはち補処の弥勒菩薩とおなじ位となると説きたまへり。しかれば、『大経』には「次如弥勒」とのたまへり。
 『浄土論』(論註)にいはく、「〈荘厳妙声功徳成就は、偈に《梵声悟深遠微妙聞十方》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なるや。『経』(平等覚経)にのたまはく、〈もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生れんと願ずると、また往生を得ると、すなはち正定聚に入る〉と。
これはこれ国土の名字、仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや。{乃至}〈荘厳眷属功徳成就は、偈に《如来浄華衆正覚華化生》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界は、もしは胎もしは卵、もしは湿もしは化、眷属そこばくなり、苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。かの安楽国土はこれ阿弥陀如来の正覚浄華の化生する所にあらざることなし。 同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるにそれ四海の内みな兄弟とするなり、眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」。
 また、のたまはく(論註)、「往生を願ずるもの、本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なることなし。また淄澠の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや」。{以上}
 また、『論』(同)にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就は、偈に《観彼世界相勝過三界道》とのたまへるがゆゑに〉と。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるあつて、またかの浄土に生を得るに、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃の分を得。いづくんぞ思議すべきや」。{以上抄要}

 この阿弥陀如来の往相回向の選択本願をみたてまつるなり。これを難思議往生と申す。これをこころえて、他力には義なきを義とすとしるべし。

(現代語訳)

 また真実の証がある。これはすなわち、慈悲の心からおこしてくださった必至滅土の願(第十一願)に示されている。その証果の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、わたしの国のものが正定聚の位にあり、必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」
 同じ経典の異訳である『如来会』に説かれている。
 「わたしが仏になるとき、わたしの国のものが間違いなく等正覚を成就し、大涅槃をさとることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」
 また『如来会』に説かれている。
 「他の国のすべてのものが、無量寿如来の名号のいわれを聞き、たちどころに清らかな信をおこして歓喜し、すべての功徳をおさめた名号を与えられ、無量寿如来の国に生れようろ願うなら、願いどおりにみな往生し、不退転の位を得て、この上ないさとりを開くことができる。ただし、無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、仏法や聖者たちを謗るものだけは除かれる」
 必至滅土・証大涅槃の願(第十一願)が成就したことを示す文は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「浄土に生れるものは、すべてみな正定聚の位にある。なぜなら、阿弥陀仏の浄土には邪定聚や不定聚のものはいないからである」
 また『如来会』に説かれている。
 「浄土に生れたものも、まさに生れようとするものもみな、必ずこの上ないさとりをきわめ、涅槃に至るであろう。なぜなら、邪定聚や不定聚のものは、浄土に往生する因が設けられていることを知らず、往生することができないからである」

 この真実の称名と真実の信楽を得た人を、ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになったのである。この正定聚の位に定まることを、等正覚を成就するともいわれている。等正覚というのは、すなわち一生補処の弥勒菩薩と同じ位になることである。だから、『無量寿経』には、「次如弥勒(次いで弥勒のごとし)」と説かれている。
 『往生論註』に説かれている。
 「〈荘厳妙声功徳成就とは、願生偈に、《清らかなさとりの声は実に奥深くすぐれて、いて、すべての世界に響きわたる》といわれている〉と『浄土論』に述べられている。これがなぜ不思議なのであろうか。経典に、〈阿弥陀仏の浄土が清く安らかであることを聞いて、他力の信を得て往生しようと願うものと、また往生したものとは、ともに正定聚に入る〉と説かれている。これはその浄土の名そのものがすべてのものを救うはたらきをするのである。どうして思いはかることができようか。(中略)また〈荘厳眷属功徳成就とは、願生偈に、《浄土の清らかな方々は、みな如来のさとりの花から化生する》といわれている〉と『浄土論』に述べられている。これがなぜ不可思議なのであろうか。この世界には、胎生や卵生や湿生や化生というさまざまな生れ方をするものが多くいて、そこで受ける苦も楽も千差万別である。それはさまざまな迷いの行いに応じて生れるからである。しかし、浄土では、みな阿弥陀如来の清らかなさとりの花からの化生である。それは同じ念仏によって生れるのであり、その他の道によるのではないからである。そこで、遠くあらゆる世界に通じて、念仏するものはみな兄弟となるのであり、浄土の仲間は数限りない。どうして思いはかることができようか」
 また『往生論註』にいわれている。
 「浄土への往生を願うものは、この世では九品の違いはあっても、往生してからは何の違いもない。それは淄川の水も澠川の水も海に入れば一つの味になるようなものである。どうして思いはかることができようか」
 また『往生論註』にいわれている。
 「〈荘厳清浄功徳成就とは、願生偈に、《浄土のあり方を観ずると、迷いの世界を超えている》といわれている〉と『浄土論』に述べられている。これがなぜ不可思議なのであろうか。あらゆる煩悩をそなえた凡夫が、阿弥陀仏の浄土に生れると、迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、もはやその力を失う。これは自ら煩悩を断ち切らずに、そのまま浄土で涅槃のさとりを得るということである。どうして思いはかることができようか」

 こうした、阿弥陀如来によって選び取られた往相回向の本願のはたらきについて、うかがってきたのである。これを「難思議往生」という。このことを心得て、他力においては自力のはからいがまじらないことを根本の法義とすると知らねばならない。

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2012年10月 5日 (金)

真実の行と信

親鸞聖人は、18願で救われるとはどういうことなのかを、いくつかの御著書で明らかになされています。『教行信証』が最も詳しいのですが、『三経往生文類』には、19願・20願の化土往生と比較なされて、まとめられています。なぜ19願・20願について仰ったのかといえば、それだけ善に拘り、自力念仏に執着する人が当時は非常に多かったからです。三願転入を説かれたのでもなく、19願を勧められたのでもありません。

さて、親鸞聖人は『三経往生文類』で、『教行信証』同様、真実の行を17願、真実の信を18願、真実の証を11願、還相回向を22願で説明なされています。非常に重要なところですので、現代語訳を付けて紹介しておきますが、長くなりますので、今回は真実の行と真実の信についてのところだけです。

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
 称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。[文]

 また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。 信楽の悲願は『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじと。ただ五逆と正法を誹謗せんを除かん」と。[文]
 同本異訳の『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ無上覚を証得せんとき、余の仏刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞きをはりて、所有の善根、心々回向して、わが国に生れんと願じて、乃至十念せん。もし生れずは、菩提を取らじと。ただ無間悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんを除かん」と。[文]

(現代語訳)

 この如来の往相回向について、真実の行がある。これはすなわち、慈悲の心からおこしてくださった諸仏称名の願(第十七願)に示されている。その称名の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなほめたたえて、わたしの名を称えないようなら、わたしは決してさとりを開かない」
 慈悲の心からおこしてくださった称名・信楽の願(第十七・十八願)が成就したことを示す文は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「すべての世界の数限りもない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。すべてのものは、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うときそのまま往生する身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、仏法を謗るものだけはのぞかれる」

 また、真実の信がある。これはすなわち、慈悲の心からおこしてくださった念仏往生の願(第十八願)に示されている。この信楽の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
 「わたしが仏になるとき、すべてのものがまことの心で信じ喜び、わたしの国に生れようと思って、たとえば十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない。ただし、五逆の罪を犯したり、仏法を謗るものだけは除かれる」
 同じ経典の異訳である『如来会』に説かれている。
 「わたしがこの上ないさとりを得るとき、他の国のものがわたしの名号のいわれを聞いて、すべての功徳をまことの心から与えられ、わたしの国に生れようと願い、たとえば十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、私は決してさとりを開かない。ただし、無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、仏法や聖者たちを謗るものだけは除かれる」

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2012年10月 3日 (水)

三願について

19願・定散二善の「一口問答」は、この程度にしておきます。コメント欄でも盛り上がりましたように、この問題に関しては、邪義が根強く蔓延っています。高森会長の教えていることが間違いだ、と理解した人でも、これだけは間違いだとは思えない人が、大変多いのが事実です。
19願・20願について、親鸞聖人は御著書の中で何箇所か教えらていますが、三願転入という形で仰ったのは、『教行信証』化土巻だけです。20願から18願への「転入」は、「果遂の誓い」という点で言及されている箇所はいくつかあっても、19願から20願への「回入」についての言及は、三願転入の文以外にはありません。19願を選ぶのも自分の意思ですから、19願を捨てるのも自分の意思だからです。

さて、三願について比較して詳しく教えられているものに、『三経往生文類』があります。それぞれ抜粋しておきます。

18願

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

(現代語訳)

「大経往生」というのは、如来が選び取られた海のように広大で不可思議な本願のはたらきによるものであり、これを他力というのである。これはつまり念仏往生の願(第十八願)に誓われた因により、必至滅土の願(第十一願)に誓われた果を得るのである。この世において正定聚の位に定まって、必ず真実の浄土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向という真実の因によるものであるから、この上ない涅槃のさとりを開くのである。この教えを『無量寿経』のかなめとする。このようなわけで、「大経往生」といい、また「難思議往生」というのである。

19願

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。これは、他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。このようなわけで「観経往生」というのは、どれもみな方便の浄土への往生である。これを「双樹林下往生」というのである。

20願

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽くすことも、説き尽くすことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く重い罪であり、浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じ込められて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから、「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって、「難思議往生」とはいわないとしらなければならない。

ここで、三願は別物ということで、それぞれ関連付けられていません。

簡単にいえば、ここで親鸞聖人が仰っていることは、

浄土往生の道に3通りある。

18願他力念仏―報土往生

19願自力修善―化土往生

20願自力念仏―化土往生

ということです。つまり、19願・20願での化土往生を願うのではなく、18願の報土往生を願いなさい、ということです。

次回は、18願大経往生のところを詳しく見てみたいと思います。

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2012年10月 1日 (月)

一口問答(19願・定散二善12)

問い

三願転入せずしては、誰一人救われないのではないですか。19願の実践は、必要です。

答え

七高僧方も、覚如上人も蓮如上人も、そして親鸞聖人も、19願を勧められたお言葉は1箇所もありません。三願転入の文をよく読んでください。「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を「久しく出で」「永く離れ」です。これは後の「久しく願海に入りて」に対応しています。善知識のお勧めによって、19願を永久に離れた、ということです。
19願を取るのが、あなたの判断ならば、捨てるのもあなたの判断です。善知識方は口を揃えて、19願を捨てるように教えられています。

(参照)
三願転入の文の意義

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