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2012年9月11日 (火)

高森邪義を捨て去るのが求道

高森会長は信前の求道を強調し、会員から搾取する目的で、二河白道の譬えを利用していることは明らかです。ただし、二河白道の譬えを正しく理解した上で捻じ曲げたというよりは、知らずに利用した、というのが正解でしょう。欲望と勝手な思い込みにより創作話ができたということです。

さて、高森会長が拘る求道ですが、完全に親鸞聖人の教えから逸脱しています。親鸞聖人が教えられたことは、本願力回向です。法蔵菩薩が兆載永劫の修行によって獲られる功徳を十方衆生に斉しく与える、ということです、自因自果の範疇から抜け出せない有の見の考え方では、到底理解できる筈もないでしょう。そんな、有の見の自因自果に凝り固まって、自力の善に拘る人のことを指して、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

と痛烈に非難されています。
阿弥陀仏に救われるには何かしなければならない、と考えることを「仏智の不思議をうたがへば」と仰っているのです。
最初から信後の人はありませんので、信前の人が信後になる、そういう意味では信前の求道はあります。しかし、その求道とは高森会長の言うような煩悩と戦って、善のできない者と知らされるまで善に励む、とかいう聖道門もどきの道ではありません。煩悩と戦って、とか、善に励む、とか、三願転入の道を進む、という間違った考えを捨てる道です。つまりは、高森会長の教えている邪義を全て捨て去っていくことが、正しい求道です。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。

とある通りです。
高森会長の言っていることは、親鸞聖人の仰せとは真逆です。それにしがみついていることは「みづからが身をよしとおもふこころ」です。釈尊、善知識方のお言葉に沿った教えに従わずして、御文とは異なった勝手な解釈を正しいとする思いあがった心のままでは、他力に帰すことはありません。
ましてや、往生を願わず、空想の絶対の幸福などを求めていては、求道にもなっていません。

往生を願う気のない人、出離を願わない人を闡提といいます。親鸞会の会員は、闡提と言えます。
『法事讃』を引かれて『教行信証』信巻

謗法・闡提、回心すればみな往く

と教えられていますように、間違った心を翻えさない限り救われることはありません。

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