« 一口問答(19願・定散二善2) | トップページ | 一口問答(19願・定散二善4) »

2012年9月22日 (土)

一口問答(19願・定散二善3)

問い

信前は、聖道門を信じている人も浄土門を信じている人も違いはないのではないですか。

答え

その考え方は、釈尊の対機説法を否定するものです。
親鸞聖人は『教行信証』化土巻で、「この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく」「安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく」と教えられています。この世で悟りを開く教えと、浄土に往生して悟りを開く教えとは、まったく違います。浄土に往生しようという気のない聖道門の人に、浄土往生を願わせるために、定散二善が説かれた、と善導大師、親鸞聖人が仰っているのですから、定散二善・19願の正機は聖道門の修行をしてきた善人です。

|

« 一口問答(19願・定散二善2) | トップページ | 一口問答(19願・定散二善4) »

一口問答」カテゴリの記事

コメント

では、韋提希夫人はどうなるのですか?

投稿: 海 | 2012年9月22日 (土) 17時53分

海 様

韋提希が定善を実践しようとした、と思われているのでしょうが、それは妄想です。
これまで何度も何度も説明してきたことです。

最近では
一口問答(獲信に善は必要か3)
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-1f25.html
に書きました。

M講師からの反論-三願転入の教え
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-6dca.html
も参照してください。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 20時17分

でも、韋提希夫人が、どうすれば極楽へ往けるか教えてほしい(教我思惟、教我正受)、と言ったから、釈尊が定善を説かれたんですよ。
定善の対機は韋提希夫人ということではないですか?

お願い
他の人は口をはさまないで下さい。

投稿: 海 | 2012年9月22日 (土) 20時39分

海 様

順番に確認します。
韋提希が定善を実践しようとしていないことは認められた訳ですね。
つまり、高森会長の言っていることは間違いであると。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 20時48分

定善の対機は韋提希であるとするならば、請われたのでもないのに韋提希に散善を説かれたのはなぜですか?
そして念仏を説かれたのはなぜですか?
少なくとも定善の機ではないからです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 20時54分

だから、韋提希には定善はできないと知り抜かれた上で、釈尊は韋提希に定善を説かれたということでしょ。
散善も同じですよ。

定散二善は聖道門の人だけに対して説かれたのではない、ということでしょ。

投稿: 海 | 2012年9月22日 (土) 21時57分

>韋提希が定善を実践しようとしていないことは認められた訳ですね。
>つまり、高森会長の言っていることは間違いであると。

これについては異論無しということで、決着です。

次に、

>だから、韋提希には定善はできないと知り抜かれた上で、釈尊は韋提希に定善を説かれたということでしょ。
>散善も同じですよ。

説かれたのと、勧められたのとは違います。
『浄土和讃』に

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

とあります。「定散諸機」に対して定散二善を勧められた、ということですね。
「定散諸機」とは「逆悪の機」に対するものです。
『正信偈』の

矜哀定散与逆悪

『正信偈大意』の

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

とあるように、「定散の機」と「逆悪の機」「五逆の機」は別です。


投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時03分

親鸞聖人も「釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し」のところで、「群生海」と仰っているではないですか。

投稿: 海 | 2012年9月22日 (土) 22時07分

もう少し丁寧に説明すれば、

往生するには

定善
散善
念仏

という3つを説かれている訳です。
説かれているから、すべての人に共通で関係があると言うのではありません。
それを説かれた目的があるということです。

定善・散善については定善・散善のできる人、つまり定善・散善と同じ内容の善をしてきた聖道門の人に、この世で悟りを開くだけではなく、同じ善で浄土に往生してから悟りを開くという道を示された、と親鸞聖人が仰っている訳です。
一方で、逆悪の機に対しては、定善散善の内容をまともに聞けば、最初からできないと判断する訳で、最後の念仏以外には道はないとなるのです。
それを、定散諸機に対して定散二善を勧められた、と御和讃で仰った訳です。
定散二善を逆悪の機が聞いたから、定散二善は逆悪の機に対しても必要だ、という理屈にはなりません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時13分

しっかり読んでから反論してください。

関連したところをコピペしておきます。
**********************************************

問い

「ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。」(教行信証化土巻)と親鸞聖人は仰っています。
釈尊はすべての人を定散二善に導き、阿弥陀仏はすべての人を19願に導かれている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。

答え

いつもの断章取義です。このお言葉の前に「然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。」と仰っています。外道から「半満・権実の法門」という聖道門に入ったといっても、悟りを開くものは甚だ稀である、ということです。
これを受けられて「ここを以て」です。
ですからこの御文の意味は、聖道門で悟りを開くことができない者が甚だ多いので、そんな者のために釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、ということです。

(参照)
超高学歴の幼稚思考の典型例

**********************************************

この方の言われる

1.親鸞聖人は、19願及び定散二善を、聖道門を断念した人を浄土門に導くためのものだと教えられている。

ですが、これは『教行信証』化土巻・要門釈のお言葉で、mixiでこうへい氏が大恥をかいた根拠です。

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。
偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

(現代語訳)

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

です。
19願と定散二善は、前半を読まれれば判る通り、「半満・権実の法門」つまり聖道門の修行に行き詰まった人を導くためのものであると親鸞聖人ははっきり仰っています。
ところが、昨年3月号の『顕真』ではこれを次のように曲解していました。

苦悩が絶えず、迷い深き人類は、数知れぬ外道邪教を逃れて、ようやく仏教にたどり着いても、因果の道理を信じて光に向かう者は、ほとんどなく無きに等しい。
内心は、みな外道に汚染され、善の勧めさえ非難する輩ばかりである。
悲しいこの人間の実態を見られた釈迦は、阿弥陀仏の十九願(福徳蔵)を『観無量寿経』一巻に集中して説き明かし、十方衆生にすべての善を勧められ、なんとか阿弥陀仏の十八願(絶対の幸福)まで導かんとご苦労なされたのである。

2年前は無知で、こうへい氏は間違えたのですが、1年前はmixiでの大惨敗の経験から、トンデモ曲解をしたのです。
専門的になりますが、一応「半満・権実の法門」について解説しておきます。

「半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
「権実」とは、権教と実教のことです。大乗教聖道門の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
「半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

「権実」の「実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

仏語の意味も知らない、古文の文法も知らない集団には、難しすぎる話であると思います。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時15分

「説かれたのと、勧められたのは違う」って本気で言ってるんですか?
釈尊は苦しむ韋提希を前にして、勧める気もないのに定善散善を説かれた、というのですか?

投稿: | 2012年9月22日 (土) 22時22分

もちろん本気で言っていますよ。
親鸞聖人がそう仰ったということです。
あなたには、根拠がない。それを妄想といいます。

韋提希は、釈尊から諸仏方の浄土を見せられて、「自分は釈尊のお力で浄土を見ることができましたが、釈尊がおられなくなった後の衆生はどうすれば、浄土を見ることができますか」と問うたのに対して、浄土を見る方法として定善を説かれたのです。

韋提希の請いに応じられる形で、後の衆生のために、定善を説かれた、ということです。

言い換えれば、韋提希には後の衆生のことを考える余裕があったということです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時27分

『観無量寿経』の原文

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時29分

韋提希は、「私のために定善を説いてください」とは言っていません。
理解できますか?

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時30分

飛雲さんの説は独特すぎませんか?
以下に、本願寺派の説を示しますが、これにも異論があるわけですか?

********************************

 経によれば韋堤希は、そのとき釈尊に、心を静めて想いを凝らし、目の当たりに如来、浄土を拝見する定善の修行を教えていただきたいと願ったのでした。(中略)牢獄に押し込められて、心は千々に乱れている彼女には到底できるはずもない難行でした。それをあえて願ったのは、彼女の王妃としての誇りと、自らをたのむ自力の傲慢のゆえでした。けれども釈尊は、彼女の願いを受け容れて、浄土と阿弥陀仏を観念する十三種の観法を説かれました。
 しかし定善では韋堤希を始め、未来世の煩悩具足の凡夫を救うことができないことをよくご存知であった釈尊は、自ら散善の行を説かれます。
(中略)
しかし散善の教説に順って、本気で実践しようとしたとき、私どもは、教えの通りになれないばかりか、愛憎の煩悩にふりまわされて、罪を作らずには生きていけない自身の現実に気づきます。
(中略)
こうして『観経』に定善、散善という自力の行法を説かれたのは、定善はもとより、散善さえも実践できない、煩悩具足、罪悪深重の凡夫であるという自分のほんとうの姿を思い知らせるためだったということがわかります。定善・散善を説かれたのは、自力の修行に堪えられない自身(機)の真実の有様を知らせて自力を捨てさせ、本願他力に帰せしめるための方便だったのです。そのことを『観経』は権仮方便の行法を説いて、「機の真実なるところをあらはせり」といわれたのです。これを法権機実(権仮の行法をもって機の真実を顕す)といいならわしています。
                (『聖典セミナー・口伝鈔』 梯実円 p263-p265)

投稿: | 2012年9月22日 (土) 22時32分

名前、忘れてました。
海、でした。

投稿: 海 | 2012年9月22日 (土) 22時33分

言わんとしていることは、同じことです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時34分

ちなみに、私は梯勧学の説を全面的に賛同している訳ではありません。異論もあります。本願寺派内でも、様々な説があって、統一されているわけでもありません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時37分

「言わんとしていることは、同じことです」って、今までの飛雲さんの回答のどこをとっても、梯実円師の言われていることと違うではないですか。

むしろ梯実円師の上述の文章は、親鸞会の説と同じです。

飛雲さんが同じでは、議論にならないじゃありませんか。

いい加減にしてください。

投稿: | 2012年9月22日 (土) 22時51分

よく読んでください。
ここだけでは判らないと思いますが、

梯勧学は、釈尊が韋提希に定善を勧めた、とは書いていません。私と同じです。親鸞会と違います。
散善を勧めた、とも書いていません。私と同じです。親鸞会と違います。
韋提希に勧められたのは念仏だけ、と書かれています。私と同じです。親鸞会と違います。
聖道門を断念した人の為に、定散二善を勧められた、と書いています。私と同じです。親鸞会と違います。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 22時54分

釈尊は、韋提希から後の衆生のために浄土を見る方法を請われて、定善を説かれました。
主は、後の衆生、その中で定善のできる人、聖道門を断念した人に対して定善が説かれました。
しかし、一方で韋提希をはじめ、定善の全くできない人も、この経を聞き、読む訳です。そんな最初から定善のできない人には、定善を説くことで定善のできない者と知らせることもできるのです。散善も同じです。
親鸞聖人が仰ったのは、主の部分。引用された梯勧学のところは、副の部分です。
私は、親鸞聖人が仰った主のところしか言っていません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 23時02分

海さんの言われる

>釈尊は苦しむ韋提希を前にして、勧める気もないのに定善散善を説かれた

と私を非難する根拠は結局ない訳ですね。

明日朝早いので、今日はこれくらいにしておきます。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 23時09分

飛雲さん、この辺でお開きにしましょう。

お付き合い頂き、有難うございました。

投稿: 海 | 2012年9月22日 (土) 23時10分

またいつでもお越しください。

ただし、聖教上の根拠をもって自論を述べてください。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 23時12分

飛雲さんは22時13分のコメントで

>一方で、逆悪の機に対しては、定善散善の内容をまともに聞けば、最初からできないと判断する訳で、最後の念仏以外には道はないとなるのです。

と説明されてますよ。梯師と同じことを言われているのですが、海さんももう少し落ち着いて、読解力と思考力を身につけてきた方がいいですよ。

投稿: 口挟み | 2012年9月23日 (日) 02時47分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 一口問答(19願・定散二善2) | トップページ | 一口問答(19願・定散二善4) »