« 一口問答(19願・定散二善10) | トップページ | 一口問答(19願・定散二善12) »

2012年9月30日 (日)

一口問答(19願・定散二善11)

問い

ではどうすれば、獲信できるというのですか。
善もせずに、信仰が進みますか。雑行を持っていない者に、雑行を捨てることができますか。

答え

雑行はもうすでに持っているではないですか。これ以上雑行を増やして信仰が進むとでも思っているのですか。素直に雑行を捨ててください。
そして、善をしなければ信仰は進まない、という間違った心も捨ててください。それを「自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」(唯信鈔文意)と教えられています。善人も悪人も、自分の勝手な計らいの心を捨てなさい、です。聖教に書かれていないことを本当はこういう意味だ、というのが、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。獲信したいならば、聖教に書かれてある通りにすべきです。

|

« 一口問答(19願・定散二善10) | トップページ | 一口問答(19願・定散二善12) »

一口問答」カテゴリの記事

コメント

親鸞会系のブログ等にしばしば見受けられる
「光に向って歩ませて(進ませて)いただきます」
というスタンスから早く脱却することが先決でしょうね。
彼らは聞法そのものさえも「善」と位置づけている節がありますので。

投稿: | 2012年9月30日 (日) 15時04分

以前から気になっていたのですが、「信仰が進む」という言い方は仏教で普通に使う言い回しでしょうか?
親鸞会以外の人からほとんど聞いたことがないので、なんとなく違和感があります。

普通に使う言い回しだとしても、親鸞会では普通と違う意味合いで使っていそうな感じがするのですが。
(前の名無しさんの書いている、「光に向かって進ませていただ(ry」的なニュアンスで…)

投稿: | 2012年9月30日 (日) 22時37分

伊藤康善先生の本にあります

もともとは、法がすすむ、という表現ですがそれを高森会長はねじ曲げて意味も主体も変えたのです

如来二種の迴向を自力信仰に変えてしまう表現と思います

よく信者に告白させるのは深化させる作用があるように思いますが、カルトの場合は兵隊化奴隷化を喜んでさせるための自己変化人格遷移の効果を狙ってのことではないでしょうか

国家レベルでも情報操作がありますが教団レベルで簡単になされてしまうあたり人を人とは最初から認識していなかったと思います

投稿: バビロン | 2012年10月 1日 (月) 01時10分

前の名無し 様
後の名無し 様
バビロン 様

「光に向かって」は、大沼師からのパクリ。「信仰」という言葉自体は、真宗でも使う人がいます。大沼師も使っていたと思います。
「信仰が進む」は、高森会長も昔は使っていませんでしたので、造語の可能が高いです。
私が「これ以上雑行を増やして信仰が進むとでも思っているのですか。」と書いたのは、2つの意味があります。
もともと「信仰が進む」ということはない。
雑行をして、獲信に近付くことはない。
どちらの意味で捉えてもらっても、間違いと判ればいいことです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 1日 (月) 21時06分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 一口問答(19願・定散二善10) | トップページ | 一口問答(19願・定散二善12) »