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2012年9月29日 (土)

一口問答(19願・定散二善10)

問い

それでは、善の実践を否定されたということではないですか。

答え

聖道門はそう言って、法然上人を弾圧しました。法然上人は、善の全くできない悪人を救うために阿弥陀仏が本願を建てられたことを明らかにされるために、聖道門の反発を覚悟の上でそのように断言されているのです。
法然上人は阿弥陀仏の大慈悲を具体的に、「一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。」(選択本願念仏集)と仰っています。善人も悪人もどんな人も平等に往生させるために、難を捨て易を取って本願とされた。財施をもって本願となされたならば、貧しい者は往生の望みを絶たれてしまう。しかも金持ちは少なく貧しい者は甚だ多い。
この後も法然上人は具体例を挙げて説明されています。阿弥陀仏が善悪無関係の本願を建てられてのですから、阿弥陀仏の救いには善の実践は全く必要がないのです。

(参照)
布施の功徳

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一口問答」カテゴリの記事

コメント

私は親鸞会で見聞きしたことしかわかりませんが、
親鸞会では「どれだけ善をしても助からない。しかし、善をしなければ信仰は進まない」
と教えられていると思います。

「弥陀の救いに善の実行は不必要」と言われていますが、
善が不要なら、私が救われるには何をどうしたらいいのでしょうか。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 13時32分

それに関しては他ブログへ

投稿: | 2012年9月29日 (土) 15時01分

名無し 様

18願を聞いてください。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

この通りです。
19願とか、定散二善とか18願とは全く関係ありません。

「仏願の生起本末を聞きて」です。もちろん「仏願」とは18願です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 15時11分

救われることを捨自帰他といいます。

このことを『唯信鈔文意』には

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無碍光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。


です。自分の勝手な計らいを捨てて、阿弥陀仏にすべてをおまかせすると言うことです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 15時15分

阿弥陀仏におまかせするということを覚如上人は親鸞聖人のお言葉として紹介されています。

『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。


往生という一大事は、凡夫の計らいを入れるようなものではなく、ひとすじに阿弥陀仏に往生をお任せするということです。
どうしたら、はおまかせしていません。それを「仏智の不思議をはからう」と言われているのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 15時18分

任せるもなにも、会員が妄想する「18願」では任せようがないでしょう。
そんなものは存在しないのですから。
退会して本当の18願を聴聞して下さい。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 17時38分

まあ、妄想する「18願」とまで言ってしまっては、ちょっと可哀想ですよ。
親鸞聖人の18願文の直接の解説は

「設我得仏」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。
「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしとなり。
この真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位に定まるとみえたり。「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり。「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
                  (尊号真像銘文)

です。古文ですが、それほど難しい文ではないと思いますので、何回も読んでみてください。

投稿: 横から | 2012年9月29日 (土) 18時01分

すでに横からさんが、18願について出しておられますが、そこに『唯信鈔』と書かれています。

『唯信鈔』も読まれるとよいと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時39分

救われるとは、弥陀の十八願を聞き、自力を捨てて他力に帰することだというのはわかりました。

ただ私は、「阿弥陀仏は私をきっと救ってくだされる」という自分の勝手な計らいが捨てられません。

親鸞会では、その過去無量劫から迷わせ続けてきた自力を捨てて、弥陀に一切を任せ切るには、三願転入しかないと教えられています。(と私は理解しています)

19願・20願が私には不要であるならば、どのように18願を聞き、どのようにすれば自分勝手な計らいを捨てて、阿弥陀仏にすべてをおまかせするという捨自帰他の一念を突破させて頂けるのでしょうか。

私は、親鸞会の教義しか知りませんが、
自分勝手な計らいを捨てよう、捨てようと真剣に聞法・修善に励むままが、19・20願の道を通っており、どれだけ励んでも自力は一切、間に合わなかった、極重の悪人、地獄は一定すみかの自己が知らされた一念で、往生一定、他力に帰する、18願の無碍の一道へ転入するのではないかと理解しています。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 22時09分

>どのようにすれば自分勝手な計らいを捨てて

まずは、親鸞会の教える善の勧め、三願転入の教え、宿善論は、完全に間違いですから、その勝手な計らいを捨ててください。

>自分勝手な計らいを捨てよう、捨てようと真剣に聞法・修善に励むままが、19・20願の道を通っており、どれだけ励んでも自力は一切、間に合わなかった、極重の悪人、地獄は一定すみかの自己が知らされた一念で、往生一定、他力に帰する、18願の無碍の一道へ転入するのではないかと理解しています。

これが勝手な計らいです。この考えを完全に払拭してください。

真宗の救済とは

「本願を信じ念仏申さば仏に成る」

これだけです。
18願を聞いて信じて念仏を称えるだけ

従いまして、18願をそのまま聞いてください。
では、具体的にどうすれば、と思われるでしょうから、私の意見としては、
『御文章』を何回も読んでください。『選択本願念仏集』『唯信鈔』『唯信鈔文意』を読むのがお勧めです。
現代語訳版もありますので、参照しながらでも結構ですから、読んでください。

本願寺派の法話も聞くのもよいですが、おかしかことをいう布教使もいますので、誰がよいかの判断は難しいかもしれません。
聞法している退会者と連絡が取れるなら、その人に尋ねてみてはどうでしょうか。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 22時26分

名無しさんへ

だから、他ブログや本願寺出版社の本も読んで下さい。
並行して聖典を何回も拝読する。
そうすればおのずと信心決定はできる。

何よりも親鸞会という最悪の環境を離れることが先決。

投稿: | 2012年9月30日 (日) 03時49分

五重の義を理解すれば疑問は晴れると思います。

投稿: 名無しさんへ | 2012年9月30日 (日) 22時32分

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