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2012年9月27日 (木)

一口問答(19願・定散二善8)

問い

雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。善を否定して仏教になりますか。

答え

親鸞会では、「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
あなたの疑問に対して、蓮如上人は『御文章』で、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、(中略)仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(3帖目第13通)と教えておられます。信前・信後を問わず心得るべきことは、仁義という倫理道徳の善であり、往生のためには19願・定散二善を捨てよ、ということです。

(参照)
後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

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一口問答」カテゴリの記事

コメント

自力の心は信の一念ですたると親鸞聖人はおおせです。
この心は自分で意識して捨てられるものではありません。
だから「最初から成立しない」ことにはなりません。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 06時23分

名無し 様

今問題にしているのは、雑行の話です。雑行とは自力で修する善のことで、19願・定散二善です。
浄土宗や本願寺に行かれればわかるでしょうが、皆さん念仏を称えて往生を目指していて、19願や定散二善をして往生を目指していませんよ。信前でもすでに雑行を捨ててますが、この雑行が信一念で廃ると思っているところが、高森邪義です。
高森邪義でも、19願を捨ててから20願に入ると教えているのなら、信一念の前に雑行は捨てることができるということですよ。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 06時30分

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。

という人があったそうですが、飛雲さんは

「雑行を捨てよ」とは、「善をするな」であって、「自力の心をすてよ」ではありません。

こういうことでしょうか?

投稿: | 2012年9月27日 (木) 06時43分

名無し 様

違います。

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心でする善を捨てよ」です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 06時45分

これは失礼しました。

まず雑行=自力です。

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。と主張する人の話で、自力の心が一念ですたるとしても19願20願・定散二善のすすめは成立することは了解されましたでしょうか?

投稿: | 2012年9月27日 (木) 06時57分

>まず雑行=自力です。

これは間違いです。

>自力の心が一念ですたるとしても19願20願・定散二善のすすめは成立することは了解されましたでしょうか?

意味がわかりません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 07時00分

意味が分かられませんでしたか。残念です。昼間は忙しいのでこのくらいで。失礼します。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 07時04分

私はいつも聖教に書かれてあることに基づいてしか話をしていません。
一方、親鸞会は聖教に書いてあることに基づいた話はしません。高森会長の言っていることに基づいた話です。

たとば、

>まず雑行=自力です。

こんなことを平気で言うのがまさにこれです。
親鸞聖人の雑行の定義を前回のエントリーで

「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」(教行信証化土巻)

と紹介したのに、完全に無視しています。

雑行=横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門=19願・定散二善=自力の善

どこに

雑行=自力

とありますか?
聖教に基づかない議論は、真宗の議論ではありません。

>19願20願・定散二善のすすめは成立する

これももちろん聖教を無視したものです。
20願の勧めはわずかに聖教にあります。しかし、19願・定散二善を勧められた御文は皆無です。
聖教上皆無の主張をして、「成立する」のは、高森邪義の中でしか通用しないと言うことです。

いつもいいますが、教義上の議論をしたいのであれば、聖教上の根拠をもってのぞんでください。そうでなければ、単なる妄想の議論です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 07時20分

あー。なんか。わかってきました。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 11時13分

高森教は全部悪人に落とし込みたいのだろう
十九願や観無量寿経できたものが進めるなら出来ないものは一生を無駄にするのだろう
無駄にしないと言って留まらせるための宿善論だろう

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ

十九願二十願や観無量寿経したければ浄土宗か聖道門に行ってください

投稿: 親鸞会は弱者飼い殺し | 2012年9月27日 (木) 11時20分

>「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。

>という人があったそうですが、

これは親鸞会が言っていること。高森会長が言っていることだよ。
最近はまた言い方を変えたのか?

以前は、雑行のプリントを配って、

「雑行とは五雑行といわれるものと諸善万行とがある」

と説明してたよな。それが

「雑行=自力」

とか言ってるの?

あれだけぼこぼこに論破されたから、小手先の変更で誤魔化そうと言うのか?

高森会長が如何に真宗学に疎く、姑息な人物かがここでもわかるね。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 11時33分

飛雲様

信前に雑行がすたるとは珍しき教えですね。

愚禿釈の鸞
建仁辛の酉の暦
雑行を棄てて
本願に帰す
(親鸞聖人)

この娑婆生死の五うん所成の肉身未だ破れずと雖も、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」とも名け、また「即得往生」ともならいはんべれ。
(覚如上人)

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、恩助け候えとたのみ申して候。たのむ一念のとき往生一定・恩助け治定と存じ、この上の称名は御恩報謝と存じよろこび申し候。
(蓮如上人)

雑行・自力がすたるのは信の一念と明らかですね。

>この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら

自力の心は自力ではすたりません。弥陀のお力によってすたりますから。だからこの後の

>最初から19願・定散二善は成立しません。

は誤りです。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 12時31分

「御助け」でしたね。漢字を間違えてました。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 12時38分

どこに、信一念で雑行が廃るとあります?

雑行を棄てて
本願に帰す

前後でしょう。

雑行・雑修・自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来

これも、前後ですよ。

覚如上人のお言葉に至っては、雑行と言う単語すらでてこない。

日本語の問題ですね。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 13時16分

雑行を捨て、雑修を捨て、捨自帰他ですが。

それともなんですか、三願転入は嘘だと。
雑行は19願、雑修は20願と高森会長は説明してましたが、嘘だったという見解ですね。
19願のあとに20願ですよね。
だったら、19願雑行を捨ててから、信一念までに時間差があるということですね。

もう少し真面目に考えた方がいいですよ。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 13時22分

高森邪義と妄想が激しすぎると言うのが正直な感想です。

法然上人の教えの結論は三選の文です。
親鸞聖人が唯一、教行信証に引用された法然上人の御文であり、教行信証は三選の文を解説なされたものと言われています。


はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


聖道門を捨てて浄土門に入れ
雑行を捨てて正行に帰しなさい
助業を傍らにして正定の業を専らにしなさい

さて、聖道門を捨てるのは信一念ですか?
違いますね、浄土門に入っても獲信したのとは違います。
同じことで、雑行を捨て正行に帰したことが獲信ではありません。
順番と言うのがあるのです。

直前の名無しさんの仰るように、三願転入を考えてみれば明らかです。
19願を捨てたのが18願に帰したのとは違います。
もしそうなら、二願転入です。

落ち着いて、日本語を正しく素直に読むようにしてください。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 13時32分

信前に雑行がすたるとか言ってる時点でもう終わりなんですよ。

>浄土宗や本願寺に行かれればわかるでしょうが、皆さん念仏を称えて往生を目指していて、19願や定散二善をして往生を目指していませんよ。信前でもすでに雑行を捨ててますが

こんなのが雑行を捨てることだと思っている人が、果たして親鸞聖人の教えを明らかにできるのでしょうか。

前後とか時間差とか言ってる人は
「あながちにもろもろの聖教を読み物を知りたりというとも、一念の信心の謂を知らざる人は徒事なり」(御文章)のたぐい。

領解文の「たのむ一念のとき」が読めていない。

蓮如上人から聞かせて頂きましょう。

聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。故に「たのむ」ということをば、代々遊ばしおかれ候えども、委しく何とたのめという事を知らざりき。然れば蓮如上人の御代に、『御文』を御作り候て、「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と明かに知らせられ候。然れば御再興の上人にて在すものなり。
(御一代記聞書)

自力を捨てて他力に帰するのは一念同時です。

信前に雑行がすたった人は、信の一念に何がすたるんでしょうか。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 17時36分

自力と雑行が違うと言っているのがお判りになられませんか?

雑行は、19願・定散二善、つまり自力の心でする善行です。

雑行ですから「行」です。
信一念で廃るのは自力です。「行」が廃るのではありません。

その区別さえつかないようでは、真宗が始まっていません。

もう一度、私のコメントを読み直してください。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 18時07分

昨年の『顕真』6月号


 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。
「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

親鸞会の雑行の定義は

「雑行」=「自力の心」+「諸善」

これは正しいです。
ところがあなたは、

「雑行」=「自力」

これが親鸞会の定義とも違うし、私の示した親鸞聖人の御文とも違うと言っているのです。

「雑行」=「自力」

という根拠をまずは出してください。

それがないから、妄想だと言っているのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 18時15分

私からの質問をまとめておきます。

1.「雑行」=「自力」という親鸞聖人のお言葉を出してください。

2.三願転入の「善本徳本の真門に回入して」とは、19願を捨てて20願に入るということではないのか。

3.三選の文の聖道門を捨てて浄土門に入るのは信一念の時か。

以上

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 18時25分

真宗教学に照らして気になりましたことを、僭越ですが、コメントさせて頂きます。

1.
 雑行の体(ものがら、以下、同じ)は諸善万行であり、また雑修の体は正行でありますが、雑行や雑修の分斉はいずれも自力の行であります。雑行=自力、という祖師の御文はありませんが、雑行や雑修はいずれも辺地の業因として化身土巻において一括して分類されておりますので、いずれも仏智疑惑の自力心による行として整理することができます。すなわち、化身土巻には「雑行の中の雑行雑心・・また正行の中の・・雑修雑心はこれ辺地胎宮懈慢界の業因なり」という御文があります。私はこの意味で上記の「分斉」という言葉を使っております。さて、祖師が「雑行を捨てて本願に帰す」と言われたのも、この分斉という観点から、同時の捨自帰他を言われたものだと理解しております。また、「雑行雑修自力の心をふりすてて一心に弥陀に帰命する」と蓮如聖人はご教化されておりますが、これも上記の文斉という観点からのご教化であり、同時に自力が廃捨され本願に託乗することを言われたものと理解しております。論点を整理すれば、①行体という点からいえば、雑行=自力ではありません。しかし、②文斉という点では、いずれも本願疑惑信による化土の業因たるの行であります。このような観点を共有しつつ、今後の議論を続けられればよいのではないでしょうか。
2.
 ついでながら、真門に回入するとは、19願の行である定散二善を廃して念仏の一行を行じながらも之を己の浄土往生のための善根としていることをいいます。信罪福の心で行じる念仏行であります。この場合は、定散二善をもって浄土往生したいとの思いで行じる時期から念仏の一行をもって浄土往生を願う時期へと時間的経過を伴って自力の迷いの思いが推移してゆくことになります。また、三選の文において浄土門に入る、とは当然のことながら、信一念のことではありません。
3.
 飛雲様が一貫して「往生のための善」を捨てよ、と言われていることは、上記2のことであると理解されますので、対論者はこの点を踏まえられて反論をなされてはいかがでしょうか。また、飛雲様におかれましても、対論者は捨自帰他の観点から御文を出されていることを踏まえて反論をさなれてはいかがでしょうか。勝手ながら、いずれにも気になるところがありましたので、コメントさせて頂きました。これが皆様に役立つことを願いながら、また、皆様の感情を逆なですることにならないことを願いながら、誠に拙い自見を申し述べさせて頂きました。

投稿: 一時限りの通行人 | 2012年9月27日 (木) 19時33分

一時限りの通行人 様

上手くまとめてくださり、有難うございました。
親鸞会では、雑行を勧めています。高森会長がそう言っているのですから、間違いないことです。
諸善万行という雑行と自力の心との関係を曖昧にして、雑行を勧めています。
この観点において、私は議論しているのであります。
ただし、親鸞会では、一時限りの通行人さんの仰ったことは、半分も理解できないと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 19時50分

なお、回入とは、化土巻にある阿弥陀経の顕説

一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し

のことを指していると説明されています。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 20時08分

一時限りの通行人様に先に答えられてしまいましたね。
貴重なご意見ありがとうございました。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 20時13分

それでは、質問に答えてもらえますか。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 20時23分

一、「雑行を捨てて、本願に帰す」(親鸞聖人)「自力を捨てて他力に帰する」(覚如上人)
両聖人の教えは一致しています。
>信一念で廃るのは自力です。「行」が廃るのではありません。
その区別さえつかないようでは、真宗が始まっていません。
親鸞聖人に対する批判でしょうか?

二、親鸞聖人は「捨てて」なんて仰っていません。二十願に入ったことを「雑行を捨てた」とは言われません。

三、浄土門に入るのが信前であっても「信前に雑行を捨てた」ことにはなりません。
以上です。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 20時33分

分斉とかいうから余計分からなくなるんですよ。19願定散二善の自力行は、20願雑修の自力行を区別しないと混乱します。

1.「雑行」=「自力」という親鸞聖人のお言葉を出してください。

  ⇒これは「ない」ということで決着。「雑行」は19願定散二善の自力行で、「雑修」の20願自力念仏とは別。

2.三願転入の「善本徳本の真門に回入して」とは、19願を捨てて20願に入るということではないのか。

  ⇒高森会長の説でも、19願から20願に入ることだと言っています。
   高森会長の説を信じる会員ならば、肯定せざるを得ない。

3.三選の文の聖道門を捨てて浄土門に入るのは信一念の時か。

  ⇒これは信一念の時ではない、で決着。

よって、

投稿: 横から | 2012年9月27日 (木) 20時39分

まだお判り出ないようですね。

雑行は自力ですが、自力は雑行ではない。

この簡単な関係が理解できないということですね。

まず親鸞聖人が化土巻において「雑行を捨てて本願に帰す」と仰ったのは、
化土巻に雑行を説かれているからです。
三選の文において、

聖道門を捨てて浄土門に入れ
雑行を捨てて正行に帰しなさい
助業を傍らにして正定の業を専らにしなさい

と法然上人が仰ったことを承けられて仰ったものです。
聖道門から浄土門に入ったのは、信一念ではない。
同様に、雑行を捨てて正行に帰すことも信一念ではない。
助業を傍らにして念仏一行となることも信一念ではない。

行と信との関係が理解できないから、親鸞聖人と覚如上人の違いさえも理解できないと言うことです。

親鸞聖人は行の観点から仰った。覚如上人は信の観点から仰った。この差ですね。


19願・定散二善と20願・自力念仏の関係は化土巻に

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。


とあるとおりですね。
また『三経往生文類』にも

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

とあります。

「一切諸行の少善を嫌貶」「万善諸行の少善をさしおく」です。つまり19願を捨ててですね。

20願とは19願とは諸善において反するものです。


投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 20時57分

「一切諸行の少善を嫌貶」「万善諸行の少善をさしおく」は、もちろん「雑行」を捨ててでもあります。当たり前のことですが、念のため。


現代語訳もしておきましょうか。

化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。

(現代語訳)
 『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。


『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

(現代語訳)
「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願によって、「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行をすてるのである。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 21時12分

さて、いつものことですが

>二十願に入ったことを「雑行を捨てた」とは言われません。

という根拠がないですね。

19願は、信は自力、行は諸善 → 化土往生
20願は、信は自力、行は念仏 → 化土往生
18願は、信は他力、行は念仏 → 報土往生

19願の行である諸善を捨てて(雑行をすてて)、20願に入るのです。
もちろん、三願転入という道を必ず通るということを言いたいのではなく、20願と19願とは行において反することを言っているのです。
20願の同行は、諸善、雑行を捨てている訳です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 21時22分

「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(御文章)

名号を頂いてない者が、雑行を捨てることはできません。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 21時57分

「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(御文章)


これが
>名号を頂いてない者が、雑行を捨てることはできません。

という意味になりますか?

自力の行である雑行を捨てなくて、念仏一行にはなりません。それを具体的に浄土宗や本願寺に参っている同行のことと言ったまでです。
ただし、行は念仏一行でも、信が自力では「疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」にはなりません。

先ほども言ったように、行の観点と信の観点で言われることがあるだけのこと。
行で言えば、雑行を捨てて念仏一行。
信の観点から言えば、自力を捨てて他力に帰す。

問題は、行が雑行を捨てて念仏一行でありながら、信が自力と他力とがあることを親鸞聖人が峻別されたということです。
つまり、行が雑行を捨てて念仏一行でありながら、信が自力ということがあるということ。

もう一度書いておきましょうか。

化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。

(現代語訳)
 『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。


『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

(現代語訳)
「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願によって、「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行をすてるのである。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時08分

親鸞会員は三願がそれぞれどのようなものか、願意がわかっていませんからね。

まず一旦全記事を一読してもらえば済む話では?

19願
→入聖得果のための善行を回向して浄土往生を願え。
これは聖道門の者を浄土門に引き入れるための方便。
往生を遂げたとしても、自力なので化土にとどまる。

20願
→念仏の功徳を積み重ねて浄土往生を願え。
諸善よりも優れた念仏の功徳に気付いた19願の行者は、諸善を捨てて20願の弥陀経往生を願う。つまり、19願の行者に雑行を捨てさせ、念仏一行へと導く。さらに念仏が自分の善根でないことに気付かせ、18願へ送り出す。
自力の念仏は、往生を遂げたとしてもこれまた化土にとどまる。

18願
→他力の念仏でもって浄土往生を願え。
念仏にも真仮があると教えられたのが聖人である。念仏は自分の善根ではなく他力の行であるから、平生に往生が定まる。名号のいわれを正しく聞いて念仏称え、報土往生を遂げるのが大経往生、念仏往生、浄土真宗である。

投稿: たきも | 2012年9月27日 (木) 22時11分

もう少し判りやすく言いましょうか。

「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(御文章)

「南無」という二字の意は、聖道門を棄てて、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(御文章)

とも勿論言えますが、
名号を頂いてない者が、聖道門を捨てることはできません、
とは言いません。
三選の文の理論です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時16分

念仏一行になる、ということを否定しているのではありません。
20願の人が「雑行がすたっている」なら、聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。と、肝要と仰る一念を「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と明かに知らせられ候。と、雑行がすたった人に対して雑行をすてよと仰る筈がないでしょう。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 22時18分

当時、今でもですが、雑行が廃っていない人は一杯いますよ。
蓮如上人が本願寺を継がれた時には、本願寺は天台宗の末寺扱いで、本願寺の本尊でさえ、天台宗の本尊だったのですよ。
諸善の雑行どころか、五雑行を廃することすらできていなかった状態です。
現代よりもはるかに雑行をしていた真宗門徒が多かったのです。

もちろん、雑行をしていない人もいましたが、そんな人にも雑行に迷うなよと誡めは当然されますよね。

高森会長のたとえでいえば、タバコを吸うな、は、タバコを吸っている人がいるから言うのですが、タバコを吸っていない人にもタバコを吸うな、と言いますけど。どこかおかしいですか?

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時29分

肝要はそんな意味ではありません。
信前の人は雑行をもっているから雑行をすてよ、と仰るのです。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 22時33分

ですから、信前の人で雑行を持っている人がたくさんいますよ。しかし、雑行を持っていない人もいますよ。

何度も言いますが、あなたには根拠がない。関係の薄い根拠を出しても、仕方がないです。
関係のある根拠は以下です。


化土巻

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。

(現代語訳)
 『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。


『三経往生文類』

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

(現代語訳)
「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願によって、「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行をすてるのである。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時36分

飛雲さんの出している根拠は全て19願から20願にすすめと言われている根拠ですよね?信前に「雑行」がすたったと書かれている御文ではありません。
肝要が分からねばみな分からなくなります。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 22時43分

すみません。今日はもう帰ります。

投稿: | 2012年9月27日 (木) 22時46分

法然上人の『選択本願念仏集』のお言葉を出しておきます。

「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

(現代語訳)

「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時46分

20願の同行になるには、雑行を捨てなければなれないということです。20願の同行の定義です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時48分

20願の同行について『正像末和讃』で

仏智不思議をうたがひて
 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば
 大慈大悲はえざりけり

とあります。
「善本・徳本たのむひと」とは、念仏一行となった人のことで、念仏一行の人は、法然上人のお言葉では
「聖道門を捨てて浄土門に入り、雑行を捨てて正行に帰し、助業を傍らにして正定の業を専らにした」人であり、
「念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず」の人であり、
「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」人です。
親鸞聖人のお言葉なら、
「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」人です。

念仏一行の人は、雑行を兼行しない、雑行を廃した人、万行諸善をさしおく人です。
浄土宗にも本願寺にもそのような信前の人はいますよ。

投稿: 飛雲 | 2012年9月27日 (木) 22時58分

無宿善の機には正雑二行の話をするとかえって謗る可能性がある、とならったことがあります。

とはいえ白熱してますね。

善を勧めているかどうかで何かが変わるというからなんだろうな。
とうとうアンチも認めざるを〜という見出しにしたいのかしら。

この際なら様々な経典の善を見てみるのもいいのかもしれない。

独り言でした。

投稿: 他人事 | 2012年9月27日 (木) 23時06分


聖道門から浄土門へ入れ

仮を離れて真に入れ

雑行を捨てて本願に帰す

と言えば、「聖道門」や「仮」や「雑行」の中に第十八願以外の自力仏教が全て含まれているんですよ。

より詳しく開けば三願転入になる。

投稿: たきも | 2012年9月28日 (金) 01時26分

飛雲様と対論者様の方に
1.
「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」について、「雑行がすたった人に対して雑行をすてよと仰る筈がないでしょう。」と対論者様が言われることについて、ですが、ここでいう「雑行を捨て」るとは、化土の業因となる自力心を捨てるという意味であると理解されます。行体である諸善を捨てて善をしなくなるということではなく、諸善を往生の資助とする自力の心を捨てるということです。「雑行雑修自力の心」をふり捨てるということと同じ意味です。
2.
浄土の資助とする行として重きを置くものがら(行体)が諸善から念仏一行へと移っても自力心が残っているため、善知識方はいずれも本願力による自力廃捨を勧められています。これを簡略すれば、①諸善の行 → ②念仏の一行(自力) → ③大行たる唯称仏名の念仏(他力)、へと勧められています(②③の行体は同一、信の違いのみ)。これについて蓮如聖人は「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と勧化されたのですが、この意味については上記の通りです。そして、三願転入の御文において「宗師の勧化によって双樹林下の往生を離れて善本徳本の真門に回入した」と言われておりますが、これは諸善の行から真門念仏の一行へと宗師の勧めによって進んでこられたことを祖師は信後において振り返って回顧されておられるものです。この文から祖師に諸善を勧める意図があったと解釈することはできないように思われます。
3.
両者の論争を横から拝見しておりますと、論争点としては、捨てるとは行体である善行そのもののことであるのか(飛雲様)、自力心のことなのか(対論者様)、という形になっていますが、この点において双方食い違って議論しているように見受けられます。そのため議論が咬み合っていない感がしています。飛雲様が設定された問題は、行体そのものである諸善を捨てて念仏の一行を勧めるということですから、対論者様が信一念における自力心を持ち出されるのはそれとは別の問題を設定していることになるものと思います。ひとつひとつ論点ごとに議論していただければと思います。

投稿: 一時の通行人 | 2012年9月28日 (金) 11時25分

一時の通行人 様

まとめて頂き有難うございます。
ここでの論点は、先にも言いましたように、諸善(雑行)を勧めるかどうかの問題です。
自力の心を捨てることについては共通していることで、問題ではありません。
行としての諸善(雑行)が問題となっているのです。

もちろん、自力の心でない、往生とは無間系の倫理道徳の善が勧められるのは、エントリーの問答で書いた通りです。
自力の心を必ず伴う19願定散二善についての問題です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 12時13分

もちろん善の勧めに関する問題です。今の論点は「信前に雑行をすてた」と表現していいのか、ということです。
さて、飛雲さんは御文を引用してその解説のなかで「諸行」を「雑行」と勝手にかえています。
こんなことではいくら沢山根拠を出されても議論になりません。
法然上人が「雑行を棄てる」意味で「諸行を廃する」と言われたなら信一念のことです。
聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と明かに知らせられ候。(御一代記聞書)
「雑行は信の一念にすたる」と仰せです。

また善知識方が「雑行を捨てよ」と仰るのは「自力の心を捨てよ」のことに限ります。行がすたるのではありません。
飛雲さんの文章を総合すると「雑行を捨てる」とは「自力の心をもったまま諸行を廃する」ことと理解していることが分かります。

投稿: | 2012年9月28日 (金) 12時30分

>「諸行」を「雑行」と勝手にかえています

「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」
「おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。」


基本的なことを御存知と言う前提で話をしています。

万行=雑行=諸行

です。これが理解できないから、法然上人ん、親鸞聖人のお言葉を素直に受け取ることができないのです。
行が廃るのではなく、行を捨てるのです。
自力は廃るのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 13時11分

今朝のエントリーでも紹介しました。

「諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く」(選択本願念仏集)
「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」(同)

諸行を廃するのは自分の意思です。

親鸞聖人のお言葉では

「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」

です。自ずからの意思によって棄てるのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 13時14分

法然上人も

このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし(選択集)

と仰ってます。

諸行=雑行

ですよ。親鸞会の会員はどうもひねくれて考える癖がついています。
どんなに頑張っても、善の勧めはありません。

19願は自力の修善
20願は自力の念仏

20願を選択した人は、自力の修善をすてたのですよ。雑行を捨てて念仏一行を選んだのですよ。

外道を選択するのも自分。
聖道門を選択するのも自分。
19願を選択するのも自分。
20願を選択するのも自分。
18願を選択するのも自分。(ただし捨自帰他しないと18願に転入はできないが、選択はできる)

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 13時30分

以前に飛雲さんがエントリーでこの件について書かれていましたね。その時の根拠は法然上人のお言葉でした。


『十二箇条問答』

浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

『念仏往生義』

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。その心の内にまた弥陀を憑む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒に暮れなん事、後悔先に立つべからず。

法然上人はなかなか獲信できない人に、自力念仏を勧めておられます。もちろん、諸行(=雑行)を廃して念仏一行を勧められています。

行として、雑行を捨てて念仏一行です。自力が廃る前に、雑行を捨てて念仏一行を勧められています。

会員の名無しさんは、高森会長のいうことが正しいのを必死になって証明しようとしていますが、お聖教の御文は高森会長の間違いを証明するものです。

素直に日本語が読めるといいですね。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 13時45分

もうひとつ言い忘れました。

「たのむ一念」を親鸞会では時剋の一念と思っているようですが、これは信相の一念です。

「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。(信巻)

なんかの1つ覚えで書いている御一代記聞書の

聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせら れ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

(訳)

 「親鸞聖人のみ教えにおいては、弥陀におまかせする信心がもっとも大切なのである。
だから、弥陀におまかせするということを代々の上人がたがお示しになってこられたのであるが、人々はどのようにおまかせするのかを詳しく知らなかった。
そこで、蓮如上人は本願寺の住職になられると、御文章をお書きになり、<念仏以外のさまざまな行を捨てて、仰せのままに浄土に往生させてくださいと疑いなく弥陀におまかせしなさい>と明らかにお示しくださったのである。


時剋の一念のことではないですよ。
もう少し頭を柔らかくして、素直に読みましょうよ。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 14時03分

飛雲様の対論者は、明らかに「雑行雑修自力の心をふりすてて一心に弥陀に帰命する」とか「雑行を捨てて本願に帰す」という御文を根拠として、雑行は信一念まで廃らないと理解しています。そこで、このような理解が正しいのかどうか、ということが真の論点になるものと思います。すなわち、ここでいう雑行とは「行体」としての諸善を意味するのか、祖師方が捨てると言われる雑行とか雑修といってもそれは「行体」そのもののことではなく、自ら行じる諸善ないし称名行を自らの往生の資助としようとする「自力心」のことであるか、という論点設定が正しい論点設定になると思います。私の理解では、対論者様は前者の立場に立つ趣旨であるということは明らかにように思えます。次に、派生する問題として、三選の御文などは、信一念ではなく信一念以前において雑行の行体である諸善万行の廃捨を勧められたものなのか、ということを議論するのが適当であると思います。よって、この論点ごとに議論を進めていただければ幸いです。

投稿: 一時の通行人 | 2012年9月28日 (金) 14時09分

まとめると

「たのむ一念」とは、疑いのない信心のこと。
疑いのない信心とは、諸行(=雑行)をすてて念仏一行となり、阿弥陀仏の仰せをそのまま受け取ったこと
ですね。

これで、会員の最大の根拠が覆されたわけですね。

諸行が雑行ではない、というのも否定されています。

こうなると、

「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」(選択集)
は雑行を廃して念仏一行、ということになるし、それは信前において自力の念仏一行を勧められていることは常識ですから、
法然上人は、
信前に雑行を捨てる → 獲信
と仰っていたことは疑いようのない事実。

親鸞聖人は20願の定義を

「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」(往生文類)

とされているので、万善諸行(=雑行)を捨てて念仏一行が20願自力念仏の行者であることも、これまた疑いようのない事実。


名無しの会員さんは、完全に詰みました。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 14時14分

一時の通行人さんは、分析は結構なことですが、話を却ってややこしくしていると思いますよ。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 14時18分

コメントを頂いた皆さまへ

コメント有難うございます。
様々な立場でコメントを頂いていると思いますが、何を仰りたいのか判らないコメントもあります。
また、素晴らしい内容のコメントであっても、親鸞会の会員と出身者が理解できない用語を使われますと、せっかくのコメントの意味が半減してしまします。親鸞会は、本願寺派等で日常的に使われる用語を知りません。そんな用語を多用されましても、理解できないコメントになってしまいます。

それで御面倒ではありますが、親鸞会の会員と出身者にも判る用語でできるだけ説明をして頂くよう、希望します。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 15時08分

横から 様

的確なコメント有難うございます。


 
(雑行の件でコメントを頂く)名無し 様

横からさんのコメントで概ね、言いつくされていると思います。

1.諸行=雑行
2.「たのむ一念」の「一念」は信相の一念
3.法然上人は雑行を捨てて念仏一行を、信前の人に自力念仏を称えなさい、という意味で勧められている。
4.親鸞聖人の20願の行者の定義は、雑行を捨てて念仏一行になった行者

以上に反論があれば、根拠をもってお願いします。
2につきましては、一般的にそのように解釈しますということです。多分、親鸞会以外は皆、これだと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 15時15分

●自力の心でやる「諸行」「万行」を「雑行」というのです。

この前提を無視された善知識方、とでもいうつもりでしょうか?
信後の諸善・万行を雑行とは言わないでしょう。
諸行(自力の心でやる諸行)=雑行(自力の心でやる諸善)=万行(自力の心でやる万行)
ということです。

●それから
万行=諸行=雑行と前置きした上で
>諸行を廃するのは自分の意思です。
これは雑行が自分の力ですたる、という主張です。

「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(御文章)
雑行がすたるのは、名号のお力によってであり、雑行がすたるのは名号を頂いた一念です。
>雑行をすてないと念仏一行になれません
と言っていますが、その雑行が他力によらねばすたらないのです。


●時刻の一念と関係のない、信相の一念はありえません。
親鸞聖人は仮に分けて教えられているだけです。

時刻の一念が肝要でないなら
「如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、命一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗すべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」
と覚如上人が仰る筈がありません。

●三願転入の御文で「万行諸善の仮門を出でて」と仰っています。「雑行を棄てて20願に入った」なんてお言葉は親鸞聖人にも蓮如上人にもありません。

投稿: | 2012年9月28日 (金) 18時26分

「雑行を捨てる」とは「20願に入ったこと」か「18願に救われたこと」か

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候、たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ
(蓮如上人)
言葉では前後がありますが、全て一念同時です。
「雑行・雑修・自力の心」がすたるのは「たのむ一念のとき」です。

どちらが親鸞聖人の教えかは明らかでしょう。

投稿: | 2012年9月28日 (金) 18時27分

同じことを何度も言わないと判って頂けないようですね。

>諸行(自力の心でやる諸行)=雑行(自力の心でやる諸善)=万行(自力の心でやる万行)

これが私の主張です。便宜上違う表現をすることはあっても、これは一貫しています。


>「南無」という二字の意は、もろもろの雑行を棄てて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり。(御文章)
>雑行がすたるのは、名号のお力によってであり、雑行がすたるのは名号を頂いた一念です。
>>雑行をすてないと念仏一行になれません
>と言っていますが、その雑行が他力によらねばすたらないのです。


この説明がおかしいです。雑行が他力によらねばすたらない説明がありません。


>●時刻の一念と関係のない、信相の一念はありえません。
>親鸞聖人は仮に分けて教えられているだけです。

それは判っていますが、それで時剋の一念で雑行が廃るという根拠にはならないと説明しているのです。


>「雑行を棄てて20願に入った」

これを親鸞聖人は『三経往生文類』で

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

と仰っていますと、何度も言っていますが。20願の行者は「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」です。
「万行諸行」は「雑行」です。雑行を捨てて念仏を選ぶ。


>言葉では前後がありますが、全て一念同時です。
>「雑行・雑修・自力の心」がすたるのは「たのむ一念のとき」です。


全く説明になっていません。なぜ一念同時だと言えるのかの根拠がないです。そう思っているだけです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 18時44分

横からさんのコメントを再度読んでください。コンパクトにまとめられています。

以下再掲

まとめると

「たのむ一念」とは、疑いのない信心のこと。
疑いのない信心とは、諸行(=雑行)をすてて念仏一行となり、阿弥陀仏の仰せをそのまま受け取ったこと
ですね。

これで、会員の最大の根拠が覆されたわけですね。

諸行が雑行ではない、というのも否定されています。

こうなると、

「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」(選択集)
は雑行を廃して念仏一行、ということになるし、それは信前において自力の念仏一行を勧められていることは常識ですから、
法然上人は、
信前に雑行を捨てる → 獲信
と仰っていたことは疑いようのない事実。

親鸞聖人は20願の定義を

「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」(往生文類)

とされているので、万善諸行(=雑行)を捨てて念仏一行が20願自力念仏の行者であることも、これまた疑いようのない事実。


名無しの会員さんは、完全に詰みました。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 18時45分

>諸行(自力の心でやる諸行)=雑行(自力の心でやる諸善)=万行(自力の心でやる万行)

何度もいいますが、「行」です。
「行」はするかしないかだけのことです。自分で選択できます。
「自力の心」は、自分でなくすことはできません。

「行」を諸善・雑行から念仏一行にするのは、誰でも自由にできます。
問題は「自力の心」で、これは自由に無くしたりすることはできません。

19願 信は自力、行は諸善
20願 信は自力、行は念仏
18願 信は他力、行は念仏

この違いが判らないようですね。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 18時57分

親鸞聖人の雑行釈を見てみましょう。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。

(訳)
さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。
 また、雑行について、専行があり専心がある、また雑行があり雑心がある。専行とは、一つの善をもっぱら修めるから専行という。専心とは、心をもっぱら浄土に向けるから専心という。雑行・雑心とは、さまざまな善をいくつも修めるから雑行といい、定善・散善を修める自力の心をまじえるから雑心というのである。


 
親鸞聖人は、雑行を善行という大前提で、1つの善だけなら専行、複数の善なら雑行、心がけに応じて専心と雑心に分けられています。
雑行は都合4種類になりますが、すべて善行。「行」です。

これが親鸞聖人の雑行の定義です。

投稿: 脱会者 | 2012年9月28日 (金) 19時40分

三選の文の親鸞聖人の解説も載せておきましょう。

『尊号真像銘文』

「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。


「もろもろの雑行をなげすてさしおくべし」は、誰がなげすててさしおくのですか?阿弥陀仏ですか?私ですか?「べし」ですから、後者しかないですよ。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 20時02分

『愚禿鈔』も見ましょうか。

一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。


一切の定散の諸善=雑行=発願の行=回心の行=浄土の雑行=浄土の方便仮門=浄土の要門

みな「行」です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 20時08分

●「雑行をすてよ」は「善をすてよ」ではなく「自力の心をすてよ」ということ。
結局これが分かっていないということです。

●ものがらである諸行を「自力の心でやる諸行」と混同している誤りを指摘しているのです。

●>この説明がおかしいです。雑行が他力によらねばすたらない説明がありません。
名号の力によらねば雑行はすたらないと言った筈です。

「他力というは如来の本願力なり」のお言葉はご存知と思います。

●>全く説明になっていません。なぜ一念同時だと言えるのかの根拠がないです。そう思っているだけです。

親鸞聖人の教えられた信心が全く分かっていない証拠です。

蓮如上人は「雑行・雑修・自力の心をふりすてて」「たのむ一念のとき」「たのむ一念の所肝要なり」「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」と仰せです。
蓮如上人が肝要である時刻の一念を無視される筈がないでしょう。

●「雑行・雑修・自力の心をふりすてて
」と仰っていても、自分の力ですたるのではないですね。

●沢山根拠を出されていても、信前に雑行がすたった、というお言葉は見当たりません。

投稿: | 2012年9月28日 (金) 21時17分

「雑行をすてよ」は「行をすてよ」か「自力の心をすてよ」か

「諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて」
(御文章)

問題はその心にあるのです。

投稿: | 2012年9月28日 (金) 21時17分

こころはひとつにあらねども
雑行雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとえに雑行となづけたり
(親鸞聖人)

雑行・雑修・自力の心をまとめて雑行と言われるのです。

「信前に雑行がすたる」
など言っていては、真宗の極致である「捨自帰他」の一念を明らかにすることはできません。

投稿: | 2012年9月28日 (金) 21時18分

全く説明になっていません。
一度、論文を書いている人に読んでもらったらいいと思います。
論理の飛躍ばかりで、途中の説明もなく、あってもそれ自体が飛躍しており、突如結論が脈絡もなく述べられているだけです。

論理的に述べる訓練が必要です。

さて、私が出した根拠に対しては、何も解説がありません。ただ、あなたの考えを言っているに過ぎないのです。

同じことを何度も何度も何度も言っても理解する気がなければ仕方がないです。

>「雑行をすてよ」は「行をすてよ」か「自力の心をすてよ」か

このエントリーを再度書いておきます。如何に私の言っていることが理解できていないかと。

問い

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。善を否定して仏教になりますか。

答え

親鸞会では、「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
あなたの疑問に対して、蓮如上人は『御文章』で、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、(中略)仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(3帖目第13通)と教えておられます。信前・信後を問わず心得るべきことは、仁義という倫理道徳の善であり、往生のためには19願・定散二善を捨てよ、ということです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時27分

高僧和讃を出してもらいましたので、解説しておきます。

訳は

意味するところは同じではないが、 雑行と雑修はよく似ている。 真実浄土への行ではないものを、 ひとえに雑行と名づけたのである。


真実の浄土、つまり報土への行でないものを雑行という。真実報土への行は念仏、念仏以外の行を雑行という、との説明です。
こうなると助業の扱いが問題になりますが、いずれにしても念仏以外の「行」です。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時33分

もう一度だけ。

「雑行」は「行」。

「行」は誰でも自由に選択できます。

「自力の心」は「信」。

「信」は自分では選択できません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時37分

親鸞聖人の雑行の定義


雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。


おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。


それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。


一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時47分

親鸞聖人における20願の同行の定義


弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時48分

法然上人の雑行(=諸行)について

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。


このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時53分

法然上人が自力の念仏一行(雑行を捨てなければ念仏一行ではない)を勧められたお言葉


『十二箇条問答』

浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

『念仏往生義』

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。その心の内にまた弥陀を憑む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒に暮れなん事、後悔先に立つべからず。

投稿: 飛雲 | 2012年9月28日 (金) 21時55分

いやあ~、会員の理解力の無さには、お手上げですね。でもこれがすべてですよ。


まとめると

「たのむ一念」とは、疑いのない信心のこと。
疑いのない信心とは、諸行(=雑行)をすてて念仏一行となり、阿弥陀仏の仰せをそのまま受け取ったこと
ですね。

これで、会員の最大の根拠が覆されたわけですね。

諸行が雑行ではない、というのも否定されています。

こうなると、

「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」(選択集)
は雑行を廃して念仏一行、ということになるし、それは信前において自力の念仏一行を勧められていることは常識ですから、
法然上人は、
信前に雑行を捨てる → 獲信
と仰っていたことは疑いようのない事実。

親鸞聖人は20願の定義を

「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」(往生文類)

とされているので、万善諸行(=雑行)を捨てて念仏一行が20願自力念仏の行者であることも、これまた疑いようのない事実。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 22時00分

「たのむ一念」を、信相と時剋の両方の意味があるとか言いながら、時剋しか言わないところが卑怯と言うか誤魔化しと言うか。

親鸞聖人にしても蓮如上人にしても、信相の一念についてが主で、時剋の一念に重きを置かれていないのにね。

真実信心の定義は、本願に疑いのない信心でしょ。誰がみてもこれが主でしょ。時剋の意味は直接関係ないでしょ。
ただし、短命の根機を救うためには、時剋が必要と言うことだけ。
信心の説明には時剋を持ち出されていない。

それくらいのこともわからずに、高森会長の受け売りで摩訶不思議な時剋の体験とか妄想を膨らませているだけのことよ。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 22時08分

「たのむ一念のとき」=疑いのない信心を獲た時


「たのむ一念の所肝要なり」=疑いのない信心が肝要である


「雑行を捨てて後生助けたまえと一心に弥陀をたのめ」=雑行を捨てて、往生したいと一つの心で弥陀を疑いなく信じよ


蓮如上人のお言葉の解説でした。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 22時18分

親鸞会側の最大にして最後の根拠が、蓮如上人の「たのむ一念」ですが、「たのむ一念」が信相の一念であると、すべてが崩壊する論理構成。

一方飛雲さんは、膨大な根拠を元に、雑行が「行」であるから、「行」として善を選択するか念仏を選択するかで、雑行を捨て念仏一行となることを説明されています。ではいつ念仏一行を選択するのかといえば、獲信の前と、法然上人、親鸞聖人のお言葉から明白。
なぜなら、法然上人が自力念仏を勧められているのは、雑行を捨てた後の状態。親鸞聖人が20願の行者について、雑行を捨てて念仏一行となったことを説明されている。

どんなに頑張っても、信前自力念仏一行は、否定できないね。

投稿: 横から | 2012年9月28日 (金) 22時30分

名無しさんは、高森会長から「合格発表前に菓子箱を持っていくのはワイロだから、菓子箱自体も悪くなる」という話を聞きませんでしたか?「合格してから持っていけばいいのだ」と。
菓子箱自体が悪いわけではないけれど、心掛けが悪いから、合格前に持っていくと菓子箱自体が「わいろ」と呼ばれ悪くなるのです。悪いから、持っていくなといわれるのです。
同じように、信前に阿弥陀仏に差し出す諸善は「雑行」と呼ばれ「捨てよ」と教えられます。自分のなした善をしっかり握って阿弥陀様に差し向けているから、自分の手がふさがっていて、阿弥陀様から差し向けられている南無阿弥陀仏が受け取れないのです。雑行は捨てものです。

投稿: mary | 2012年9月28日 (金) 23時16分

さて、最初に戻りましたね。

>親鸞会では、「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
●たしかにこの心がすたったら、救われためにする定散二善は成立しません。
しかしこの心は「信」であって「行」ではありません。
>「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。
と飛雲さんも書いているように、この心は自力の心です。
自力の心は信一念まですたりません。
ですから、信前に「最初から」定散二善は成立しない、という主張は誤りだと言っているのです。

「信前でも善をやめて念仏一行になれる」ということと「自力の心をすてれば救われる為にやる善は成立しない」は違います。

「いましているのは雑行の話だ」と言われますが、
>この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら
と書いているように、明らかに「自力の心」の話です。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 11時37分

諸行を廃して念仏一行になったのが信前だとして、自力の心があるから、ここで言われる「諸行」はものがらの意であることは明らかです。
飛雲さんは「行」は自由に選択できる、と何度も書いていますが、これも、ものがらのことでしょう。
「自力の心でやる諸行」=「雑行」がすたったこととは違うと言っているのです。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 11時38分

●何度も書きますが
「南無」という二字の意はもろもろの雑行を棄てて、疑いなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり(御文章)
名号を頂くのは聞信の一念ですから、雑行がすたるのは一念であり、名号のお力によるのです。
「名号の力」=「本願力」=「他力」です。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 11時39分

それと、論点が広がりすぎるので詳しくは述べませんが、
「行が自由に選択できる」ということと「19願から20願に自分の力で入れる」は違いますよ。
三願転入の御文で仰るように、弥陀の方便願のお力によってです。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 11時40分

>●たしかにこの心がすたったら、救われためにする定散二善は成立しません。
>しかしこの心は「信」であって「行」ではありません。
>>「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。
>と飛雲さんも書いているように、この心は自力の心です。
>自力の心は信一念まですたりません。

その通りです。異存はありません。

次の

>ですから、信前に「最初から」定散二善は成立しない、という主張は誤りだと言っているのです。

が理論が飛んでいます。
定散二善の定義は化土巻の

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。

「回心回向の善」ですから、自力がなければ成立しません。
自力の心だけで、定散二善にはなりません。
当たり前のことです。


>諸行を廃して念仏一行になったのが信前だとして、自力の心があるから、ここで言われる「諸行」はものがらの意であることは明らかです。
>飛雲さんは「行」は自由に選択できる、と何度も書いていますが、これも、ものがらのことでしょう。

ですから、「自力の心を捨てよ」と「雑行を捨てよ」は違います。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時13分

>●何度も書きますが
>「南無」という二字の意はもろもろの雑行を棄てて、疑いなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意なり(御文章)
>名号を頂くのは聞信の一念ですから、雑行がすたるのは一念であり、名号のお力によるのです。
>「名号の力」=「本願力」=「他力」です。

何度も書きますが、「雑行」は「行」です。ものがらです。
「自力の心」とは違います。

「南無」という二字の意はもろもろの雑行という「行」を棄てて、疑いなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意です。
名号を頂くのは聞即信の一念でも、雑行がその時に廃るとはありません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時17分

何度もいいますが、20願の行者について親鸞聖人は『三経往生文類』で

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

と書いておられます。
20願の行者は、万善諸行(=雑行)を棄てて念仏一行となるのです。
20願ですから、これは聞即信の一念ではありません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時20分

法然上人の三選の文でも、

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。

聖道門 → 浄土門
雑行 → 正行
正助二業 → 正定の業

これも聞即信の一念ではありません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時22分

蓮如上人の御文章で言えば

後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、

「もろもろの雑行をこのむこころをすて」「もののいまはしくおもふこころをもすて」と「そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして」とはすべて並列の関係です。聞即信の一念で「そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころ」が廃るのではありません。
親鸞会でも、五雑行だけは、信前に棄てると説明していますが、同じです。
「そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころ」は前に棄てるが、「もろもろの雑行をこのむこころ」は聞即信の一念で廃るというのは理屈にあいません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時29分

19願と20願への回入について三願転入の文では

 ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。

「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、「出でて」「離る」そして「回入して」です。
善知識のお勧めを信じて自ずから19願を「出て」「離れ」、20願を選択「回入」したのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時49分

一方で20願から18願への転入については


いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。


「果遂の誓」という阿弥陀仏のお力で「転入」させて頂いた。
ここに、「回入」と「転入」との違いがあります。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 12時54分

飛雲さんが、「雑行」とは「行」です、と何度もいわれ、その根拠として親鸞聖人の雑行釈を出されています。
それがなぜ「雑行」が自力の心となるのですか?
「雑行」が「自力の心」だったら、「雑行」から「自力の心」を無くしたら、何も残りません。

「雑行」=「善行」+「自力の心」

「雑行」から「自力の心」をとったら、「自力の心」のない「善行」。これを飛雲さんは蓮如上人のお言葉を出されて倫理道徳の善、と仰ってます。

よって、親鸞会で言う「自力の心」を捨てて「善行」をするとは、倫理道徳の善をすることです。
定散二善は、「自力の心」で行う「善行」ですからね。

親鸞会にいると思考能力が衰えるのでしょうね。

投稿: 脱会者 | 2012年9月29日 (土) 13時38分

では質問します。

雑行とは何ですか。
定散二善とは何ですか。

自力の心との関係を聖教上の文をもって、説明してください。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 14時10分

>この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
と飛雲さんは書いています。
自力の心を捨てるのは信一念ですから、
「信後に救われるための善は成立しない」ならわかりますが、「最初から19願・定散二善は成立しません」の「最初から」が信前の意味ならば間違いになります。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 17時45分

>「南無」という二字の意はもろもろの雑行という「行」を棄てて、疑いなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意です。

これでは南無阿弥陀仏を頂いた人は善行をしなくなることにまります。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 17時45分

>弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

この万善諸行はものがらですから、「自力の心でやる万善諸行」=「雑行」がすたったとは言われません。
まだ混同しておられるようですね。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 17時46分

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は
一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみな
をふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほ
し、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、
余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。
(親鸞聖人)
一心一向というは阿弥陀仏において二仏をならべざる意なり
(蓮如上人)
余善・他仏にうつる心がすたるのは信の一念です。

投稿: | 2012年9月29日 (土) 17時46分

>>この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
>と飛雲さんは書いています。
>自力の心を捨てるのは信一念ですから、
>「信後に救われるための善は成立しない」ならわかりますが、「最初から19願・定散二善は成立しません」の「最初から」が信前の意味ならば間違いになります。


判らない人ですね。
19願・定散二善とは、「自力の心」と「善行」があわさって、19願・定散二善になるのです。
「自力の心」がなければ、「「自力の心」のない「善行」であって、19願でも定散二善でもない。

私の質問は無視ですね。
なぜなら、都合が悪いからです。

では教えてあげますよ。

雑行である定散二善について化土巻の雑行釈で

***************************************************************************
もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
***************************************************************************

とあります。もともとは「往生の因種」ではない「善行」を「回心回向」という「自力の心」を加えるから定散二善であり、それを「浄土の雑行」というのです。

では「自力の心」である「回心回向」を捨てたら、「往生の因種」ではない「善行」。つまり、定散二善ではなくなる。

これを

>この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。

と言ったまでです。

どこがおかしいですか?

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時15分

>>「南無」という二字の意はもろもろの雑行という「行」を棄てて、疑いなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる意です。

>これでは南無阿弥陀仏を頂いた人は善行をしなくなることにまります。


「雑行」の定義が判っていないからおかしなことをいうのです。
もう一度、エントリーを読んでください。

******************************************************************************************
問い

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。善を否定して仏教になりますか。

答え

親鸞会では、「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
あなたの疑問に対して、蓮如上人は『御文章』で、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、(中略)仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(3帖目第13通)と教えておられます。信前・信後を問わず心得るべきことは、仁義という倫理道徳の善であり、往生のためには19願・定散二善を捨てよ、ということです。
*******************************************************************************************

判りましたか?

「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、(中略)仁義をもつて本とし」

つまり、信前の人も信後の人も、倫理道徳の善に励みなさい、と蓮如上人が教えられているのです。

>南無阿弥陀仏を頂いた人は善行をしなくなる

などという発想が、造悪無碍で、親鸞聖人の教えを全く理解していない証明になります。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時20分

>>弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。

>この万善諸行はものがらですから、「自力の心でやる万善諸行」=「雑行」がすたったとは言われません。
>まだ混同しておられるようですね。


まだ、「雑行」の定義が判らないようですね。「雑行」とは

***************************************************************************
もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
***************************************************************************

ものがらを捨てれば、「雑行」を捨てたことになります。
残るのは「自力の心」

ですから、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。」の後には、

**********************************************************************************
しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。
**********************************************************************************

とあります。
定散二善というものがらを捨ててもじ「自力の心」が残りますから、「如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して」なのです。

ものがらを「定散二善」から「念仏」に変えたのです。これを「雑行を捨てた」というのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時27分

>余善・他仏にうつる心がすたるのは信の一念です。

ということは、五雑行は、聞即信の一念まで廃ることはない、ということですね。

高森会長は

「雑行とは、五雑行といわれるものと諸善万行とがある」

として

「五雑行はものがらが悪いから捨てよ」「諸善万行は心がけが悪いからその悪い心がけを捨てよ」と説明していますが、「五雑行」は自分ではすてることはできない。

高森会長の説明は間違いであると。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時28分

法然上人の三選の文で私が述べた

>聖道門 → 浄土門
>雑行 → 正行
>正助二業 → 正定の業

>これも聞即信の一念ではありません。

これについては異論無しと言うことでよろしいですか?

もし異論があっても、
雑行を捨ててから正行をとり、正行の中で念仏一行になるのに、段階があること自体おかしいことになりますよ。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時52分

三願転入の文で「回入」と「転入」の違いについても異論無しでよろしいですね。

「回入」は「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」ですから、自らで判断して19願から20願に入るのです。
「転入」は「果遂の誓」ですから、阿弥陀仏のお力で20願から18願に入らせて頂くのです。

19願の雑行から、20願念仏一行は、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」自分で取捨するのです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 18時56分

「一向」について法然上人のお言葉を以前に出しましたが、無反応でした。

**************************************************************************************************
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
**************************************************************************************************

「一向」とは念仏一行という意味ですが、念仏一行にも自力と他力とがあることを法然上人は仰っています。
なぜなら、自力の念仏一行を勧められているからです。

そして親鸞聖人は雑行を捨てて正行となった専修専心についても

**********************************************************************************
正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。
**********************************************************************************

と信前の専修専心があることを教えられています。
「余善・他仏にうつる心がすたる」専修専心が信前にもあるということです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月29日 (土) 19時05分

「自力では雑行は廃らぬ」のドグマによって、親鸞会の人たちは死ぬまで雑行に縛りつけられるということか。
もし調熟の光明によって「我が往生に資するべき善」のないことに思い至る人あれば、決死の覚悟で会を離れるしかないのですね。財も体力も精神も消耗し切った果ての彷徨は、さしずめ聖人比叡の下山にも見たてられましょうか。

その全ての人に聖覚との邂逅あるやなしやに思い至るとき、返す々々も高森会長の罪は重く、翻って飛雲氏始め各ブログ主の功績の大なるを讃ずるばかりです。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

投稿: 大橋 | 2012年9月30日 (日) 00時25分

大橋 様

高森会長の詭弁に騙されて、更なる詭弁で高森会長の詭弁を擁護するのが、講師部員と会員です。
講師部員は無理でも、会員には「法によりて人によらざるべし」(化土巻)を実践してほしいものです。

投稿: 飛雲 | 2012年9月30日 (日) 12時06分

雑行には、「行体」を指している場合と「分斉」から云われる場合の2つがあるとコメントをしましたが、議論を混乱させるだけであるとして無視されてしまいました。しかし、この2つを理解していないところに混乱が生じています。飛雲様はあくまでも「行体」をいい、対論者は「分斉における自力の心」のことをいっています。これでは議論は噛み合うはずがありません。「雑行雑修自力の心を振りすてて弥陀に帰命する」とは、雑行も雑修も、ともに分斉では「自力の異名」のことであり、行体を指しているのではありません。「雑行を捨てて本願に帰す」という雑行も行体のことではなく、自力の異名です。これに対して、三選の文などは行体を捨てることを勧められたものです。対論者が根拠として出している上記の御文は、いずれも他力の一念のことを指しているので、間違ってはいません。しかし、善を勧める論拠として使用しているところに対論者の大きな誤りがあるのです。

投稿: 通行人 | 2012年10月 2日 (火) 17時44分

通行人 様

仰りたいことは、十分理解しています。
しかし、ここでの議論は、善の勧めについてです。
その点を考慮して頂きたいということです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 2日 (火) 18時38分

通行人さんへ

言葉に囚われ、本願寺教学の知識を公表したいのはわかりますが、自力の心が、聞即信の一念で廃ることは、飛雲さんも相手も一致しているのです。
その上で、19願、定散二善の雑行が聞即信の一念よりまえで捨てることができるのか、聞即信の一念でしか廃らないのかの議論です。

もちろん、雑行が「自力の異名」だなんて、親鸞聖人は仰っていませんよ。そういう解釈もできるということです。親鸞聖人は「行体」でしか定義されていません。

もう少し、空気を読んでくださいよ。

投稿: 横から | 2012年10月 2日 (火) 19時00分

こういうことですね。

飛雲さんは名無しさんのの詭弁を防ぐために、「雑行」を「行体」に絞って論を展開された。その元は、親鸞聖人が「行体」で「雑行」を定義されていたから。

一方で名無しさんは「雑行」の「行体」の話をしているのに、そこに「分斉」であろう御文を出すことで、「行体」も信の一念でしか廃らない、と誘導しようとした。

しかし、飛雲さんはそれに乗らなかった。

ところが通行人さんは、その流れが理解できず、混乱させることになると批判された。

投稿: つまり | 2012年10月 2日 (火) 19時28分

「雑行を捨てて本願に帰す」という場合の雑行とは、雑行の行体ではないことくらいは理解すべきではないか、ということを申し上げているのです。これを行体のことであると言い張り続けることは、明らかな誤りとなります。そうした注意喚起を受け入れるぐらいの度量は持つべきでしょう。

投稿: 通行人 | 2012年10月 2日 (火) 19時56分

それはどうでしょうか。

飛雲さんも仰っていますが、化土巻には雑行のことが説かれているのですよ。
そして化土巻は、聖道門が雑行を重んじていることに対する反論です。
「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。」

と聖道門を厳しく非難された後に仰ったお言葉です。

聖道門の重視する雑行を捨てて18願に帰したのだとの告白です。
これが、自力の心と断定できる根拠がないのです。

投稿: 横から | 2012年10月 2日 (火) 20時07分

つまり、相手方の明らかな間違いを正すにおいても、正しい真宗法義の解釈を示さなければないということです。「雑行を捨てて本願に帰す」の雑行を行体であると言っているとかえって誤った知識を広めてしまう危険があるということを自覚すべきでしょう。「論争の流れ」というもので教義上の重要な解釈をないがしろにしたまま片づけてはなりません。

投稿: 通行人 | 2012年10月 2日 (火) 20時08分

「雑行を棄てて本願に帰す」の後には、『選択集』を書写された話です。
ここに、親鸞聖人が法然上人の三選の文の正しさを証明されたのですが、三選の文の雑行は「行体」と通行人さんも認められている通りです。
それと親鸞聖人が、雑行を自力の心の意味で定義された根拠を出してもらえますか。

投稿: 横から | 2012年10月 2日 (火) 20時12分

三選の文

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


聖道門は、一行目にもカチンときたでしょうが、聖道門の非難の中心は二行目と三行目でしたね。
雑行を捨てて念仏を専らにしなさい。
これを親鸞聖人は
「雑行を捨てて本願に帰す」と念仏を本願に変えられただけです。もちろん、自力念仏を化土巻で誡められているからです。

投稿: 横から | 2012年10月 2日 (火) 20時24分

祖師が「雑行を捨てて本願に帰す」(化身土文類後序)と言われている「雑行」を「行体」と理解されていますが、「本願に帰す」とは明らかに他力信のことであり、その前の雑行とは「雑修」を含めた自力の行心のことを指しています。もし、「雑行」の行体だけを自ら捨てたというのであれば、雑修とその自力心はどうなるのですか。祖師はここでは雑行に「雑修や自力の心」を代表させて、自力が廃ったことを言われています。化身土文類は化土の業因を明らかにするめために雑行・雑修の行体や自力心を詳しくなかながと分析なされ、これらが仮の法門であるから捨てるべきであると祖師は勧められていますが、このことと軌を一にする祖師の「巳証」をここでは「雑行を捨てて本願に帰す」と述べられたものと理解されています。おわかりですか。

投稿: 通行人 | 2012年10月 2日 (火) 20時29分

通行人 様

仰ることはよくわかりました。
私の姿勢は、親鸞聖人の仰せに忠実に、ということです。雑行の定義はコメントで述べた通りです。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 2日 (火) 20時29分

通行人さんは、私の質問には全く答えていませんが、雑行が自力の心と定義された親鸞聖人のお言葉はない、ということで宜しいですね。

投稿: 横から | 2012年10月 2日 (火) 20時31分

「雑行」を「行体」で定義された親鸞聖人のお言葉はある。

「雑行を捨てて本願に帰す」の「雑行」を「行体」とする理由は親鸞聖人の「雑行」の定義にある。

この場合は、法然上人の三選の文の正しさを証明された親鸞聖人の言い換えと言える。


一方で、

「雑行」を「分斉」で定義された親鸞聖人のお言葉はない。

「雑行を捨てて本願に帰す」の「雑行」を「分斉」とする理由は、想定。


つまり、通行人さんの発言

>「雑行を捨てて本願に帰す」の雑行を行体であると言っているとかえって誤った知識を広めてしまう危険があるということを自覚すべきでしょう。

これは言い過ぎかと。

投稿: つまり | 2012年10月 2日 (火) 20時52分

本願寺教学ではこう解釈しているから、これが正しい解釈だ

とは、親鸞会の

高森先生がこのように解釈されているから、これが正しい解釈だ

と同じことでは?

投稿: つまり | 2012年10月 2日 (火) 20時58分

本願寺の注釈

正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土の業因であるとされている。


現代語訳版では

自力の行を捨てて本願に帰依し


まあ、本願寺でも普通に「行」なんですね。

投稿: 脱会者 | 2012年10月 2日 (火) 21時42分

親鸞聖人の雑行の定義に照らし合わせれば


「雑行を捨てて本願に帰す」という場合の雑行とは、雑行の分斉ではないことくらいは理解すべきではないか、ということを申し上げているのです。これを分斉のことであると言い張り続けることは、明らかな誤りとなります。そうした注意喚起を受け入れるぐらいの度量は持つべきでしょう。


如何ですか?
注意喚起を受け入れるぐらいの度量は持っていますか?

投稿: 横から | 2012年10月 2日 (火) 21時49分

どこかで拾ってきた知識を振りかざすことも、親鸞会での知識を振りかざすことも、同じなんですね。
やはり、原典にあたることが必要だと思いました。
それと、行体とか分斉とか、親鸞会会員にはわかりません。知っている難しい単語を並べて、
自分はお前たちよりも詳しいんだぞと相手を見下すようなコメントは、会員の態度とさほど変わらないと思います。

投稿: オー | 2012年10月 3日 (水) 07時30分

梯和上の顕浄土方便化身土文類講讃(永田文誠堂50頁)には、

『聖人29歳の時に、「雑行を捨てて本願に帰す」と断定されているから、少なくとも、29歳の時には、「雑行という言葉で代表されるような一切の自力の計らい」を離れて、阿弥陀仏の第18願の領域に転入されたことは疑う余地がない。』

と解説されています。「雑行を捨てて」とは「雑行という言葉で代表されるような一切の自力の計らいを離れる」ことであると解釈されていることは明らかです。すなわち、これはご本典の「横超というは本願を憶念して自力の心をはなる。専修というはただ仏名を称念して自力の心をはなる」と教化されていることを自らの己証(経験)として述べられたものです。また、雑行の「行体」と「分斉」については、大江淳誠著「教行信証体系」(永田文誠堂205頁以下)に詳しく出ています。曰く、

「高祖の助正雑修専修雑行及び定散の語にはいずれも2種の取り扱いがある事を知らねばならぬ。その2種とは一つには「物体を指示するの場合」であり、2つには「分斉を分かつの場合」である。

それに続いて「分斉」の解説がされています。

以上のことを理解しておかないと、「雑行を捨てて本願に帰す」の雑行や御文章の「雑行雑修自力の心をふりすてて一心に弥陀に帰命する」の雑行雑修を「行体である」という誤った解釈をすることに繋がるのです。文献を調べればその他にも多く見つかると思いますので、ご自分で調べてはいかがですか。聖教は正しく読む。それが純粋に「ご法義を学ぶ」と云うことでしょう。このような姿勢が、親鸞会員とはまったく異なるということも付け加えておきます。

投稿: 通行人 | 2012年10月 3日 (水) 10時48分

ですから、

1.親鸞聖人が雑行を分斉で定義されたお言葉はない。( ← これについては通行人さんも認められた通りです)

2.本願寺では分斉の解釈をすることもある。(しないこともある)

ここから、導き出されることは何ですか?

そういう解釈もできる、ということです。
そういう解釈ができるということと、それが正しい解釈という結論とは違います。

御理解いただけますか?

お聖教を正しく読むとは、お聖教に書かれてある通りに読むことではないですか?
すると、1に戻ることになります。

≪親鸞聖人が、雑行を分斉の意味で定義されたお言葉はない。≫

投稿: 横から | 2012年10月 3日 (水) 11時00分

まるでM野さんですね。
M野さんは、学者の説を盾に、親鸞会の正しさを証明しようとしてましたよね。

親鸞会の理論

高森会長が言っているから、この解釈が正しい。大沼氏も本願寺の学者でも同じことを言っている。


通行人さんの理論

梯氏が言っているから、この解釈が正しい。大江氏も同じことを言っている。


飛雲さん・横からさんの理論

親鸞聖人が仰ったことをそのまま解釈するのが正しい。学者の説は様々あるので、参考程度に留める。


親鸞会も通行人さんも、思考は同じではないですか?

投稿: M野さんですか? | 2012年10月 3日 (水) 12時10分

1.
あなたの論法に従えば、「雑行を捨てて本願に帰す」という場合の雑行は分斉を述べたということも言えないし、「行体を指すのだ」ということも言えなくなる、ことになります。それでは、この祖師の己証を述べた文における祖意を正しく理解することができなくなってしまいます。そこで、正しく文意を解釈するという作業が必要になってくるのです。この解釈をしているのが前述した勧学らです。ここでは、上記の文の意をどのように解釈されているか、またその理由が大事ですので、自見を述べる前に、勧学らの文献を調査して下さい。これが学問するということです。飛雲さんもご自分で調べてみて下さい。話はそれからです。定義を振り回すのが学問ではありません。
2.
ついでに、「雑行を捨てて本願に帰す」にいう「本願に帰す」を雑行に対する自利念仏行として理解し、この自力念仏行を戒めるために「雑行を捨てて本願に帰す」と祖師は云われたものとして理解しているようですが、それは明らかに間違いです。これは祖師の己証として述べられた文です。戒めの文ではありません。また、他力信に恵まれた祖師が自らの己証を述べるにたあり、聖道門から自力念仏の行(真門)に入ったということを言われる筈がありません。その文の少し前には「浄土の真宗は証道いま盛りなり」と祖師は述べておられますが、これは本願力を宗とする浄土真宗において自ら他力の信に恵まれたことや法然聖人およびその門下において他力金剛の同行らがあらわれたことを喜ばれたものです。したがって、祖師が自らの己証を述べられるにおいて、「自力念仏の行(真門)に入った」ことを述べたものと理解することはできないことは明らかです。

投稿: 通行人 | 2012年10月 3日 (水) 12時32分

相当に誤解があるようです。

>「行体を指すのだ」ということも言えなくなる

これは大嘘です。なぜなら、親鸞聖人が「雑行」の定義を「行体」でしか仰っていないのは、疑いようのない事実であり、通行人さんもみとめているではありませんか。だったら、これは完全に大嘘です。


>「雑行を捨てて本願に帰す」にいう「本願に帰す」を雑行に対する自利念仏行として理解し、この自力念仏行を戒めるために「雑行を捨てて本願に帰す」と祖師は云われたものとして理解している


これも日本語を理解できないことからくる誤解でしょう。
私が書いたのは、

>「雑行を捨てて本願に帰す」と念仏を本願に変えられただけです。もちろん、自力念仏を化土巻で誡められているからです。

ですが、この意味は、法然上人のお言葉に従えば、本来「雑行を捨てて念仏に帰す」と仰るのでしょうが、それでは自力念仏と誤解されるおそれがあるから、親鸞聖人が「念仏」を「他力念仏」の意味で「本願」と言い換えられた、といっただけです。
前後の文章を読まればおわかり頂けると思いましたが。


結局は、最初に言った

親鸞聖人が「雑行」の定義を「行体」でしか仰っていないのは、疑いようのない事実であり、通行人さんもみとめているではありませんか。

ここに極まるのです。これ以上議論の余地がありません。

投稿: 横から | 2012年10月 3日 (水) 12時47分

通行人 様

『顕浄土方便化身土文類講讃』は、私も持っており、何度も読んでおります。従いまして、通行人さんの仰る意味は理解しています。
その上でのことです。

親鸞聖人が仰ったから正しい、は皆さん共通していると思います。
問題は、

高森先生が仰ったから正しい
梯師が仰ったから正しい
どこの誰が言ったから正しい

をいくら強調したところで、何の解決にもなりません。
あくまで、
親鸞聖人が仰ったから正しい、の前提でなければ、議論することは無駄です。

皆さん、まだ仰りたいことはあるでしょうが、誰誰が言ったから正しい、の話はこれ以上しないでください。

今回の件は、これで打ち切りとします。

投稿: 飛雲 | 2012年10月 3日 (水) 13時03分

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