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2012年9月

2012年9月30日 (日)

一口問答(19願・定散二善11)

問い

ではどうすれば、獲信できるというのですか。
善もせずに、信仰が進みますか。雑行を持っていない者に、雑行を捨てることができますか。

答え

雑行はもうすでに持っているではないですか。これ以上雑行を増やして信仰が進むとでも思っているのですか。素直に雑行を捨ててください。
そして、善をしなければ信仰は進まない、という間違った心も捨ててください。それを「自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず」(唯信鈔文意)と教えられています。善人も悪人も、自分の勝手な計らいの心を捨てなさい、です。聖教に書かれていないことを本当はこういう意味だ、というのが、「みづからが身をよしとおもふこころ」の典型です。獲信したいならば、聖教に書かれてある通りにすべきです。

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2012年9月29日 (土)

一口問答(19願・定散二善10)

問い

それでは、善の実践を否定されたということではないですか。

答え

聖道門はそう言って、法然上人を弾圧しました。法然上人は、善の全くできない悪人を救うために阿弥陀仏が本願を建てられたことを明らかにされるために、聖道門の反発を覚悟の上でそのように断言されているのです。
法然上人は阿弥陀仏の大慈悲を具体的に、「一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。」(選択本願念仏集)と仰っています。善人も悪人もどんな人も平等に往生させるために、難を捨て易を取って本願とされた。財施をもって本願となされたならば、貧しい者は往生の望みを絶たれてしまう。しかも金持ちは少なく貧しい者は甚だ多い。
この後も法然上人は具体例を挙げて説明されています。阿弥陀仏が善悪無関係の本願を建てられてのですから、阿弥陀仏の救いには善の実践は全く必要がないのです。

(参照)
布施の功徳

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2012年9月28日 (金)

一口問答(19願・定散二善9)

最近、親鸞会の会員と思われる方からのコメントが増えてきました。実に、喜ばしいことです。これまで情報を遮断された井の中の蛙が、外の世界を知れば、高森会長の出鱈目が少しずつ理解できると思います。完璧と信じ切っていた高森会長に対して、少しでも疑問が生じれば、退会までは遠くないと思います。

問い

阿弥陀仏が19願を建てられ、釈尊が善を説かれたことは無駄であったというのですか。

答え

これに対する答えは、これまでにも言ってきたことです。
1つは「上根の機には諸行を授け、下根の機 には念仏をすすむ」(持名鈔)です。
2つには、「欣慕浄土の善根」(教行信証化土巻)です。
この2つは善人の立場を考慮されて説明されたものですが、もし自分が悪人であると思うのであれば、法然上人の説明のされ方が最も判りやすいです。
諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く」(選択本願念仏集)、「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」(同)

(参照)
小学生でもほぼ全員正解できる問題。しかし高森会長・講師部員・会員は間違える問題。

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2012年9月27日 (木)

一口問答(19願・定散二善8)

問い

雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではありません。善を否定して仏教になりますか。

答え

親鸞会では、「自力の心」を「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」だと定義しています。この「弥陀の救いに、己の善を役立たせようとする心」を捨てたら、最初から19願・定散二善は成立しません。
あなたの疑問に対して、蓮如上人は『御文章』で、「すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、(中略)仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(3帖目第13通)と教えておられます。信前・信後を問わず心得るべきことは、仁義という倫理道徳の善であり、往生のためには19願・定散二善を捨てよ、ということです。

(参照)
後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

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2012年9月26日 (水)

一口問答(19願・定散二善7)

問い

善を勧められた仏教の結論が、阿弥陀仏の本願ですから、阿弥陀仏の救いに善が関係ない筈がないですよ。

答え

19願・定散二善のことを真宗ではどのように教えられているか御存知ないようですね。親鸞聖人は「雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」(教行信証化土巻)と仰っています。「横超」が18願ということは御存知でしょうが、それに対して「横出」は19願のことです。
したがって雑行とは、19願及び定散二善のことです。阿弥陀仏の救いにあずかるには、雑行を捨てよ、つまり19願・定散二善を捨てよ、という関係です。

(参照)
論理的思考、論文である『教行信証』の読み方

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2012年9月25日 (火)

一口問答(19願・定散二善6)

問い

釈尊が韋提希に対して定善を勧められていない、と親鸞聖人が仰った根拠でもあるのですか。

答え

まず、釈尊は韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして」(観無量寿経)と仰っています。これを親鸞聖人は、「すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり」(教行信証化土巻)と解説なされています。韋提希は「定散諸機」の善人ではなく、「逆悪の機」の悪人と親鸞聖人が見做されたのです。
そして「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)の通り、定散二善は「定散諸機」に対して勧められたのだと。

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2012年9月24日 (月)

一口問答(19願・定散二善5)

問い

しかし釈尊は韋提希に対して、「なんぢおよび衆生、まさに心をもつぱらにし念を一処に繁けて、西方を想ふべし。」(観無量寿経)と韋提希に定善を勧めておられるではないですか。

答え

定善の方法を釈尊が説かれれば、「~すべし」と通常表現するのではないですか。しかし、韋提希は定善を実践しようともしていませんし、実践しようともしない韋提希に対して釈尊が実践を促されてもいません。親鸞聖人も、釈尊が韋提希に定善を勧められた、とも仰っていません。
語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。」(教行信証化土巻)と教えられていますように、「べし」という言葉だけにとらわれた「指を看視して」、釈尊の御心を無視するという「月を視ざるがごとし」の断章取義です。

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2012年9月23日 (日)

一口問答(19願・定散二善4)

最近の親鸞会は、聖教上の根拠が出せないために、本願寺の学者の説を、親鸞会と同じ解釈だ、と都合良く使う傾向があります。あれほど本願寺は間違っている、と言ってきたのに節操がないです。
一応言っておきますと、親鸞会が利用する本願寺の解釈は、言葉は同じでも、意味が違います。
たとえば本願寺では、

19願は18願を受け入れられない未熟な機を誘引するために方便として建てられた願

と説明します。これを高森邪義に毒された人が読むと、親鸞会と同じ解釈だ、と誤解しますが、親鸞会の思っていることと本願寺が言っていることとは意味が違います。本願寺が「未熟な機」と言っているのは、18願他力念仏での往生を目指さない人のことを指しています。ところが親鸞会ではこれを、18願他力念仏での往生を目指していても、信前は18願を受け入れていないから、信前の人は皆「未熟の機」と勝手に理解します。

他にも同じようなことがたくさんあります。昨夜、コメント欄に書いてこられた方も同じです。裸眼で見れば白なのですが、高森邪義というサングラスを通してみると、白が灰色に見えるのです。

兎に角、親鸞聖人の仰ったお言葉を出せないからと言って、本願寺の説を都合よく捻じ曲げて利用することもやめてほしいものです。素直に、親鸞聖人は仰っていない、と言えばいいのです。

とは言うものの、なかなか理解できないようなので、以前にも書いたことですが、少し変えてもう一度書いておきます。

問い

釈尊は心想羸劣の韋提希に定善を勧められているではないですか。したがって、韋提希は定善の機ではないですか。

答え

釈尊は、韋提希に定善を勧められたのではありません。韋提希が、「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」(観無量寿経)、と釈尊に、後の衆生のために浄土を見る方法を教えてほしい、と請うたから釈尊が定善を説かれたのです。釈尊が質問に答えられたことと、釈尊が勧められたこととは違います。
それと、心想羸劣の韋提希を定善の機というのは、どういう発想なのでしょうか。

(参照)
M講師からの反論-三願転入の教え

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2012年9月22日 (土)

一口問答(19願・定散二善3)

問い

信前は、聖道門を信じている人も浄土門を信じている人も違いはないのではないですか。

答え

その考え方は、釈尊の対機説法を否定するものです。
親鸞聖人は『教行信証』化土巻で、「この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく」「安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく」と教えられています。この世で悟りを開く教えと、浄土に往生して悟りを開く教えとは、まったく違います。浄土に往生しようという気のない聖道門の人に、浄土往生を願わせるために、定散二善が説かれた、と善導大師、親鸞聖人が仰っているのですから、定散二善・19願の正機は聖道門の修行をしてきた善人です。

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2012年9月20日 (木)

一口問答(19願・定散二善2)

問い

親鸞聖人は『一念多念証文』で、19願と定散二善を「浄土の方便の善」と仰っていますので、真実に入るためには「浄土の方便の善」が必要ということではないですか。

答え

浄土の方便の善」とは、「欣慕浄土の善根」という意味です。
『観無量寿経』に説かれた定散二善について、親鸞聖人は「二善・三福は報土の真因にあらず。(中略)如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。」(教行信証化土巻)と仰っています。定散二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。これは釈尊が18願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である、ということです。
つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるために説かれたのが、定散二善ということで、前回の御文と同じことを仰っています。

(参照)
法論するための基礎的な思考ができない

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2012年9月19日 (水)

一口問答(19願・定散二善1)

親鸞会が後出しジャンケンできるように、「白道」について私が先に書いておいたのに、顕真の「ひと口問答」では、「白道」を回避されてしまって、期待はずれでした。

来月からの「ひと口問答」がどうなるかは判りませんが、こちらは次を先に書いておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

6番目からですが、7番目も内容は同じですので、一緒に書いておきます。

問い

ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。」(教行信証化土巻)と親鸞聖人は仰っています。
釈尊はすべての人を定散二善に導き、阿弥陀仏はすべての人を19願に導かれている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。

答え

いつもの断章取義です。このお言葉の前に「然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。」と仰っています。外道から「半満・権実の法門」という聖道門に入ったといっても、悟りを開くものは甚だ稀である、ということです。
これを受けられて「ここを以て」です。
ですからこの御文の意味は、聖道門で悟りを開くことができない者が甚だ多いので、そんな者のために釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、ということです。

(参照)
超高学歴の幼稚思考の典型例

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2012年9月18日 (火)

一口問答(続 五逆謗法闡提5)

問い

親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、機の深信とは死んだら地獄に堕ちる、とはっきり知らされることではないですか。

答え

前にも言いましたが、この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」という大前提を仰った後、「われら凡夫かならず地獄におつべし」「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と様々に言い換えられています。
阿弥陀仏に救われても死後のことがはっきりすることはないと仰っているのですから、聖教上に書かれたことを踏まえて臨機応変に、地獄だ、三悪道だ、六道だ、と親鸞聖人が使い分けられているだけです。

(参照)
会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

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2012年9月17日 (月)

一口問答(続 五逆謗法闡提4)

問い

機の深信とは、逆謗の屍で地獄行き間違いなし、と知らされることではないというなら、何が知らされるのですか。

答え

日本語が理解できるなら、文字通り解釈するだけです。
なお、善導大師は機の深信を更に別の言い方で詳しく説明されています。
わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(観無量寿経疏)
私は法友と共に無始より廃悪修善に努めてきた。その中で数えきれない多くの法友が、出離して聖者となったのに、我ら凡夫は未だ出離できず、煩悩がますます盛んになり、微々たる善しかできない、ということです。
逆謗の屍とか地獄行き間違いなしの意味など皆無です。

(参照)
「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」

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2012年9月16日 (日)

一口問答(続 五逆謗法闡提3)

問い

本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。

答え

これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。

(参照)
パクリで大学者気取りも、聖教を読んだことのない無知を晒しただけの高森会長

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2012年9月15日 (土)

一口問答(続 五逆謗法闡提2)

問い

機の深信では「罪悪生死」、『歎異抄』では「罪悪深重」と言われていますから、すべての人は重い罪である五逆罪・謗法罪を造っているということではないですか。

答え

単なる妄想です。『観無量寿経疏』の機の深信「罪悪生死の凡夫」が『法事讃』の機の深信「煩悩を具足せる凡夫」に当たります。「罪悪生死」=「煩悩具足」です。
また「罪悪深重」が、五逆・謗法のこととどこにも書かれていません。
その証拠に、法然上人は「われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず」(往生大要鈔)と仰り、聖覚法印は「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)と法然上人と同じことを言われ、親鸞聖人はこの文を御自身で書写して、同行に送って読むように勧められています。法然上人・聖覚法印・親鸞聖人は、私たちは五逆罪を造っていないと明言されています。
つまり、五逆罪・謗法罪を造っていなくても、「罪悪深重」です。

(参照)
パクリで大学者気取りも、聖教を読んだことのない無知を晒しただけの高森会長

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一口問答(続 五逆謗法闡提1)

私の書いた

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

に対して顕真6月号「ひと口問答」では

問い

五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
一切の群生海」とは、全ての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。

としていました。
これが今回は

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

と変えてきました。

この表現は、弘宣局長のよく使う詭弁です。前回の「ひと口問答」では流石に無理があると思ったのかもしれませんが、今回も非常に無理があります。
目先の「白道」についての話題を逸らすのが、最大の目的であると思います。どう頑張っても、親鸞聖人が「白道」を自力と仰ったお言葉がないのですから。

さて、新たに「煩悩具足」「罪悪生死」を中心とした五逆謗法について「一口問答」を作りました。

問い

他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。

答え

煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。

(参照)
「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」

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2012年9月14日 (金)

顕真9月号「ひと口問答」  ですが、白道を回避

顕真9月号の「ひと口問答」は以下ですが、「白道」を故意に回避して、10項目中2番目の「五逆謗法」に戻っています。

問い

浄土真宗では、すべての人を「煩悩具足の凡夫」とか「罪悪生死の凡夫」と言われますが、
この「煩悩具足」や「罪悪生死」の中に、五逆罪や法謗罪は入らないと言う人と、入るという人とがありますが、いかがでしょうか。

答え

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。
それを、『正信偈』には「極重悪人」と教え、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願」と言い、
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、
弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれています。

いつものこじつけ、論理の超飛躍です。
さて、答えの一行目は以前に書いた内容で十分ですが、一応書き直しておきます。

問い

五逆罪も法謗罪も弥陀の本願の正機ですから、もちろんすべての人は逆謗の機です。

答え

違います。弥陀の本願の正機を悪人正機と教えられますが、これについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということであり、すべての人が逆謗の機という意味にはなりえません。

次の「極重悪人」についてもすでに述べていますので、このままでよいでしょう。

問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。

答え

これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。

最後に「煩悩具足」「二種深信」については、一口問答の形式では「機の深信」のところで述べる予定でしたのでまだ書いていませんが、一度に書いても消化不良になりますから、後日の楽しみとしておいてください。
念のために、「答えられないから逃げたのだろう」と言う人もいるでしょうから、以前に書いたエントリーを紹介しておきます。

「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」

機の深信も、もちろん法の深信も理解できない高森会長と講師部員

パクリで大学者気取りも、聖教を読んだことのない無知を晒しただけの高森会長

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2012年9月12日 (水)

高森会長の邪義を粉砕されたのが善導大師の六字釈、願行具足論

高森会長の言うことは、何から何までずれています。自信一杯に言っているつもりでしょうが、真宗界から笑われています。
善導大師が教えられた六字釈、願行具足論を、判った顔して高森会長は話をしていますが、完全にずれています。その背景も、善導大師が仰った内容も知ったかぶりです。
聖道門の主張も調べることもなく、適当なことを言っていますが、それよりも大きな問題が、善導大師の六字釈、願行具足論は、高森会長の大好きな求道を否定された内容だということです。

これは『玄義分』にあります。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。 「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

十声の称仏」とは、下品下生のことを指しています。下品下生の往生については、再三再四述べてきましたが、五逆罪を造り、平生に善もせず、仏法も聞いてこなかった者が、臨終になって初めて善知識から念仏を勧められ、十回の念仏で往生を遂げる、ということです。
これを文字通り受け取ることができなかったのが、聖道門なのです。

善もしていない、仏法も聞いていない、しかも五逆罪まで造った極重の悪人が、心の籠らないたった十回の念仏で往生などできる筈がない

という思いです。これは、高森会長の考えと全く同じです。こんな最低最悪の者が往生するには、何かを加えなければならない、と仏智不思議を疑っているのです。

そんな仏智不思議を疑う者に対して善導大師が、六字釈を示され、南無阿弥陀仏には願行具足していることを説明なされたのです。

この解説が、『安心決定鈔』にあります。

名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。
かるがゆゑに「玄義」にいはく、「いまこの『観経』のなかの十声の称仏には、すなはち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる。南無といふはすなはちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑに、かならず往生を得」といへり。
下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。

(現代語訳)

仏の正覚そのままを顕わされた御名を称えるのが、仏の本願の行であるから、その行には往生のための願行が具足している。それは仏の正覚そのままの御名であるから、御名は仏の正覚全体であり、仏の正覚そのものは、十方衆生の往生そのものである。往生そのものであってみれば、願行が具足していないということはない。
それであるから、善導大師の『観経疏』玄義分には「いまこの観経のなかの十声、仏の御名を称えることには、すなわち十願あって十行が具足している。どうして具足しているかというに、南無というは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義であり、阿弥陀仏というは、すなわち、これその行である。こんな義理あいで、かならず往生することができる」と仰せられている。
『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行でないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたからである。此仏が凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたことを領解させて頂いて、仏に救わるる事となったのを三心(至誠心・深心・回向発願心)とも三信(至心・信楽・欲生我国)とも信心ともお示し下されている。かように仏が凡夫の願行を御名に成就して下されてあるのを口に称えあらわす、それが南無阿弥陀仏の称名念仏である。
かような訳で、仏が凡夫の願行を成就して下されたことを領解し、称うるのであるから、領解も自分の機の力であると自分に功を認めなくて、全く仏の願力であると功を願力にもどし、全く他力を仰ぐのである。

法蔵菩薩の五劫兆載の願行」により往生できるのですから、「さらに機の願行にあらず」なのです。衆生が加えるものは何もないのです。すべて阿弥陀仏が用意して下されているのに、何が不足だというのでしょうか?仏智不思議を疑っている証拠です。

くどいようですがもう一度いいますと、下品下生の往生、つまり

・五逆罪を造った者
・仏法・世俗の二種の善根有ること無しの者
・臨終に初めて仏法を聞いた者
・臨終の苦しみで心の籠らない十回の念仏を称えた

という最低最悪の条件でも、往生できる理由を説明なされたのが、善導大師です。
ところが、

・煩悩と戦う求道
・宿善の薄い人は宿善が厚くなって
・三願転入の道を歩んで
・仏法を30年、40年聞いたくらいで判るものではない

という寝恍けた高森会長の邪義を粉砕された善導大師の教えを、高森邪義の正しさを証明する教えと勘違いしているのですから、本当にお目出度い限りです。

高森会長は、少しずつ教えを修正してきているようですが、そんな小手先の修正ではとても追いつかないほど、曲がりに曲がった高森邪義ということが、ここからもお判り頂けると思います。

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2012年9月11日 (火)

高森邪義を捨て去るのが求道

高森会長は信前の求道を強調し、会員から搾取する目的で、二河白道の譬えを利用していることは明らかです。ただし、二河白道の譬えを正しく理解した上で捻じ曲げたというよりは、知らずに利用した、というのが正解でしょう。欲望と勝手な思い込みにより創作話ができたということです。

さて、高森会長が拘る求道ですが、完全に親鸞聖人の教えから逸脱しています。親鸞聖人が教えられたことは、本願力回向です。法蔵菩薩が兆載永劫の修行によって獲られる功徳を十方衆生に斉しく与える、ということです、自因自果の範疇から抜け出せない有の見の考え方では、到底理解できる筈もないでしょう。そんな、有の見の自因自果に凝り固まって、自力の善に拘る人のことを指して、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

と痛烈に非難されています。
阿弥陀仏に救われるには何かしなければならない、と考えることを「仏智の不思議をうたがへば」と仰っているのです。
最初から信後の人はありませんので、信前の人が信後になる、そういう意味では信前の求道はあります。しかし、その求道とは高森会長の言うような煩悩と戦って、善のできない者と知らされるまで善に励む、とかいう聖道門もどきの道ではありません。煩悩と戦って、とか、善に励む、とか、三願転入の道を進む、という間違った考えを捨てる道です。つまりは、高森会長の教えている邪義を全て捨て去っていくことが、正しい求道です。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず

(現代語訳)

自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。

とある通りです。
高森会長の言っていることは、親鸞聖人の仰せとは真逆です。それにしがみついていることは「みづからが身をよしとおもふこころ」です。釈尊、善知識方のお言葉に沿った教えに従わずして、御文とは異なった勝手な解釈を正しいとする思いあがった心のままでは、他力に帰すことはありません。
ましてや、往生を願わず、空想の絶対の幸福などを求めていては、求道にもなっていません。

往生を願う気のない人、出離を願わない人を闡提といいます。親鸞会の会員は、闡提と言えます。
『法事讃』を引かれて『教行信証』信巻

謗法・闡提、回心すればみな往く

と教えられていますように、間違った心を翻えさない限り救われることはありません。

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2012年9月 6日 (木)

親鸞聖人の仰せと高森会長の主張、どちらが親鸞聖人の仰せか?

高森会長が直に参加したmixiでの三願転入の法論をはじめ、講師部員や特専部員、幹部会員、偽装本願寺僧侶、偽装退会者、自称獲信者と、私は直接的間接的に、何十回と法論を行ってきました。結果はすべて、親鸞会側の逃亡です。
親鸞会の基準では、逃亡=敗走ですので、親鸞会は全敗ということを認めていることになります。
唯一、「ひと口問答」のみ現在進行形ですが、これも言い放しですので、逃亡の現在進行形でもあります。

「ひと口問答」を含めた主な法論については、当ブログに書いていますので、興味のある方は探して読んでみてください。

私は、経典、善知識方のお言葉をそのまま提示しているのに対して、高森会長やその信奉者は高森会長の理論を元に話を展開しているだけですので、法論の結果は最初から判っているのです。

親鸞会に提示している十項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

を見て頂ければ判りますが、親鸞聖人の仰せと高森会長の主張、どちらが親鸞聖人の仰せか、という法論です。当然ながら法論などするまでもないことです。親鸞聖人が仰っていることを親鸞聖人が仰っていない理論で否定して、親鸞聖人が仰っていないことを仰っているんだ、といくら言ったところで、親鸞聖人が仰っていないのですから、親鸞聖人が仰ったことを否定することなどできる訳がないです。そんなことは小学生でも判る話です。

ところがこれが判らないのが、高森会長とその信奉者達です。本当は判っているのでしょうが、今更間違いとは認められないだけのことです。意地と我慢で仏法を捻じ曲げ続け、それが退会者と真宗関係者に広く知れ渡り、笑いと怒りを誘っています。

高森会長達は殻に閉じ籠りながらも批判が気になって気になって仕方がなく、ネットに書かれた批判に対して、目先の対応に追われており、それも筒抜けとなっていることで、更に笑われています。

現在は顕真9月号の「ひと口問答」を待っている状態です。
親鸞聖人が他力としか仰っていない「白道」を、親鸞聖人が自力と仰っているとどう書いてくるのか、楽しみにしています。

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2012年9月 3日 (月)

”無二の善知識”の正体

高森会長が、これまで聖教をほとんど読んだことがないのは、疑いようのない事実ですが、それでなぜ、”無二の善知識”を演じることができたのか、と思われる方もあると思います。
しかし、高森会長がどんな人物かを知れば、この回答は容易に導き出せます。

高森教学は、大沼教学のパクリなくしては成り立ちません。正確には、パクリ損ないです。大沼師は、当時の本願寺派を糾弾していました。その際に駆使したのが、大沼教学です。大沼教学とは、聖教通りの解釈に拘らない味わいによる教学です。大沼師は、聖教を文字通りにしか解釈できない本願寺派勧学方は無安心の証拠、というような論理展開をしていました。
このことを念頭に置いて、大沼師の著書を読めば、誤解も減るのでしょうが、高森会長は本願寺を攻撃することが目的で、大沼教学に傾倒したのだと考えられます。もちろん、大沼師の意図など理解せずにです。その結果、聖教を文字通り解釈しない大沼師の解釈が、聖教の正しい解釈と錯覚したのでしょう。

また、高森会長は聖教を読みこなすだけの能力がもともと乏しいのです。古文に詳しい方なら、高森会長の解釈が文法上あり得ない、と疑問を持つことが何度もあったと思います。

更には、高森会長は俄か専門家を演じるこのとできる特技の持ち主です。テレビで仕入れた、眉唾物の情報を、その筋の専門家に、
キミ、知っているか?
と質問して、答えられないと、その専門家を見下すのです。
そんなことも知らないのか
と言って、その専門家よりも優れた専門家に瞬時に変身する訳です。ましてや、俄かではなく、熱心に大沼教学を勉強してきた自負があるのですから、自分でも”無二の善知識”と完璧に信じ込んでいたのでしょう。

もっと言えば、高森会長には常識というものがありません。世間の常識も、真宗の常識もありません。そのために、誰も想定できない突飛なことを真顔で言い出すこともしばしばで、常識を身に付けた人には高森会長の言動は理解しがたいのです。
本願寺との法論でもそれが十分に発揮されて、真宗の常識の想定から大きく外れた高森会長の主張が、本願寺には理解できなかったのだと思います。
善の勧めは、その典型です。

これが”無二の善知識”の正体です。

したがって、この正体を知っている退会者からすれば、高森会長と法論をして勝つことは実に容易いことです。

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