高森会長の言うことは、何から何までずれています。自信一杯に言っているつもりでしょうが、真宗界から笑われています。
善導大師が教えられた六字釈、願行具足論を、判った顔して高森会長は話をしていますが、完全にずれています。その背景も、善導大師が仰った内容も知ったかぶりです。
聖道門の主張も調べることもなく、適当なことを言っていますが、それよりも大きな問題が、善導大師の六字釈、願行具足論は、高森会長の大好きな求道を否定された内容だということです。
これは『玄義分』にあります。
いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。 「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
「十声の称仏」とは、下品下生のことを指しています。下品下生の往生については、再三再四述べてきましたが、五逆罪を造り、平生に善もせず、仏法も聞いてこなかった者が、臨終になって初めて善知識から念仏を勧められ、十回の念仏で往生を遂げる、ということです。
これを文字通り受け取ることができなかったのが、聖道門なのです。
善もしていない、仏法も聞いていない、しかも五逆罪まで造った極重の悪人が、心の籠らないたった十回の念仏で往生などできる筈がない
という思いです。これは、高森会長の考えと全く同じです。こんな最低最悪の者が往生するには、何かを加えなければならない、と仏智不思議を疑っているのです。
そんな仏智不思議を疑う者に対して善導大師が、六字釈を示され、南無阿弥陀仏には願行具足していることを説明なされたのです。
この解説が、『安心決定鈔』にあります。
名体不二の弘願の行なるがゆゑに、名号すなはち正覚の全体なり。正覚の体なるがゆゑに、十方衆生の往生の体なり。往生の体なるがゆゑに、われらが願行ことごとく具足せずといふことなし。
かるがゆゑに「玄義」にいはく、「いまこの『観経』のなかの十声の称仏には、すなはち十願ありて十行具足せり。いかんが具足せる。南無といふはすなはちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑに、かならず往生を得」といへり。
下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。
(現代語訳)
仏の正覚そのままを顕わされた御名を称えるのが、仏の本願の行であるから、その行には往生のための願行が具足している。それは仏の正覚そのままの御名であるから、御名は仏の正覚全体であり、仏の正覚そのものは、十方衆生の往生そのものである。往生そのものであってみれば、願行が具足していないということはない。
それであるから、善導大師の『観経疏』玄義分には「いまこの観経のなかの十声、仏の御名を称えることには、すなわち十願あって十行が具足している。どうして具足しているかというに、南無というは、すなわちこれ帰命、またこれ発願回向の義であり、阿弥陀仏というは、すなわち、これその行である。こんな義理あいで、かならず往生することができる」と仰せられている。
『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行でないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたからである。此仏が凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたことを領解させて頂いて、仏に救わるる事となったのを三心(至誠心・深心・回向発願心)とも三信(至心・信楽・欲生我国)とも信心ともお示し下されている。かように仏が凡夫の願行を御名に成就して下されてあるのを口に称えあらわす、それが南無阿弥陀仏の称名念仏である。
かような訳で、仏が凡夫の願行を成就して下されたことを領解し、称うるのであるから、領解も自分の機の力であると自分に功を認めなくて、全く仏の願力であると功を願力にもどし、全く他力を仰ぐのである。
「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」により往生できるのですから、「さらに機の願行にあらず」なのです。衆生が加えるものは何もないのです。すべて阿弥陀仏が用意して下されているのに、何が不足だというのでしょうか?仏智不思議を疑っている証拠です。
くどいようですがもう一度いいますと、下品下生の往生、つまり
・五逆罪を造った者
・仏法・世俗の二種の善根有ること無しの者
・臨終に初めて仏法を聞いた者
・臨終の苦しみで心の籠らない十回の念仏を称えた
という最低最悪の条件でも、往生できる理由を説明なされたのが、善導大師です。
ところが、
・煩悩と戦う求道
・宿善の薄い人は宿善が厚くなって
・三願転入の道を歩んで
・仏法を30年、40年聞いたくらいで判るものではない
という寝恍けた高森会長の邪義を粉砕された善導大師の教えを、高森邪義の正しさを証明する教えと勘違いしているのですから、本当にお目出度い限りです。
高森会長は、少しずつ教えを修正してきているようですが、そんな小手先の修正ではとても追いつかないほど、曲がりに曲がった高森邪義ということが、ここからもお判り頂けると思います。
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