一口問答(獲信に善は必要か13)
問い
蓮如上人は、「雑行を捨てよ」、と繰り返し仰っています。雑行をしていない者に対して、「雑行を捨てよ」、とは仰っていないから、雑行である善を勧められていることになるでしょう。
答え
あなたの理屈なら、雑行である五雑行をしていない者はまず五雑行をせよ、ということですね。
「タバコを吸うな」と言われて、タバコを吸っていない人が、タバコを吸ってから止める、「自殺は絶対に止めましょう」と言われて、自殺をしたことがない人は、自殺をしてから止める、という馬鹿な発想をする人はいません。
雑行をしていない人に対してはまず雑行をせよ、と仰ったお言葉はありますか。
| 固定リンク
「一口問答」カテゴリの記事
- 一口問答(法の深信12)(2014.07.22)
- 一口問答(法の深信11)(2014.07.21)
- 一口問答(法の深信10)(2014.07.14)
- 一口問答(法の深信9)(2014.07.13)
- 一口問答(法の深信8)(2014.07.12)
コメント
こういう詭弁を繰り返し言うのが講師部員なんでしょうね。
やってみなければわかりませんよ、も同じ類。
ゴールまで行って、とか、目的、も詭弁に使われていた。
全てお聖教と違うし七祖を勧められた親鸞聖人と違う、
浄土真宗とは全く違った洗脳やマインドコントロールです。
投稿: 隠蔽 | 2012年8月 1日 (水) 08時35分
隠蔽 様
その通りです。真宗の教えを正しく理解できれば、高森教としか言い様がないです。
投稿: 飛雲 | 2012年8月 1日 (水) 21時20分
「していない人に捨てよとは言わない、だからしなさい」
この理屈で言えば、親鸞会のいう雑行とはする・しないの「行為」になるはずです。
しかし最終的に雑行を捨てよとは「善を捨てよ、ではない」とも言っています。行為を捨ててません。
「捨てよ」の言葉をわざわざ「しなさい」にまでねじ曲げてさせておきながら、実際には捨てないのだから
ひどい矛盾です。こんな教義で救われる(=捨てられる)時が来るはずがない。
善という言葉を、会の活動に縛り付けておくために利用しているということに気がつければ全てわかることなんですが、
そこに気がつけないと一生「光に向かって進ませて頂きます」に閉じ込められるだけ、ですね。
投稿: | 2012年8月 2日 (木) 10時50分
名無し 様
詭弁とはそういうものなんですね。
詭弁を詭弁と見抜くことができない限り、騙され続けていくのです。
投稿: 飛雲 | 2012年8月 3日 (金) 06時32分