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2012年8月17日 (金)

「自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人か」だそうです

顕真8月号に、東本願寺(真宗大谷派)の近代教学を痛烈に批判した論説があります。「進むべきは親鸞学徒の本道」と題して東本願寺の月刊誌『ともしび』平成23年4月号の

「親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません」

等を引用して、東本願寺が、親鸞聖人のお言葉通りに解釈していないことを述べています。
この後に『御一代記聞書』

前々住上人(蓮如上人)へある人申され候ふ。開山の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

を紹介しながら、結論として

「私はそう思わない」
「私には合わない」
「これだけでは足りない」

などと、自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人か。蓮如上人のお言葉に、深く懺悔しなければならぬ。
 我々親鸞学徒もまた、自分の「考え」「計らい」「判断」を、決して混在させてはならない。進むべきは親鸞学徒の本道である。

と書いています。

当ブログの読者の皆さんなら、私の言いたいことはお判りだと思います。
親鸞聖人のお言葉通りではない、自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人自分の「考え」「計らい」「判断」を混在しまくっているのが、他ならぬ高森顕徹会長です。

高森会長の言うことが、親鸞聖人のお言葉と違うのではないか、と会員が講師部員に尋ねると、

親鸞聖人のお言葉を額面通り受け取ってはいけない、高森先生の仰ることが正しい解釈だ

とお決まりの答えが返ってくることからも、否定しようのない事実です。

親鸞聖人の仰せと高森会長の言うことが明白に異なる点を

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

と10項目に絞って、親鸞会と私との間で、間接的に法論が成立しています。
4番目まで、親鸞会から自分の「考え」「計らい」「判断」を混在させた反論があり、皆さんにも紹介してきました。

これをまとめたものが、

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

です。

進むべきは親鸞学徒の本道

と本気で思っているなら、看過できない内容です。そして

自分の「考え」「計らい」「判断」を、決して混在させてはならない

のなら、高森会長から離れる筈です。

なお、東本願寺を通して、弘宣局長が、高森会長と親鸞会教学を暗に非難しているなら、見直しますよ。

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コメント

親鸞会の人(元も含め)の近代教学批判が当を得ていると思ったことは、私は一度もありません。「開山のめされ候ふやうに」するためには言葉をおうむ返しするだけではだめだという認識が近代教学の根底にはありますからね。誰かさん達みたいな断章取義のことを考えればそういう問題意識は理解できるはずなんですけど、まあ、親鸞会の人には無理ですわな。読解とか解釈の複雑さについての理解が、あの人たちにはまるでありませんもん。

そして、こういうことを言うと「近代教学にかぶれている」と断定されたりするわけです 。単純でうらやましい(笑

とまれ、例のともしびの記事も、断章取義を疑って原典に当たった方が良さそうですね。

投稿: dandelion | 2012年8月17日 (金) 14時22分

原文です。
http://www.higashihonganji.or.jp/book/kyoken/syu1104.html

斉しく悲引したまうや

(梶原 敬一 教学研究所嘱託研究員)

 親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません。むしろ、そのように受け取ることを拒絶するものこそ親鸞聖人の言葉です。
 それはある意味では、宗教が、そのままの形では伝承することができないとする、仏教の末法思想と通底するものであります。
 その時に、易行をもって宗教の伝承を可能としようとされたのが、法然上人の選択念仏の思想だったともいえるでしょう。
 しかし親鸞聖人は、その法然上人との出遇いによって、自らを愚禿と名告り、愚禿の心によって賢者の信を受けとめていくことが、いかにして可能かを生涯の課題とされたのでありましょう。その思索と苦悩の記録こそが『愚禿鈔』ではないかと思います。
 そして、その思索を通して、易行として伝えられるものと、難信として断絶するものの絶対的矛盾を受けとめた時に、はじめて宗教心が大菩提心として伝承されることを顕らかにされたのが『教行信証』として私達に残された言葉だと思われます。
 『教行信証』には、「己が能を思量せよ」(聖典三三一頁)、「己が分を思量せよ」(同三六〇頁)と私達に教誡されています。
 それは「己の能」の自力無効によって、浄土の思想が全ての者の救いを完遂することを顕らかにすると同時に、その救いが一人ひとりの「己の分」によって異なった相を持ち、その異なりによって普遍的な救いとなることを示されているのでありましょう。そのことを「広大異門に生まる」(聖典二四五頁)と示されています。
 ですから,親鸞聖人にとって顕真実とは、浄土を顕すことだけでなく、同時に穢土を顕すものでなければなりません。そして、この浄土と穢土の二つの世界の用きこそが、私たちの生に真実を与えるものであります。親鸞聖人は、この真実を生きた者として、私たちに、これから生きていく根拠と力を自覚させることで宗祖として用きつづけているのです。
 そのような、宗祖としての言葉は、何よりも親鸞聖人自身の、愚禿としての自覚の中にある絶望と、その絶望を通した先にある希望を示すからこそ私達に具体的な力となって作用するのであります。
 「悲しきかな、愚禿鸞」と悲嘆される言葉をそのまま、「悲しきかな、垢障の凡愚」と呼びかけられた、その憶いを受けとめることこそ、私達が親鸞聖人を宗祖とするということに他なりません。
 そして、この絶望を通して伝わるものこそ末法思想として表現された宗教心をもって人間を成就する力となるといわれているのでしょう。「浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまうをや」(聖典三五七頁)という言葉こそ、私達が親鸞聖人を宗祖として生きる事に与えられる課題だと思えてなりません。そこから、親鸞聖人を学び、親鸞聖人に学ぶ学び方が明らかになるのではないかと思います。
(『ともしび』2011年4月号掲載)

投稿: 断章取義 | 2012年8月17日 (金) 15時22分

自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人か、ということも正しいと前提に言いたいのでしょうか。
というよりも親鸞聖人も正しくは、とか仰るので、親鸞会の解釈だと親鸞聖人は如来方よりも優れた人か、となるところが言ってないのも変な話。
まるで自分達は正しく伝えているつもりだろうか。
高森のミココロ、と耳にタコが出来るほど言いまくってたくせに本当に恥知らずな連中だこと。
他人の意見を折って自己の存在を図るのが目的なんでしょう。
自己批判がなく他者を陥れないと安心できないなんてイカれている。
迷惑千万。

投稿: 無視無視 | 2012年8月18日 (土) 05時36分

コピーしてみました。

金科玉条 (きんかぎょくじょう)
金科玉条の意味
立派な法律や規則、人間として絶対に守らなければならない重要な法律や規則のこと。金や玉のように立派な法律という意味から。「金・玉」貴重、重要の意味。「科・条」法律の条文の意味。


親鸞会の目的は親鸞聖人の教えで人を縛り付けることがあるから、予め論理を壊しに掛かったんだろう、と思います。
教団運営の層に疑いや疑問を持たせたくなかったり、自分達がワガママで思い思いに勝手な解釈をして強制しているのをばらされたくないのでしょう。
凡愚低下の罪人ということを知らない人たちか。

投稿: 無視無視 | 2012年8月18日 (土) 05時50分

dandelion 様
断章主義 様

東本願寺は、親鸞聖人の仰せをお言葉に囚われるのではなく、意図を読み取ることが大事だ、「義に依りて語に依らざるべし」というようなことを言いたいのだと思います。親鸞会の言っていることとは確かに違います。


無視無視 様

高森会長がよく言う、自分のことは判らないものだ、という典型例ですね。すべてがデタラメです。

投稿: 飛雲 | 2012年8月18日 (土) 06時08分

最近、録画しておいたNHKのオーム番組を見た。
また、かなり昔の森達也氏の「A」も見た。
MC、MCと簡単に言うが、これはほんとに大変なことだ。
親鸞会にMCされて人生悲惨なめに遇わされた方も沢山見えるだろう。
傷ついて恨んでいる人もきっと沢山見えるはずだ。
又、今現在MCのまっただ中の人も。
今は、一人でも多くの人を親鸞会のMCから奪回(=脱会)させるのが一番の救いの近道と思う。
最近も一人脱会することが出来、また、法を聞かせて頂き御信心を喜んでおられる。
脱会に至るまでにいくつかのブログの紹介もしたが、最初はなかなか伝わらなかった。
しかし、何度か言っている内にだんだんとMCが解けてきた。
間違いは間違いと言い続けないと伝わらない。
それほど迷いが深いということ。
高森親鸞会は間違いだと言い続けないと駄目なんですね。

飛雲さん、いつもご苦労様です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2012年8月18日 (土) 18時38分

とくよしみね 様

脱会を促すには、同じことでも何度でも何度でも、根気よく話をし続けるしかないです。
それによってマインドコントロールが解けると思います。
頑張りましょう。

投稿: 飛雲 | 2012年8月18日 (土) 21時08分

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