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2012年8月

2012年8月31日 (金)

高森会長は教義についても会員を騙してきたのか?

高森会長は教義についても会員を騙してきたのか、と尋ねられることがあります。これに対する返答は、微妙です。なぜなら、高森会長が間違った教義を正しいと本気で信じて、それを会員に伝えているところもあったからです。
たとえば、二河白道の譬えなどは少しでも真宗学を学べば、信後の話と簡単に判るのですが、それを信前と説いているのは、”騙した”というよりも”知らなかった”ということでしょう。それは、高森会長がこれまで二河白道の譬えを信後のこととして説明したことが無いことからも判ります。

正しくは信後の譬えではあるが、信前の求道としても当てはまる

というような前置きがあるのなら別ですが、そんな説明を一度も聞いたことがありませんので、高森会長自身が”知らなかった”のです。

他のことについてもそうです。”無常の虎”の話も『仏説譬喩経』の内容を全く”知らなかった”から、あのような話が何の迷いもなくできるのです。

つまり、教義においては、”騙した”部分よりも”知らなかった”部分の方がかなり多いと推察できます。そういう意味では、高森会長は会員を”騙した”のではない、と言えるのかもしれません。

ただし、無知を隠して無二の善知識を演じてきたことに関しては、間違いなく”騙した”のです。もちろん教義以外のことについては、説明するまでもないでしょう。

では、無知の善知識の現在はどうでしょうか?
教義についての無知を散々指摘され、全部は理解できないにしても、聖教のどこをどう読んでも高森会長の言ってきたことが歴代の善知識方とは真逆であったことをそれなりに自覚しながら、無知による誤りを認めず訂正もしないのは、最早”知らない”ではなく”騙している”になります。
講師部員も同じです。以前は高森会長の言うことが歴代の善知識方の仰せと同じ、と信じ切っていたとしても、今は文面上明らかに異なっている、と判っているのですから、講師部員も”知らない”ではなく”騙している”のです。

無間業の謗法罪だ、必堕無間だ、因果の道理は大宇宙の真理だ、とやかましい割には、高森会長も講師部員も積極的に謗法罪を造っているのですから、高森会長・講師部員の言動の全てが嘘だということです。はっきり言えば、彼らにとっては仏教などどうでもいいのでしょう。「白道」の他力信心とは、似ても似つかない絶対の幸福などと言う貪欲の人参を、会員の目の前に吊るして、金集め人集めがしたいだけなのです。

曇鸞大師・親鸞聖人のお言葉を信じる気のない謗法の者に何を言っても無駄でしょうが『教行信証』信巻に引かれた『浄土論註』に、

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

 問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
 答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

とある通りです。

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2012年8月28日 (火)

一口問答(白道は自力か他力か8)

白道についてはこれ以上説明の必要はないでしょうが、どうしても負けを認めたくない知ったかぶり”教学自慢”の講師部員や会員がいますので、一応書いておきます。

問い

親鸞聖人は『観無量寿経』に隠顕があると教えられています。顕説として自力の行と信、隠彰として他力の行と信が説かれている、というものです。二河白道の譬えは、善導大師が、『観無量寿経』の三心(至誠心・深心・回向発願心)の回向発願心の解釈をされる中にあります。したがって、「白道」は顕説の自力信心と隠彰の他力信心が説かれている、と親鸞聖人は見做されていたと言えるでしょう。

答え

負け惜しみですね。前にも言いましたが理解できていないようなので、再度説明します。
『教行信証』信巻には隠彰の他力の信心、化土巻には顕説の自力の信心が説かれています。『観無量寿経』の三心を解釈された『観無量寿経疏』の三心釈は、信巻にも化土巻にも引用されています。しかし、二河白道の譬えは、信巻にしか引用されていません。つまり、「白道」を顕説の自力の信心としては、親鸞聖人は仰っていません。

(参照)
白道の意味さえ知らない高森会長

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2012年8月25日 (土)

一口問答(白道は自力か他力か7)

問い

二河白道の譬えを説かれる前に「行者のために一つの譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。」(教行信証信巻)とあります。群賊・悪獣の惑乱から守護しなければならない信心ですから、自力の信心ということではないですか。

答え

結局のところ、親鸞聖人が「白道」を自力という意味で仰ったお言葉は、どこにもないから、妄想を創り上げるのです。
白道」は、「火の河」と「水の河」に挟まれた細い道です。獲信後、高森会長が言うような大道になることもありません。しかも、「群賊・悪獣」が「行者」を呼び返そうとします。しかし、そんな細い道でも何物にも妨げられることなく西の岸まで確実に行けるのは、「守護」されているからです。
つまり、「信心を守護して」とは、「守護」しなければならない「信心」ではなく、「守護」された「信心」ということで、当然ながら他力信心を表わされたものです。
なお、高森会長や貴方のような自力妄想の人を「群賊」と言われるのです。

(参照)
法論を怖れる「群賊」

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2012年8月24日 (金)

一口問答(白道は自力か他力か6)

問い

『愚禿鈔』には、「白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。」とありますので、「白道」は19願、自力諸善の求道ではないですか。

答え

どこに「白道」と書かれてありますか。「」とありますので、どう読んでも「白路」のことです。その証拠に、この後には、「他力白道を念ぜよとなり。」とあります。「白道」は「他力」です。
親鸞聖人の教えを正しく理解するには、根本聖典である『教行信証』に依らなければならない
と高森会長は言っていますので、『教行信証』信巻の記載を示すと、「路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。」とあり、『愚禿鈔』の「」と『教行信証』の「」とは同じ内容です。『愚禿鈔』は写本しか残されていないことを考えると、『愚禿鈔』を書写した人が、「」と「」とを誤写した可能性も考えられます。

(参照)
文法からも、学問的観点からも、どこから見ても曲がった解釈

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2012年8月22日 (水)

一口問答(白道は自力か他力か5)

問い

存覚上人は、「仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむべからず。」(持名鈔)と教えられている通り、煩悩と戦っていくのが求道ですから、二河白道の譬えを信前の求道としても非常によく合います。

答え

典型的な断章取義です。
同様の内容で、「順次往生の教をうけて、このたび生死をはなるべき身となりなば、一世の身命を捨てんはものの数なるべきにあらず。身命なほ惜しむべからず。いはんや財宝をや。」(持名鈔)と、信後の報謝については言われていますが、信前に煩悩と戦って求道するという内容は、どこにもありません。
それどころか、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」(同)とあります。世の中の倣いに従って煩悩にまみれながら出離するのが真宗の教えだということです。
高森会長は、自力と他力の理解が真逆なのです。

(参照)
恩徳讃の気持ちのない悪知識

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2012年8月21日 (火)

一口問答(白道は自力か他力か4)

問い

白道」を歩んでいる行者について、「もろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。」(教行信証信巻)と教えられています。これは、善を回向して浄土にむかう、という解釈もできますから、信前の自力の求道を表現されたものと言えます。

答え

回して」の意味ですが、一般的には「回向して」と「ひるがえして」という2つの解釈があり得ます。しかし、ここでは後者の意味です。なぜなら、「白道」を信後の他力の意味でしか親鸞聖人は仰っていないからです。
回して」が「回向して」だから「白道」が信前の自力だ、ではなく、「白道」が信後の他力だから「回して」が「ひるがえして」、なのです。発想が逆です。
したがってこの御文は、もろもろの善を捨てて直ちに浄土に向かう、という捨自帰他の行者を表されたものです。

(参照)
白道を信前の求道、と何としても解釈したい親鸞会

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2012年8月20日 (月)

一口問答(白道は自力か他力か3)

偽装退会者のブログでコメントを書き続けてこられた根拠捏造さんが、偽装退会者からコメントを拒否設定されたそうです。
毎度毎度のことで、何も驚くこともありません。むしろ、意外に遅かったな、という感想です。
高森会長も、講師部員も、特専部員も、幹部会員も、偽装僧侶も、偽装退会者も、法論全敗、法論逃亡で一味です。進歩、向上とは無縁の団体です。

問い

信前の人と全く関係のないことを説かれてはおらず、信前の人にもわかるように説かれた現代版そのものが高森先生が説かれる二河白道でしょう。話にはある程度の自由度があってもよいです。

答え

つまり、親鸞聖人の仰っていないことを高森会長は説いているということですね。
参考までにいいますと、「また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。」(教行信証信巻)とあり、「能生清浄願心」について、「これ凡夫自力の心にあらず」(同)とはっきり断言されています。
あるいは「白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。(中略)道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。」(同)等、親鸞聖人は「白道」を18願力、他力信心の意味でしか仰っていません。
自力と他力の水際を説くのが善知識なら、自力と他力を反対にしている人物は悪知識ということでいいですね。

(参照)
白道の意味さえ知らない高森会長

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一口問答(白道は自力か他力か2)

問い

二河白道の譬えは、欲と怒りの煩悩と戦って阿弥陀仏に救われるまでの道程を譬えられたものですから、白道は信前の求道のことです。

答え

高森会長は、『教行信証』6巻に説かれていることは、前5巻が救われたらどうなるかの信後について、最後の化土巻1巻だけがどうしたら救われるかの信前について、と教えていましたよね。
では、二河白道の譬えは、何巻に書かれてあるか知っていますか。そう、信巻です。化土巻ではありません。
ならば、二河白道の譬えは信前のことですか信後のことですか。
ちなみに信巻の最初に「至心信楽の願」という願名が記され、化土巻の最初には「至心発願の願」「至心回向の願」とあります。信巻は18願を解説されたもの、化土巻は19願、20願を解説されたものということです。

(参照)
白道の意味さえ知らない高森会長

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2012年8月18日 (土)

一口問答(白道は自力か他力か1)

全国に無駄に会館を造り続けていますが、その目的は金集めです。
たとえば、会館建設費に1億円必要だとします。それを1億2千万円集めれば、2千万円はこれまでの借金返済、会の運営費に充てられます。
古い会員は正本堂などで、相当の財産をすでに差し出しており、財産はほとんど残っていませんが、新しい会員は財産を持っています。それを巻き上げる口実として、会員の地元に会館を建設することを考え付いたのです。富山の会館よりも地元の会館の方が、会員の関心は高く、多額のお金を出す傾向がありますから、会館建設ラッシュとなっているだけのことです。

さて、財施を強要する際の話として「白道」を持ち出すこともよくあります。もちろん、「白道」は煩悩と戦う求道心として説明します。次回の「ひと口問答」で、「白道」の根拠を出してくるかどうかは疑問ですが、従来通りであれば、高森会長の妄想が根拠です。それで、まずは高森会長の妄想から始めます。

問い

白道」の中間で三定死になり、三定死の後は「白道」が無碍の大道に変わると教えられていますから、「白道」は求道心あるいは聞法心に決まっているではないですか。

答え

善導大師の『観無量寿経疏』、あるいは『教行信証』信巻にある二河白道の譬えを読んだことがないのですか。
三定死は、「白道」に乗る前ですよ。三定死の後も、「白道」は幅四、五寸のままです。
勝手に話を創作しないで下さい。
自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人でしたよね。

(参照)
法論を怖れる「群賊」

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2012年8月17日 (金)

「自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人か」だそうです

顕真8月号に、東本願寺(真宗大谷派)の近代教学を痛烈に批判した論説があります。「進むべきは親鸞学徒の本道」と題して東本願寺の月刊誌『ともしび』平成23年4月号の

「親鸞聖人を宗祖とするということは、決して聖人の言葉を金科玉条とするということではありません」

等を引用して、東本願寺が、親鸞聖人のお言葉通りに解釈していないことを述べています。
この後に『御一代記聞書』

前々住上人(蓮如上人)へある人申され候ふ。開山の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

を紹介しながら、結論として

「私はそう思わない」
「私には合わない」
「これだけでは足りない」

などと、自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人は、善知識方よりも優れた人か。蓮如上人のお言葉に、深く懺悔しなければならぬ。
 我々親鸞学徒もまた、自分の「考え」「計らい」「判断」を、決して混在させてはならない。進むべきは親鸞学徒の本道である。

と書いています。

当ブログの読者の皆さんなら、私の言いたいことはお判りだと思います。
親鸞聖人のお言葉通りではない、自身の思いが正しいことを大前提にお聖教のご文を解釈する人自分の「考え」「計らい」「判断」を混在しまくっているのが、他ならぬ高森顕徹会長です。

高森会長の言うことが、親鸞聖人のお言葉と違うのではないか、と会員が講師部員に尋ねると、

親鸞聖人のお言葉を額面通り受け取ってはいけない、高森先生の仰ることが正しい解釈だ

とお決まりの答えが返ってくることからも、否定しようのない事実です。

親鸞聖人の仰せと高森会長の言うことが明白に異なる点を

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

と10項目に絞って、親鸞会と私との間で、間接的に法論が成立しています。
4番目まで、親鸞会から自分の「考え」「計らい」「判断」を混在させた反論があり、皆さんにも紹介してきました。

これをまとめたものが、

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

です。

進むべきは親鸞学徒の本道

と本気で思っているなら、看過できない内容です。そして

自分の「考え」「計らい」「判断」を、決して混在させてはならない

のなら、高森会長から離れる筈です。

なお、東本願寺を通して、弘宣局長が、高森会長と親鸞会教学を暗に非難しているなら、見直しますよ。

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2012年8月14日 (火)

顕真8月号「ひと口問答4」

待ちに待った顕真8月号の「ひと口問答4」は、以下です。
どんな根拠を出してくるかと楽しみにしていたのに、余りにも余りにも酷い言い訳だけでした。こんな問答なら書かない方がましだと思うのですが、そこまで考える能力も欠落してしまったようです。

問い

親鸞聖人は
念仏一つで助かる。獲信には善は不要
と仰っているのに、
善をしなければ獲信できない
というのは間違いだ
という人がありますが、如何でしょうか。

答え

親鸞聖人は信心一つで助かると言われています。獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。
「捨てよ」と「不要」との違いは、「ハケ」と「ハゲ」の読み違いどころではありません。毛の有るのと無いのとは、全く逆で大違いだからです。注意しなければなりません。

この反論は

一口問答(獲信に善は必要か5)

一口問答(獲信に善は必要か6)

です。

親鸞会は、後出しジャンケンでも勝てないのです。

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2012年8月11日 (土)

一口問答(獲信に善は必要か18)

一口問答に”因果の道理”も加えておきます。

問い

仏教の根幹は因果の道理だから、「善因善果、悪因悪果、自因自果」を信じて、光に向かって進まなければ救われません。

答え

あなたの言われているのは化土の因果です。罪福の因果を信じて善をするのを散善といいます。しかしそんな人は、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる」(正像末和讃)と、化土にしか往けないと厳しく誡められています。
親鸞聖人が教えられたのは、「報土の因果」(正信偈)です。法蔵菩薩の兆載永劫の修行による功徳を十方衆生が受け取って報土往生する、高森会長の言う他因自果を、「仏智の不思議」と教えられているのです。

(参照)
罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて

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2012年8月10日 (金)

罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて

今年の追悼法要は、昨年の追悼法要をビデオで流しただけです。その内容は高森会長の”因果の道理”についてでした。最近は、この”因果の道理”について、何かの一つ覚えでやたら強調されています。
しかし、この高森会長の”因果の道理”がどんなものか、高森会長も講師部員も知る由もないでしょう。

『観無量寿経』にはこのようにあります。

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす

つまり、「深く因果を信じ」ることを散善三福の中の行福と教えられています。
また

上品中生といふは、かならずしも方等経典を受持し読誦せざれども、よく義趣を解り、第一義において心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗らず。

上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗らず。

と「上品中生」「上品下生」のところでも説かれています。
上品下生」の「また因果を信じ」について『散善義』では

所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。 もし深く生死の苦を信ずるものは、罪業畢竟じてかさねて犯さず。 もし深く浄土無為の楽を信ずるものは、善心一たび発りて永く退失することなし。

(現代語訳)

因果を信ずることが定まらないことを明かす。すなわち、あるいは信じたり、あるいは信じないから、「亦」というのである。あるいは、亦た、上品中生に出る「深く因果を信ず」に同じといってもよい。亦た、信ずるといっても深くなくて、善心がしばしば退いて、悪い行いがしばしば起こる。これは、深く苦楽の因果を信じないからである。もし深く迷いの苦を信ずるならば、罪業を、ついに重ねては犯さない。もし深く浄土のさとりの楽しみを信ずるならば、善心一たび起こって、長く退失することがない。

と善導大師は教えられています。”因果の道理”を浅く信じていることも行福にあたるということです。

つまり、”因果の道理”を信じるように勧めることが、散善を勧めることになるのです。

したがって、親鸞聖人が高森会長の”因果の道理”を信じるように勧められたのではありません。

『正像末和讃』誡疑讃

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

と仰って、「罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて」なのです。”因果の道理”を信じている親鸞会会員は、阿弥陀仏のお力を疑っている罪を造っているのです。それでこの後に

仏智うたがふつみふかし
 この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

とも教えられて、厳しく誡められています。なぜなら、親鸞会で教える”因果の道理”は、仏智不思議と反するからです。親鸞聖人が教えられたのは”因果の道理”ではなく本願力回向なのです。本願力回向とは、大乗仏教の空に基づいた”因果の道理”です。高森会長の言っている”因果の道理”とは、全く違います。以前にも

会員は、「本願力回向」を疑っているから救われない

で述べました。

それならば、悪をしまくりでよいというのか

と親鸞会は反論するでしょうが、造悪無碍の発想しかでてこないところが、外道だというのです。

はっきり言っておきます。高森会長の言うことは何から何まで真宗教義に完全に反しているのですから、高森会長の話を正しく聞いて救われることはあり得ません。高森会長の話を聞き間違って逆に理解する芸当ができるなら、救われる可能性はあります。

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2012年8月 7日 (火)

意専心にして回すると回せざるとにあり

会員追悼法要という重大行事を高森会長はドタキャンしています。青年大会もそうでしたが、その際に、
もう話ができなくなってきたのかもしれません
と書いたところ、意地になってその後座談会をしたりしてきましたが、やはり無理なのでしょう。いつものことながら、講師部員にさえもドタキャンの理由は知らされていません。
高森会長が会員の後生を常に念じている、ということが妄想であるのは、この一事を以ってしても判ります。

さて、顕真8月号待ちということで、一口問答は少し休みます。

関連したことで、会員も退会者も、一番知りたいことは、

阿弥陀仏に救われるには、どうすればいいのか

でしょうが、それは必堕無間の自己に驚きがたつことでもなければ、絶対の幸福という空想を目指すことでもありません。

善導大師の『般舟讃』を『教行信証』化土巻
に引かれて

ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。

(現代語訳)

ただ嘆かわしいことは、衆生が疑ってはならないことを疑うことである。浄土はわたしたちの前にあって何ものも拒むことなく受け入れてくださる。阿弥陀仏がお救いくださるかどうかを論じる必要はない。ただ、わたしたちがひとすじに浄土に往生しようと願うかどうかによるのである。

と親鸞聖人は教えられています。
浄土往生を願うかどうかです。もちろん、これが信心ということですが、「弥陀の摂と不摂とを論ずること」さえも不要なのですから、善が必要かどうかなど、全く問題ではありません。
別の表現で言われることもありますが、ここでは

意専心にして回すると回せざるとにあり

と明確に教えられています。

18願なら「欲生我国」、

18願成就文なら「願生彼国」です。

これ以外に方法論は何もないのです。

逆に言えば、浄土を願わない会員には、阿弥陀仏の救いは無関係ということです。

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2012年8月 4日 (土)

一口問答(獲信に善は必要か17)

問い

心の底では、真実の善ができると自惚れていますので、善を実践することで雑毒の善しかできないと知らされるのです。

答え

雑毒の善ができるならば、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と解説なされているところの逆悪の機、悪人ではありません。もちろん逆謗の機、極重の悪人でもありません。
我々は、雑毒の善ができないのにできると自惚れている悪人なのか、雑毒の善ができる定散諸機の善人なのか、どちらなのですか。
なお親鸞聖人は、「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」(教行信証化土巻)と仰っています。定散諸機も極重の悪人も、善ができてもできなくても、自惚れていてもいなくいなくても、ただ弥陀を称せよ、としか教えられていません。

(参照)
「定散の諸機」「極重悪人」と「機の深信」

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2012年8月 3日 (金)

一口問答(獲信に善は必要か16)

問い

私たちは善ができると自惚れているから、実際に善をやってみて善のできない者と知らされる必要があるのです。

答え

完全に破綻した論理です。たとえば、全財産を財施して知らされることは、全財産を財施することができた、という事実です。財施をして財施のできない者と知らされることなど永遠にありません。
親鸞聖人が自惚れていると仰ったのは、「この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。」(教行信証信巻)とあるように、諸善を実践して報土往生できる、と自惚れている人のことです。
法蔵菩薩と同じ善をしなければ同じ報土にはいけませんが、法蔵菩薩と同じ善ができないと思う人が親鸞聖人の教えを聞いているのです。もし法蔵菩薩と同じ善ができると本気で思っているなら、親鸞聖人の教えを否定するでしょう。

(参照)
会員との問答(一向と雑行について)

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2012年8月 2日 (木)

一口問答(獲信に善は必要か15)

問い

善をしなくてもいいのなら、悪をすれば救われるのですか。

答え

親鸞会らしい短絡的な考え方です。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』に、「下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。」とあります。五逆の者が臨終の心の籠らない念仏で往生できるのは、衆生の願と行によるのではなく、法蔵菩薩の五劫思惟の願と兆載永劫の行によるからだ、ということです。
善をすれば」も「悪をすれば」も、自分の願行を加えなければ、阿弥陀仏は救ってくださらない、と仏智を疑っているのですから、救われる筈がないです。

(参照)
下品下生の往生さえ知らない高森会長

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2012年8月 1日 (水)

一口問答(獲信に善は必要か14)

問い

それではまるで、善をすることは獲信の遠回りになるみたいではないですか。

答え

よく判りましたね。「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(歎異抄)は、善に拘っている善人(定散諸機)でさえ往生できるのだから、ましていわんや善に拘らない悪人(逆悪の機)はなおさら往生できる、ということです。
親鸞聖人の直のお言葉では、「三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。」(教行信証信巻)です。19願、定散二善では報土往生できず化土往生となり、迂回の善だ、ということです。

(参照)
「他の方便なし」とは、「迂回の善」なし

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一口問答(獲信に善は必要か13)

問い

蓮如上人は、「雑行を捨てよ」、と繰り返し仰っています。雑行をしていない者に対して、「雑行を捨てよ」、とは仰っていないから、雑行である善を勧められていることになるでしょう。

答え

あなたの理屈なら、雑行である五雑行をしていない者はまず五雑行をせよ、ということですね。
「タバコを吸うな」と言われて、タバコを吸っていない人が、タバコを吸ってから止める、「自殺は絶対に止めましょう」と言われて、自殺をしたことがない人は、自殺をしてから止める、という馬鹿な発想をする人はいません。
雑行をしていない人に対してはまず雑行をせよ、と仰ったお言葉はありますか。

(参照)
『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り26

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