高森会長は教義についても会員を騙してきたのか?
高森会長は教義についても会員を騙してきたのか、と尋ねられることがあります。これに対する返答は、微妙です。なぜなら、高森会長が間違った教義を正しいと本気で信じて、それを会員に伝えているところもあったからです。
たとえば、二河白道の譬えなどは少しでも真宗学を学べば、信後の話と簡単に判るのですが、それを信前と説いているのは、”騙した”というよりも”知らなかった”ということでしょう。それは、高森会長がこれまで二河白道の譬えを信後のこととして説明したことが無いことからも判ります。
正しくは信後の譬えではあるが、信前の求道としても当てはまる
というような前置きがあるのなら別ですが、そんな説明を一度も聞いたことがありませんので、高森会長自身が”知らなかった”のです。
他のことについてもそうです。”無常の虎”の話も『仏説譬喩経』の内容を全く”知らなかった”から、あのような話が何の迷いもなくできるのです。
つまり、教義においては、”騙した”部分よりも”知らなかった”部分の方がかなり多いと推察できます。そういう意味では、高森会長は会員を”騙した”のではない、と言えるのかもしれません。
ただし、無知を隠して無二の善知識を演じてきたことに関しては、間違いなく”騙した”のです。もちろん教義以外のことについては、説明するまでもないでしょう。
では、無知の善知識の現在はどうでしょうか?
教義についての無知を散々指摘され、全部は理解できないにしても、聖教のどこをどう読んでも高森会長の言ってきたことが歴代の善知識方とは真逆であったことをそれなりに自覚しながら、無知による誤りを認めず訂正もしないのは、最早”知らない”ではなく”騙している”になります。
講師部員も同じです。以前は高森会長の言うことが歴代の善知識方の仰せと同じ、と信じ切っていたとしても、今は文面上明らかに異なっている、と判っているのですから、講師部員も”知らない”ではなく”騙している”のです。
無間業の謗法罪だ、必堕無間だ、因果の道理は大宇宙の真理だ、とやかましい割には、高森会長も講師部員も積極的に謗法罪を造っているのですから、高森会長・講師部員の言動の全てが嘘だということです。はっきり言えば、彼らにとっては仏教などどうでもいいのでしょう。「白道」の他力信心とは、似ても似つかない絶対の幸福などと言う貪欲の人参を、会員の目の前に吊るして、金集め人集めがしたいだけなのです。
曇鸞大師・親鸞聖人のお言葉を信じる気のない謗法の者に何を言っても無駄でしょうが『教行信証』信巻に引かれた『浄土論註』に、
問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。(現代語訳)
問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。
とある通りです。
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