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2012年7月27日 (金)

一口問答(獲信に善は必要か5)

問い

善を勧められたのが仏教ですから、悪人に対しても善を勧められているに決まっているではないですか。たとえどんな極悪人であってでも、獲信のために善が不要などという根拠があろうはずがないでしょう。

答え

極重悪人唯称仏」(正信偈)も知らないのですか。この元は源信僧都の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)です。また蓮如上人も「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり」(正信偈大意)と教えられています。極重の悪人は、念仏以外の方便(善)はない、唯念仏して極楽に往生できるのだ、ということですが、善知識方の仰せを否定するのですか。
難しい聖教は読めなくても、『正信偈』くらいは読んでおいてください。

(参照)
善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

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一口問答」カテゴリの記事

コメント

現会員の皆さんは『歎異抄』第二条をどう読んでいるのでしょうか?また、それを描いている会のアニメも。「善をしなければ…」なんてことを真に受けて会で言うところの「善」(その実態は会への献金、偽装勧誘などおよそ“善”とは言い難い)に励んでいる人達は何を思っているのでしょうか?…とは言っても、私自身が会員だった頃も「宿善を積んで(会長が黒板に書く)横の線を進む」ことと、「ただ念仏して」とは矛盾しないか、なんてこと思いつきもしなかったので、なかなか気づくのは難しいのかもしれません。親鸞聖人は「善をして救われた」なんて一言も仰っていないし、覚如上人も『口伝鈔』で「たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。」と仰っているのですが(当然のことでしょうが会ではこのくだりは聞いたことがありません)。当時の私自身もそして現会員の方々も、いかに聖教を読んでいないか、ということでしょう。今となっては、何故もっと早く気がつかなかったのかと自分の浅薄を悔やんでいます。

投稿: あずきあらい | 2012年7月28日 (土) 00時48分

関係ない話かもしれませんが書き込みをお許しください。

飛雲様、また並びに退会された皆さま方へお祝い申し上げます。
高森会敗北逃走記念書き込みです。

某会長は本願を解説するとき仏覚を捨てるとかいったり、仏の悟りを担保にしていると言っていたと思います。

しかし捨てるならば、獲信していない人にとっては未だに悟りを捨てずに成仏しているというのは助けるつもりがないということになる気がします。また、こんなことでは救われるのか救われないのかわからないままなのですが、救われずに死んだら仏覚を捨てて菩薩からやり直しなら、本願を建てるところからおかしかったわけになってしまいます。本願の建て直しをしなければならない如来を誰が信じられましょう。

多分、仏覚を賭けているんだから命と引き換えに金と人生を捧げろと、本音は言いたいのでしょう。まさに俗物よのう。

一方で担保ならば、獲信しない人は、つまり仏が救えず衆生に渡さなければならない担保である仏覚が手に入りますから、自力求道なんてやめて遊べばいい、となります。十方衆生が相手なので、信心決定しようがしまいが、皆さん死んだら仏となってしまいます。本願寺の悪口も聞く必要がなくなりますね。富山へも行く必要もなくなり会の活動もする必要がなくなりお金も納める必要もなくなり随分楽になりますね。会に納めたお骨も取り返すといいでしょう。お寺より高いお布施する必要もなくなり生活が潤いますね。

平成24年度に高森親鸞会には爆散されますことを今か今かと心からお待ちしております。


あともう一つ失礼します。

安心問答で仏具に鷹か鷲のマークが入ったものを販売し始めたことが載っていたと思いますが、今さらわかったことがあります。殺生を戒める仏教団体の象徴に、仏国土を表す仏壇仏具に、肉食獣をマーキングしているんですよね。なんで気がつかなかったのかと自分でも情けなく思いますが、講師は眼光鋭く衆生の迷いを切り裂くためとか言っていたような気がしますが、肉食動物は違いますね。摂取不捨の利益を知らないものがこんなマークを称賛するのでしょうね。

信心の沙汰ならすると言っていながらわめき散らして争いを吹っ掛けておいて逃亡する上に守りに入ったようです。

浄土真宗にあらず、親鸞聖人の教えにあらざる団体を糾弾される全ての方々を毎日かげながら応援させて頂いております。

投稿: 廃棄物 | 2012年7月28日 (土) 00時49分

仏教で善が勧められているのは当たり前ですが、獲信のための善と、獲信のためではない善が違うと解れば、会の論法は成り立たないことがハッキリします。
親鸞聖人が、獲信のために善は不要と仰っていることは明白です。
六度万行が1つもできない悪人でも、念仏ひとつで助けるのが弥陀の18願の御心でしたね。
念仏称えた位で助かるわけがなかろうと疑謗を続けているのが親鸞会教義でした。

投稿: | 2012年7月28日 (土) 13時57分

あずきあらい 様

会員も、そして会長自身が聖教を読んでいませんので、とにかく無茶苦茶な教義理解がまかり通ってきたのです。


廃棄物 様

>平成24年度に高森親鸞会には爆散されますことを今か今かと心からお待ちしております。

私も退会者も、同じ気持ちです。応援宜しくお願い致します。


名無し 様

当たり前のことが通じない、それが親鸞会です。

投稿: 飛雲 | 2012年7月28日 (土) 21時15分

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