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2012年7月

2012年7月31日 (火)

一口問答(獲信に善は必要か12)

問い

親鸞聖人は、19願の「十方衆生」に漏れている者がいるとまでは仰っていないではないですか。

答え

前にも紹介しました「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)に、「臨終現前の願」の対機は「定散諸機」と仰ってますよ。「逆悪の機」は漏れていますが。

(参照)
古文が読めないのに、適当に出す御文で自らの首を絞める親鸞会

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一口問答(獲信に善は必要か11)

ペースを上げて更新していますが、これは顕真8月号の原稿締め切りに間に合わせるためです。後出しジャンケンできるお膳立てのためですから、ご了承ください。

問い

釈尊が仰った「十方衆生」の話ではなく、本師本仏の阿弥陀仏が仰った「十方衆生」の話をしているのです。阿弥陀仏が19願で全ての人と誓われたのが、間違いだというのですか。

答え

間違いです。親鸞聖人は18願の「唯除五逆誹謗正法」について「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられました。18願には「唯除五逆誹謗正法」とあるから、「十方一切の衆生みなもれず」なんだと。つまり「唯除五逆誹謗正法」のない19願は、「十方一切の衆生みなもれず」ではないということです。

(参照)
「十方衆生」の意味

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2012年7月30日 (月)

一口問答(獲信に善は必要か10)

問い

19願に「十方衆生」と誓われているのだから、善が阿弥陀仏の救いと関係がない筈がないでしょう。

答え

十方衆生」とあるからすべての人に関係がある、という単純思考でしょうが、「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。
あなたの理屈なら、聖道門もすべての人に関係がある筈です。まずは聖道門からはじめるべきですね。

(参照)
「十方衆生」の意味

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一口問答(獲信に善は必要か9)

問い

親鸞聖人は、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。(中略)この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ」(一念多念証文)と仰っているように、すべての人に「浄土の方便の善」を勧められているのではないですか。

答え

全く逆です。「浄土の方便の善」「要門・仮門」より「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るように教え勧められた、ということです。もちろん、「浄土の方便の善」「要門・仮門」に迷っている人に対してです。「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」である18願を願い求めている人に、「浄土の方便の善」「要門・仮門」を勧められたという解釈は、どこの世界の文法を使っているのでしょうか。

(参照)
古文が読めないのに、適当に出す御文で自らの首を絞める親鸞会

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2012年7月29日 (日)

一口問答(獲信に善は必要か8)

問い

諸仏方が教えられていることを簡潔にまとめられたのが、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(七仏通誡偈)です。諸仏方が善を勧めておられるのに、それを否定するのですか。

答え

あなたの主張は、比叡山が法然上人を非難した内容そのままです。実際、『延暦寺奏状』には七仏通誡偈が出ています。
親鸞聖人はそれに真っ向から反論されていますが、御存知ないのですか。
親鸞聖人は念仏と諸善とを比較なされて諸仏方の教えを「勧無勧対」(教行信証行巻)と断言なされました。念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない、ということです。
さて、あなたは比叡山の主張と親鸞聖人の仰せと、どちらを信じるのですか。

(参照)
親鸞会の”善の勧め”を完全に否定されているのが親鸞聖人

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一口問答(獲信に善は必要か7)

問い

蓮如上人は、「方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ」(御一代記聞書)と仰っているように、方便からしか真実に入れず、でしょう。それなのに、念仏が方便とは呆れます。

答え

方便の理解が根本的におかしいですね。蓮如上人が仰っていることは、権仮方便を捨て善巧方便を立て、善巧方便によって真実の信を獲られる、ということです。
善巧方便とは、「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」(十住毘婆沙論)とあるように、18願他力念仏のことです。親鸞聖人も18願他力念仏について解説なされた『教行信証』信巻で「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と仰ってます。
権仮方便とは、「浄土の要門、方便権仮を顕開す」(教行信証化土巻)とあるように、19願定散二善のことです。
あなたの言葉を正しく修正するなら、善巧方便の念仏からしか真実報土には往けず、ということです。

(参照)
悪意に満ち溢れた曲解

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2012年7月28日 (土)

一口問答(獲信に善は必要か6)

問い

極重悪人唯称仏」(正信偈)とは、救われたならば念仏だけということで、そこまで導く善は必要です。『歎異抄』の「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」と同じことで、真宗の学者が誰も反論できない『歎異抄をひらく』には、
弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである
と解説されていますよ。

答え

ここだけで、高森会長が阿弥陀仏の救いに極めて疎い人物と判ります。
悪人である下品の往生について法然上人は判りやすく、「この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。」(選択本願念仏集)、と解説なされています。この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って善もせず浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇って往生を得る、ということです。救われるまでに善は不要ということが、「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」です。
真宗の学者から「われらの相手に非ず」と失笑されていることを知りましょう。

(参照)
善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

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2012年7月27日 (金)

一口問答(獲信に善は必要か5)

問い

善を勧められたのが仏教ですから、悪人に対しても善を勧められているに決まっているではないですか。たとえどんな極悪人であってでも、獲信のために善が不要などという根拠があろうはずがないでしょう。

答え

極重悪人唯称仏」(正信偈)も知らないのですか。この元は源信僧都の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)です。また蓮如上人も「極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり」(正信偈大意)と教えられています。極重の悪人は、念仏以外の方便(善)はない、唯念仏して極楽に往生できるのだ、ということですが、善知識方の仰せを否定するのですか。
難しい聖教は読めなくても、『正信偈』くらいは読んでおいてください。

(参照)
善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

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2012年7月26日 (木)

一口問答(獲信に善は必要か4)

問い

善導大師は『観無量寿経』について、「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」(観無量寿経疏)と仰っています。聖人という善人ではなく、凡夫という悪人のために定散二善を説かれた、と明言されているではないですか。

答え

善人、悪人の定義については以前に示した通りですが、善導大師が「凡夫のためにして」と仰った意味は、「いまの時の善悪の凡夫」(観無量寿経疏)です。凡夫=悪凡夫ではありません。凡夫=善凡夫+悪凡夫です。
善凡夫に善を説かれ、悪凡夫に念仏を勧められた、ということを法然上人、親鸞聖人、存覚上人のお言葉を示して説明してきましたが、まだ判らないのですか。

(参照)
当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」

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2012年7月25日 (水)

一口問答(獲信に善は必要か3)

本願寺から「われらの相手に非ず」と無視された親鸞会が、退会者との法論に全戦全敗で逃亡の末、法論をした相手を「われらの相手に非ず」と言っているようです。教学は三流でも、ギャグのセンスは超一流のようです。

問い

しかし、釈尊は心想羸劣の韋提希に定善を勧められているではないですか。韋提希は定善をやってみて、善のできないことが知らされて救われたのではないですか。

答え

勧められたのではありません。韋提希が「もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」(観無量寿経)、と釈尊に請うたから釈尊が定善を説かれたのです。これを善導大師は「定善の一門は韋提の致請にして」(観無量寿経疏)と教えられました。
大体、定善をやってできなかったからといって、定善よりも簡単な散善さえもできないと知らされる筈がないでしょう。微分積分の問題が解けなかったら、足し算の問題も解けないと知らされますか。

(参照)
M講師からの反論-三願転入の教え

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2012年7月24日 (火)

一口問答(獲信に善は必要か2)

問い

定散諸機をすすめけり」であって、「定散諸機にすすめけり」ではありません。「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機になるように勧められた、ということで、獲信のために全ての人に善を勧められたのではないですか。

答え

同じ『浄土和讃』に「至心・信楽・欲生と 十方諸有をすすめてぞ」とあります。あなたの理屈ならば、十方諸有になるように勧められた、となりますが、よろしいですか。まずは古文の勉強をしましょう。
なお、下輩である逆悪の機について善導大師は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(観無量寿経疏)と定義されています。「善根あることなし」ですから、定散諸機になれない者が逆悪の機です。

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2012年7月23日 (月)

一口問答(獲信に善は必要か1)

親鸞会が先に書いたことに対して非難をするのは、後出しジャンケンのようで卑怯だ、という負け惜しみを言った会員がかつていましたが、今では顕真の「ひと口問答」が出る前に、こちらでその内容を想定して先に書いています。
親鸞会が後出しジャンケンをいくらでできるようにお膳立てしています。ただし、それで法論に勝てるとでも思っているのならお目出度いことですが。

問い

親鸞聖人は、「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)と仰っています。釈尊は『観無量寿経』を通して、獲信のために諸善を全ての人に勧められている、と親鸞聖人は教えられているではないですか。

答え

しっかり読んでください。「定散諸機をすすめけり」です。定散諸機に対して諸善を勧められた、と仰っているのですが、何を勘違いしているのですか。何度も言ってきたように、逆悪の機に対する定散諸機です。
法然上人の「善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て」(勅修御伝)、存覚上人の「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と同じことを親鸞聖人が仰った根拠です。

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2012年7月20日 (金)

顕真7月号「ひと口問答3」

皆さん、大変お待たせをしました。顕真7月号「ひと口問答3」は以下です。

問い

親鸞聖人は善人と悪人がいると仰っているのに、すべての人は悪人というのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に断言されています。「一切の群生海」とは、すべての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは悪人ということです。
 善人は一人もいないと仰っています。
 これは親鸞聖人の一貫して変わらぬ人間観で、世に轟いていることです。

すでに一口問答(善人悪人5) で想定した通りです。

高森会長はともかく、あれだけの頭脳集団(?)がいても、この程度の知恵なのでしょう。

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2012年7月19日 (木)

「親鸞聖人の仰せと違った高森会長の話を聞いていても実害はないでしょ」は本当?

親鸞会の会員にもいろいろな人がいます。外部情報を全く知らず、親鸞聖人の仰ったことと高森会長の言っていることは、完全に一致している、と思っている人もいるでしょう。外部情報を得て、高森会長の言っていることは親鸞聖人の仰せと違う、と知っていても、高森会長を信じている会員もいます。あるいは、高森会長の言っていることは完全におかしいことに気が付き、ある目的をもって反親鸞会の意思を隠して会に留まっている人もいます。また、教えに興味がなく、仲間が欲しいだけの人も意外と多いようです。

1番目の人には、なんとか気が付いてもらいたいと思っています。
3番目の人には、その立場で頑張ってもらえばいいでしょう。
4番目の人は、難しいかもしれませんが、他で仲間を造ってもらいたいと思います。
問題は2番目の人です。講師部員をはじめとして、それなりの数の人がここに属していますが、土蔵秘事の信者と何ら変わりはありません。聖道門の教えを否定し、念仏を軽視して貶めることが、どんな行為か判っていないのです。

聖道門の教えを否定したら、阿弥陀仏の否定にもなります。なぜなら、阿弥陀仏は聖道門の教えに従って兆載永劫の修行をなされたと、真実の経典と自分たちも言っている『大無量寿経』に説かれているのですから。
聖教に反する秘事法門を信じている人については、『御文章』2帖目第14通

それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。

と教えられていますが、自分たちのことです。
親鸞聖人はさらに厳しく『浄土和讃』

衆生有碍のさとりにて
 無碍の仏智をうたがへば
 曾婆羅頻陀羅地獄にて
 多劫衆苦にしづむなり

と教えられています。「無碍の仏智」について説かれた経典及び善知識方の仰せに反して、こうしなければ救われない、と勝手な計らいで造り上げた高森会長信心は「衆生有碍のさとり」です。そんな会員は、無間地獄よりも更に苦しい「曾婆羅頻陀羅地獄にて 多劫衆苦にしづむなり」なのです。

真宗を信じているつもりであるなら、他の人は「必堕無間」ではないけれども、高森会長信心の会員が「必堕無間」「必堕曾婆羅頻陀羅」なのです。
会員でいても実害はないだろう、その考えが、「必堕無間」「必堕曾婆羅頻陀羅」です。
よくよく考えてもらいたいものです。
真宗ではない、というなら、親鸞聖人、蓮如上人のお言葉は耳に入らないでしょうが。

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2012年7月17日 (火)

親鸞会は仏教か?

一口問答は、書き出すとキリがありません。
これらの問いは、高森会長・講師部員・会員と法論をする中で親鸞会側が言ってきたものばかりです。驚くような問いも含まれているかもしれませんが、親鸞会ではこのような驚くべき理屈がまかり通っているのです。
親鸞会はこれまで、東西本願寺・華光会を親鸞会独特の教義をもって、徹底的に攻撃してきました。相手の主張を捏造・改竄・断章取義するなど、日常茶飯事でしたが、聖教上の根拠まで捏造・改竄・断章取義しているとは、普通は考えられないことです。それをして、”法論に勝った”と宣伝し続けて、無二の善知識が創り上げられた訳です。

しかし、その法論のトリックを暴くと、実に脆いものです。親鸞会は何も言い返すことができません。なぜなら、会長自身、聖教を全く読んでいないからです。”不当な攻撃を受けている”、と被害者を装って誤魔化すのが精一杯です。
ところが、多くの会員は、ネットなどの情報を得て、親鸞会のトリックにも薄々気が付いているのです。ネットの情報を得ていなくても、60年間の教義を修正してきていることは、会員歴の長い人なら気が付いている筈です。

従いまして、高森会長のことを無二の善知識だ、と未だに信じている会員は、意外と少ないのかもしれません。実際、サークル活動として考えている会員も多いと聞いています。

さて、親鸞会は仏教といえるのかどうかです。仏教の目的は、成仏であり、真宗ならば浄土往生といってもいいです。この超常識的なことを高森会長は60年間言ってきませんでした。それが最近になって、形の上ではようやくこのように言うようになりました。後生の一大事の意味も、必堕無間一辺倒から、浄土往生の意味もあると一応は修正してきています。しかし、会員は成仏を目指していませんし、浄土往生を願ってはいません。なぜなら、成仏浄土ということを高森会長が全然理解していませんし、もちろん説いてもいないからです。

会員は化土往生ですか、とよく聞かれますが、絶対の幸福とか空想の世界を目指している大多数の会員には、関係ない話です。親鸞会は仏教になっていないのです。「真仮の門戸を知らず」以前の問題です。

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2012年7月14日 (土)

一口問答(善人悪人14)

問い

全人類は真実を見る目も聞く耳も持たない無眼人・無耳人と教えられていますから、広い意味で、全人類は悪人ということでしょう。

答え

不勉強にも程があります。『安楽集』に釈尊のお言葉を引用されて、「このゆゑにわれ説く、<無量寿仏国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ>と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく」とあります。浄土往生を疑って、外道を信じているような人のことを無眼人・無耳人と釈尊が名づけられた、ということです。
親鸞聖人も「大聖易往とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば 無眼人とぞなづけたる 無耳人とぞのべたまふ」(浄土和讃)と仰っています。
無智を自覚しましょう。

(参照)
「凡夫の浅智」以前に無智なんですよ

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2012年7月13日 (金)

一口問答(善人悪人13)

問い

善導大師がどう仰ったかは知りませんが、七高僧の教えは、親鸞聖人を通して理解すべきです。親鸞聖人は末法に善人がいるとは認められていないのではないですか。

答え

承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』には、「智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや」とあり、末法でも智覚禅師のように上品上生の往生を遂げることができるではないか、と法然上人を非難しました。これについては、法然上人も親鸞聖人も、智覚禅師が上品上生の善人であることを認められています。
親鸞聖人のお言葉では、「禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。」(教行信証信巻)とあります。『正信偈』のお言葉を使うなら、智覚禅師は「定散与逆悪」の定散の機、「善悪凡夫」の善凡夫ということです。

(参照)
「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長

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2012年7月12日 (木)

一口問答(善人悪人12)

問い

聖道門の修行のできる善人が、釈尊在世・正法及び像法の時に存在したことは判りましたが、末法以後に限定すれば、善人はいない、全人類は悪人ということではないですか。

答え

末法の善導大師は、「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す」(往生礼讃)と御自身のことを仰っています。聖道門の教えに従って善をしてきたけれども、その善根が薄少であって、出離できない凡夫、ということです。善導大師は、御自身を善根薄少の善凡夫と嘆かれたのであって、無善の悪凡夫と告白されたのではありません。実際、「この定かならずすなはち得やすし」(観無量寿経疏)と、善導大師にとって定善をすることは容易だ、と仰っています。
聖者でなければ悪人だというのは、論理が飛躍しています。

(参照)
「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」

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2012年7月11日 (水)

一口問答(善人悪人11)

問い

しかし、親鸞聖人は「聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず」(教行信証化土巻)と聖道門を非難されているではないですか。

答え

聖道門の教えを否定されたのではなく、聖道門が時代とその衆生の機に相応していないことも知らず、法然門下を弾圧したことに対して非難されたのです。
また「聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。 」(教行信証化土巻)とも仰っています。聖道門は釈尊在世と正法の時代のための教えであって、像法・末法・法滅の時代とその衆生のためのものではないが、浄土の真宗は時代に関係なく、煩悩に穢れた衆生ための教え、ということです。

(参照)
会員との問答(聖道門の修行について)

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2012年7月10日 (火)

一口問答(善人悪人10)

問い

法然上人は大原問答で、聖道門の教えを否定されたのではないですか。

答え

法然上人は大原問答(大原談義)で、聖道門の教えを否定されたのではありません。
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、機根比べには、源空勝ちたりき。聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易し」(勅修御伝)とありますように、聖道門の教えは末法・法滅の時代とその衆生の機に合わないが、浄土門は末法・法滅であってでもその機に相応する、と仰って、聖道諸師も信伏したのです。

(参照)
無知と勘違いからくる親鸞会の傲慢さ

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2012年7月 9日 (月)

一口問答(善人悪人9)

問い

聖道門は方便の教えで、聖道門の修行ができる善人は、実際には誰もいないのではないですか。

答え

聖道門の教えを否定された善知識方はありません。龍樹菩薩は聖道門における諸善の実践によって初歓喜地まで至られて聖者となられていますが、それも否定するのですか。
善導大師は「わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。」(観無量寿経疏)と仰っています。自分と一緒に悪を断ち、菩薩の道を行じてきた法友の中で、大地を微塵にくだいたよりもなお多い方々が聖者となられた、ということです。

(参照)
無知と勘違いからくる親鸞会の傲慢さ

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2012年7月 8日 (日)

一口問答(善人悪人8)

問い

善人に対して説かれた教えと悪人に対して説かれた教えが違うというのですか。

答え

釈尊は機に応じて法を説かれたのですから、違います。これを対機説法、応病与薬といいます。存覚上人が「如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と教えられた通りです。「上根の機には諸行を授け」、つまり善人には諸善を説かれ、「下根の機には念仏をすすむ」、つまり悪人には念仏を勧められたということです。
下根の機に諸行をすすむ」と頓珍漢なことを言っているのが、高森会長です。

(参照)
対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」

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2012年7月 7日 (土)

一口問答(善人悪人7)

親鸞会は、何十万円も払って外部業者にSEO対策を依頼している一方で、当ブログの宣伝を無償でしてくれています。実に有難いことです。

問い

善人が存在するかどうかという机上の空論よりも、私たちは悪人なんだから、悪人として仏教を求めればいいのではないですか。

答え

善人を認められないから、おかしな理解をするのです。法然上人は「わが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」(勅修御伝)と判りやすく教えられました。
悪人が、善人に対して説かれた教えを自分に関係があることと誤解したなら、救われないということです。

(参照)
善人が存在しないとは、外道の主張か幼稚な発想

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2012年7月 6日 (金)

一口問答(善人悪人6)

直接的間接的に「飛雲」の名を出して、親鸞会が宣伝してくれるお陰で、「飛雲」で検索して当ブログを訪問する人が増えています。無二の善知識は、古文・現代文を読む能力だけでなく、先を読む能力が極めて劣っています。

問い

では、親鸞聖人は全人類のことをどう仰っているのですか。

答え

いくつかありますが、判りやすいのが『愚禿鈔』です。「二機とは、一には善機、二には悪機なり。」と大きく分けられて、「善機について二種あり。(中略)一には定機、二には散機なり。」と「また悪機について七種あり。一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。」とあります。
『正信偈』にある「定散与逆悪」「善悪凡夫」は、「定散」「善凡夫」が「善機」つまり善人のこと、「逆悪」「悪凡夫」が「悪機」つまり悪人のことです。
悪人しかいないと仰ったお言葉は皆無です。

(参照)
ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。

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2012年7月 5日 (木)

一口問答(善人悪人5)

問い

親鸞聖人は「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。」(教行信証信巻)と仰っているから、やっぱり全人類は悪人ということでしょう。

答え

以前にもいいましたが、これは全人類は煩悩に穢されていることを仰ったものです。親鸞会でも教えている通り、煩悩に穢された心で善を行っても「一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。」(教行信証信巻)と「雑毒の善」にしかならない、「真実の善」はできないということです。「真実の善」ができるのは仏です。「雑毒の善」しかできない人が善人です。「雑毒の善」さえもできない人が悪人です。

(参照)
心を重視する仏教、心を軽視する高森会長

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2012年7月 4日 (水)

一口問答(善人悪人4)

問い

悪人正機とは、全人類の正しい機様は悪人である、ということでしょう。

答え

違います。悪人正機ということについて法然上人、親鸞聖人の御相伝として「悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」(口伝鈔)と覚如上人は教えられています。
悪人正機とは、言い換えれば善人傍機のことです。当然ながら善人がいるということです。

(参照)
善人が存在しないとは、外道の主張か幼稚な発想

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2012年7月 3日 (火)

一口問答(善人悪人3)

問い

しかし、「極重悪人唯称仏」(正信偈)とありますから、親鸞聖人は全人類のことを「極重悪人」と仰っているではないですか。

答え

これは源信僧都が『観無量寿経』に説かれていることを「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」(往生要集)と仰り、それを親鸞聖人が言い換えられたものです。「極重の悪人」とは下品下生の者のことで、五逆罪を造り、平生に善をしたこともない者が、臨終になって初めて仏教を聞いて、ただ念仏して往生を遂げる、ということをこのように表現されました。一方で、中品下生以上の者は定散二善をして往生を遂げる、と教えられています。
一生造悪」同様、18願は悪人正機だということを仰ったものです。

(参照)
下品下生の往生さえ知らない高森会長

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2012年7月 2日 (月)

一口問答(善人悪人2)

問い

親鸞聖人は、全人類のことを「一生造悪」(正信偈)と仰っていますから、やっぱり全人類は悪人ではないですか。

答え

これについて蓮如上人は「一生造悪の機も」(正信偈大意)と解説されています。元は道綽禅師が「たとひ一生悪を造れども」(安楽集)あるいは「たとひ一形悪を造れども」(同)と仰ったことです。親鸞聖人も「一形悪をつくれども」(高僧和讃)と仰っていますから、たとえ一生悪を造っている機であってでも、ということで、全人類が「一生造悪」という意味にはなりません。日本語を正しく理解してください。

(参照)
ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。

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2012年7月 1日 (日)

一口問答(善人悪人1)

顕真7月号は、まだ出ていませんので、まだ見ぬ「ひと口問答3」に対する反論はできませんが、先に書いておきます。

問い

『大無量寿経』に「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」と全人類の実相を教えられているから、全人類は悪人であることに間違いはないでしょう。

答え

いつもの断章取義です。これは『大無量寿経』の五悪段と呼ばれるところにあるのですが、五悪段の前に「諸仏の国土の天・人の類は、自然に善をなして大きに悪をなさざれば」と善人について説明なされていますので、全人類が悪人という意味にはなりません。
また親鸞聖人はこの五悪段を全く引用されていません。中国語に翻訳される際に儒教の影響を受けて五悪段が加えられた、と今日考えられていますが、親鸞聖人も同様のお考えであったのかもしれません。実際、親鸞聖人が重要視された異訳経の『無量寿如来会』には五悪段はありません。
親鸞聖人が触れられていない部分を、鬼の首でも取ったかのように強調して、「これが親鸞聖人の教えだ」と言っていること自体、恥ずかしいと思わないのですか。

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