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2012年6月 4日 (月)

朝令暮改の人に随ふべからず

今月号の『顕真』で、当ブログで提示してきた10項目についての問答が掲載されています。題して「ひと口問答」です。今回は1回目ということで以下のようにあります。

問い

弥陀に救われずに死ぬ人は、六道輪廻するか、または十九願・二十願の行者は化土へ往生すると親鸞聖人は教えられているのに、地獄に堕ちるというのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

 蓮如上人は「信心決定せずは、報土往生すべからず」(『御文章』三帖目八通)と、報土に対する化土ですから、十九・二十願の行者の化土往生も排除されてはいません。 また、六道の中には無間地獄もありますから「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とも『御文章』(二帖目二通)にあります。

私がつきつけた内容そのままです。ところが質問に対する答えは何なのか、はぐらかしで終わっています。実に親鸞会らしい回答です。それでも、化土と六道の明確な否定はありませんので、「一切衆生必堕無間」からは修正してきたようです。以前のエントリーで善の勧めと相反する「一切衆生必堕無間」は修正するかもしれないと述べましたが、その通りになっただけのことです。

さて、前回の続きです。
蓮如上人は、親鸞聖人の解釈をそのまま受け入れる姿勢を表明されていますが、存覚上人に対しても同様のことを仰っています。
『御一代記聞書』158

前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

やはり、存覚上人の解釈に従う、という意味で仰っています。解釈、教えと直接関係ないことについてまで、無条件に従うと仰ったところは、どこにもありません。
なぜなら、親鸞聖人が次のように仰っているからです。『教行信証』化土巻

『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。(略)

(現代語訳)

『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。(略)

親鸞聖人は、「法に依りて人に依らざるべし」「この法に随ふべし、人に随ふべからず」と教えられた方です。なぜなら、「」はもちろん仏ではありませんし、菩薩でもない、浅智の凡夫だからです。存覚上人は『六要鈔』で

次に『大論』の文、四依の釈なり。その意は顕著なり。委しく述ぶるに能わず。

と説明が要らないほど明確な内容だと言われています。信心決定したといっても浅智は浅智のまま、煩悩はとどまらず、きえず、絶えずですから、善からぬことを考えて、信心決定した人が仏法を利用することもあり得ます。そんな「」に従うことの危険性を親鸞聖人は経験上からも実感しておられたのだと思います。

ところが親鸞聖人のこのお言葉を読んだこともない高森会長は、

善知識(=高森会長自身)に無条件服従しなければならない

と言っているのですから、親鸞聖人とは真逆なのです。

もし親鸞聖人の教えを間違って伝えたならば、どんな責任も負います、切腹ものです

そこまで高森会長に言われたら、純粋な人は騙されてしまうのも無理からぬことです。
高森会長が、教えまでも朝令暮改の人物と最初から疑う人はいないでしょう。それで多くの人が騙されてしまったのです。

しかし、冒頭でも書きましたように、60年間あれだけ断言し続けてきた「一切衆生必堕無間」までもあっさり修正してきているのですから、「」に従うことの危険性は、退会者の皆さんも実感されていると思います。退会者の皆さんは、現会員に、「一切衆生必堕無間」の修正についてコメントを求めては如何でしょうか?

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コメント

会長の人間性がオウムの松本智津夫と同類であることはますます明らかです。
オウムの逃亡犯が捕まりましたが、悪人に従って人生を捨てた一例です。

投稿: | 2012年6月 4日 (月) 22時31分

本日の御教導ありがとうございます。非常に理解しやすく高森会長が善知識にナリスマシて、会員の人生を破壊する御教導がハッキリします。親鸞聖人の教えを説くと称して会員の収入と財産を狙い、会員の人生を講師として使い、老後は自身の自己責任として使い捨て(予想)ます。オウムの逃亡犯も逮捕されましたが、裁判も厳しい判決も予想されますが、麻原を師と仰いだのが処刑台の道程でした。
高森会長を師と仰いだ結末は、会員は破産、講師は生活保護の道でした。
60年間の教えも都合が悪ければ簡単に変更するのですから、その教えを信じた会員はどうするのか、高森会長に聞いてみたいです。

投稿: 過去に会員 | 2012年6月 5日 (火) 00時07分

名無し 様

松本死刑囚と高森会長は同じ思考回路です。違いは、大胆か小心かの差です。


過去に会員 様

有難いのですが、私に対して御教導という表現は、買被り過ぎです。私は、聖教に書かれてあることを、そのまま素直に述べているに過ぎません。特別な解釈はしていません。
ところが、聖教に書かれていないことを書かれてあると断言し、書かれてあることと真逆のことを平気で言い放つのが、高森会長です。
そんな高森会長に対しては敢えて”御教導”というべきでしょう。もちろん皮肉です。

投稿: 飛雲 | 2012年6月 5日 (火) 21時21分

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