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2012年6月12日 (火)

善知識への無条件服従することをもって本願とせられたならば、無理難題に従えない者はきっと往生の望みを絶つであろう

高森会長への無条件服従について、最近は、掛け声倒れになってきているようです。その理由は、高森会長の絶対的な教学が講師部員・会員にも怪しく思われてきているからです。
如何なる法論でも受けて立つ、どころか法論を仕掛けてきた”勇敢な”過去の面影が今の高森会長にはありません。高森会長もそうですが、講師部員も会員も、教義に自信が持てないのです。教義への疑問が湧き上がってきても、それを必死に打ち消している状態です。

さて、師への無条件服従というのは、実は聖道門における行の1つです。天台宗の修行の1つに常行三昧の九十日の行というものがあります。その内容は『摩訶止観』に記されています。

ただもつぱら行旋し、九十日を一期となせ。 明師の、内外の律によくして、よく妨障を開除するを須ゐよ。所聞の三昧の処において、世尊を視たてまつるがごとくにし、嫌せず、恚せず、短・長を見ざれ。まさに肌肉を割きて、師に供養すべし。いはんやまた余のものをや。師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。もし師において悪をなすときには、この三昧を求むるに、つひに得ること難し。 外護の、母の子を養ふがごときを須ゐ、同行の、ともに嶮を渉るがごときを須ゐよ。すべからく要期し、誓願すべし。わが筋骨をして枯れ朽ちせしむとも、この三昧を学せんに得ずは、つひに休息せずと。大信を起さば、よく壊るものなからん。大精進を起さば、よく及ぶものなからん。所入の智はよく逮ぶものなからん。つねに善師とともに事に従へ。

(現代語訳)

ただひたすら歩き旋って、九十日を一期間とし、内外の戒律に精通してよく障りを除く明師に就くがよい。師から聞いた三昧の処で、師を見ること世尊を視たてまつるようにし、嫌わず怒らず、短所・長所を見てはいけない。自分の肌の肉を割いてでも師に供養すべきである。ましてまた、その他のことはなおさらである。師には、下僕が主人に奉えるようにせよ。もし師に対して悪い感情を生じたならば、この三昧を求めても、結局は得ることが難しい。外からの護持者は母親が子供を養うようにする人を用い、同じく行ずる人は、嶮しい所を共に渉るような人を用いよ。わが筋骨を枯れ朽ちさせても、この三昧を学び得なかったならば、最後まで休息すまいと決心して誓うべきである。大信を起こせば、よく壊る者はなく、大精進を起こせば、よく及ぶ者はなく、得るところの智慧は、よく及ぶ者はなく、常に善い師匠と共に事に従うがよい。

と、常行三昧の行の中に師に無条件服従することが1つの行として教えられています。この行は、布施、持戒などと同じ1つの行です。この行ができる人は、聖道門の修行に堪えられる人ということになります。しかし、聖道門の修行に堪えられない悪人を救わんがための18願に、師への無条件服従という行が必要である筈がないです。当然のことです。

法然上人は『選択本願念仏集』

念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(現代語訳)

念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。
そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。
もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持つことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。

と判りやすく教えて下さっています。師、善知識への無条件服従は、直接書かれてはいませんが、同様に

善知識への無条件服従することをもって本願とせられたならば、無理難題に従えない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが無条件服従できる者は少なく、従えない者は甚だ多い

ということです。

親鸞会について行けず、退会する者は今でも後を絶ちません。そんな者は18願から漏れているというのが、高森会長の教えです。法然上人、親鸞聖人の仰せとは相容れない超選民思想です。
真宗を名乗りながらその実態は、2000畳という大きな土蔵の中で、すかすかの参加者に秘事が語られる土蔵秘事そのものです。

秘事ではない、と言い返したいのなら、聖教上の御文をもって、高森会長本人が公開の場で反論すればいいだけのことです。しかし、高森会長は永久に沈黙し続けるでしょう。そして、また退会者が現われるのです。

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コメント

こちらには初めてコメント致します。
聖道門においても、比叡山を開いた最澄の『守護国界章』に、「不誼に当らば、すなわち弟はもって師に争わずんばあるべからず。」とあります。つまり、「師にあやまりがあったら、弟子は師とも争わなければならない」というものです。盲従を要求している訳ではないのだと思います(当然と言えば当然ですが)。「無条件」で「服従」しなければならない、という言葉に会員はこだわっているのでしょうか。だとしたら法然上人が師と論争したことなどどう説明するのでしょうか。いずれにせよ、親鸞会は形の上の事にこだわりすぎているような気がします(本尊のこともそうですし)。

投稿: あずきあらい | 2012年6月12日 (火) 23時18分

だいたい無条件服従という「服従」なんて言葉は、要は会員を下僕と見なしているから出てくる言葉なのかと思います。
真宗では御同朋・御同行と言われるのに。
高森会長(師)→講師(弟子)→一部講師(師)→会員(弟子)。こんな関係性なのかと。
「我(師)も信心決定せず、弟子も信心決定せずして、一生は空しく過ぎゆくように候こと、誠に自損損他の咎のがれ難く候。あさましあさまし」
(御文章一帖目一通)

「師・弟子ともに極楽には往生せずして、空しく地獄に堕ちんことは疑いなし」
(一帖十一通)

この二通はまさに親鸞会に言われたことでしょう。
この二通の御文全文を会員さんはじっくり拝読したらいいと思います。
これだけで親鸞会は教義も組織も駄目だとわかるはずです。

投稿: | 2012年6月12日 (火) 23時53分

会長の肩を持つ気など全くありませんが、「無疑に信順し」が、会での言い回しだと思います。最も言い方はソフトですが、会長の腹の中では一緒の意味で、俺に「絶対服従しろ!」になっていますね。

投稿: | 2012年6月13日 (水) 09時09分

あずきあらい 様

新しいエントリーで、関連した内容を書いておきました。


前の名無し 様

仰る通りです。


後の名無し 様

阿弥陀仏への信順を自分への信順にすり替えるのですから、姑息です。これ1つとっても、まともではないです。

投稿: 飛雲 | 2012年6月14日 (木) 22時39分

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