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2012年6月 8日 (金)

人に依り、語に依り、識に依り、不了義に依る親鸞会

先日のネット対策会合より、反親鸞会のサイト・ブログに対抗する措置を、様々に講じているようです。しかし、教義批判への反論はありません。形式上反論したような偽装退会者のブログも投了しました。
高森会長から、講師部員、会員に至るまで、親鸞会は親鸞聖人の教義には極めて昏いのです。これでも、「浄土真宗」とか「親鸞」とか名乗っているのですから、酷いものです。

さて、前回四依について紹介しました。四依とは、

1.法に依りて人に依らざるべし
2.義に依りて語に依らざるべし
3.智に依りて識に依らざるべし
4.了義経に依りて不了義に依らざるべし

です。1番目については、前回も述べましたが、このお言葉そのままです。人に依れ、と言っている高森会長は、1番目から外れているのです。
2番目については、『教行信証』化土巻に、説明が続いています。

「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。

(現代語訳)

教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。

上記を読まれれば、概ね御理解頂けると思います。譬えも出されていますが、言葉そのものに囚われてしまって、その内容が読めていないということです。
たとえば、

釈尊45年間の教えの99%は善の勧めだから、それが無駄であったというのか

と未だに親鸞会では喚いていますが、これもそうです。誰のため、何のために釈尊が善を勧められたのかを無視していることを、「指を看視して月を視ざるがごとし」と仰っているのです。
あるいは、

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」とあるから、全人類は五逆謗法の者だ!

と脅しているのも同じです。断章取義と言われるもので、この後の「同座せざれと候ふなり」を削除して、意味を逆にする騙しで、より悪質です。

3番目の説明は

「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。

(現代語訳)

真実の智慧を依りどころとするとは、真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、人間の分別は常に楽しみを求め、さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。だから、人間の分別に依ってはならないといったのである。

ですが、これも読まれた通りでしょう。

4番目は、

「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり

(現代語訳)

真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、智慧あるものすべての中で仏を第一とし、教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである>と。
 仏のおられない世の衆生を、仏は罪が重いとされた。これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである。

とあります。ここは少し判りにくいところですが、仏に直接遇えない重罪の者は、仏の説かれた経典を依り所としなければならないということです。高森会長の珍説満載の著書を根拠にするなです。

これは四依の直前に親鸞聖人が仰った

ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分)と。
しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。

(現代語訳)

このようなわけで、釈尊のお説きになった教えにもとづき、祖師の解釈を見てみると、『観経疏』に、「教えを説く人の違いについていうと、すべての経典において教えを説きおこすものは、次の五種だけである。一つには仏、二つには仏弟子、三つには神々や仙人、四つには鬼神、五つには変化である」(玄義分)と述べられている。この五つのうち、信じるべきであるのは仏が説かれた教えであり、他の四種のものが説く教えではない。『無量寿経』も『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、すべて釈尊が自ら説かれた教えである。

とを併せて読まなければなりません。
親鸞聖人が四依で仰っりたかったことは、仏説である浄土三部経に依りなさい、ということです。もちろん、その結論は、18願1つに依れということであり、三願転入の教え、とか往生のために善をせよ善知識という人に無条件服従せよ、という間違った教えに依るな、です。

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コメント

対抗措置とはどのようなものでしょうか。無理にお聞きしたいとは思いません。

投稿: | 2012年6月 8日 (金) 23時14分

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」にコメントで荒らす講師部員(一般会員ではない)、あるいは休眠していたブログの復活、他にもありますが、差し支えない範囲ではこれくらいですかね。

投稿: 飛雲 | 2012年6月 9日 (土) 14時21分

23都道府県で2億円詐取か 容疑の男7人逮捕 栃木
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120614/tcg12061402070004-n1.htm

どうでもいいが、またパク森のなかまがつかまったとさ

万引きしたり、うそをついたり。
言語道断、

ザンギなきものは人間にあらず畜生なり(釈迦)
他人に恥ずる心と、自分に恥ずる心がなければ、
うじむしやゴキブリと同じですって

投稿: | 2012年6月14日 (木) 03時03分

>1.法に依りて人に依らざるべし

これは、昔西本願寺の寺院の説法でお聞きしたことがあります。

たしか、無くなる直前にお弟子が、これからどうしていったらいいかという質問のお答えでしたね

自灯明 法灯明 とお聞きしました。

投稿: | 2012年6月14日 (木) 03時10分

後の名無し 様

その通りです。「自灯明 法灯明」は、親鸞会では聞いたことがありません。

投稿: 飛雲 | 2012年6月14日 (木) 22時41分

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