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2012年6月

2012年6月30日 (土)

一口問答(五逆謗法闡提11)

先日の2000畳座談会でも、「親に対して早く死んでくれたら、と思っただけで五逆罪」と説明して、会員を脅すのに余念がない高森会長でした。
いい加減、親鸞聖人のお言葉を利用するのを止めてもらいたいものです。

問い

人の心は変わるとしても、因果の道理は間違いないのですから、一度造った恐ろしい悪業は消せず、恐ろしい報いを必ず受けるのではないですか。

答え

親鸞聖人は「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」(正像末和讃)と教えられました。罪に固定不変の形があると考えるのは、妄想顛倒である有の見の考え方です。
また『涅槃経』を引用されて「たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。」(教行信証信巻)とも教えられています。
有の見に凝り固まった親鸞会を否定されたのが、仏教であり親鸞聖人です。

(参照)
善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりの高森会長

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2012年6月29日 (金)

一口問答(五逆謗法闡提10)

問い

しかし、全人類は闡提と教えられているのではないですか。

答え

これも大嘘です。親鸞聖人は『涅槃経』を引用されて教えておられます。
衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。」(教行信証真仏土巻)
衆生の根性に定まったものはないから、闡提の者が闡提でなくなったり、あるいは闡提でない者が闡提になったりするのです。親鸞会の原罪思想は、仏教で教えられる空とは反するものです。

(参照)
間違いを知りながら「十方衆生は一人の例外もなく五逆・謗法・闡提の者である」と未だに言っている確信犯

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2012年6月28日 (木)

一口問答(五逆謗法闡提9)

問い

もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」(口伝鈔)と教えられているように、心で造った悪も重罪になるのではないですか。

答え

軽重関係なく三業で罪を造っているのが凡夫ということですが、三業の関係について親鸞聖人は『涅槃経』を引用して教えておられます。
一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」(教行信証信巻) 心と口との両方で造る罪は軽く、心と口と身との三つで造る罪は重い、ということです。ましてや、心で思っただけで重罪になるとは、何教の話でしょうか。

(参照)
善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりの高森会長

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2012年6月27日 (水)

一口問答(五逆謗法闡提8)

親鸞会では、仏壇仏具の販売を本格的に始めました。ワシのマーク入りのまであります。高森会長が本願寺や新興宗教を痛烈に非難していた商売を、自分で大々的に展開しているのですから、お笑いです。
教義もない、単なる金儲け団体となりました。

問い

仏教では心を重視するから、心で親を殺せば、五逆罪になるのではないですか。

答え

親鸞聖人は五逆罪の説明を「ことさらに思うて父を殺す」「ことさらに思うて母を殺す(教行信証信巻)とあります。単に「殺す」のではなく、「ことさらに思うて」なのです。つまり、強い意志をもって親を実際に殺すことを五逆罪というのであって、過失で殺したことでも五逆罪とはいいません。仏教で心を重視するとは、こういうことです。

(参照)
会員との問答(五逆罪、謗法罪について)

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2012年6月25日 (月)

一口問答(五逆謗法闡提7)

昨日の2000畳座談会では、講師部員・特線部員・幹部会員併せて50名程をアシスタントとして壇上に座らせたそうです。高森会長は、策が尽きた時には、多くの意見を広く募る習慣がありますので、教義的に行き詰まったための非常措置かもしれません。

なお、まだ途中ですが、

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」

を更新しています。順次追加してもらいますので、親鸞会が当ブログを相手に法論が行われていることを、多くの会員に紹介してください。そうするともっと多くの人が壇上に呼ばれるようになるかもしれませんね。

問い

阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。

答え

嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。

(参照)
パクリで大学者気取りも、聖教を読んだことのない無知を晒しただけの高森会長

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2012年6月23日 (土)

一口問答(五逆謗法闡提6)

問い

謗法の者を救うというのが、阿弥陀仏の本願ではないですか。

答え

このことを親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』を引用されて「謗法・闡提、回心すればみな往く」(教行信証信巻)と教えられました。謗法と闡提の者は、心を改めて、仏法を信じるようになったならば救われる、ということです。謗法と闡提のまま救われるのではありません。
ここからも、謗法の者と謗法でない者がいるというのが浄土仏教の常識と判ります。

(参照)
惑染・逆悪斉しくみな生じ、謗法・闡提回すればみな往く

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一口問答(五逆謗法闡提5)

問い

外見上は信順していても、心の底では信じ切れていないから、謗法罪を造っていることになるのではないですか。

答え

親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』を引用して説明されています。「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと」(教行信証信巻)
謗法罪とは、仏の存在、仏の教え自体を根底から否定し、もちろん他人にもそれを言うことです。
そんな謗法の者が救われるかどうかについて「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」(同)と、謗法の者が救われることはないと断言されています。全人類が謗法の者なら、誰一人救われることはありません。

(参照)
謗法罪の定義さえも知らない親鸞会のお粗末さ

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2012年6月22日 (金)

一口問答(五逆謗法闡提4)

問い

全人類が五逆謗法の者ということではないという確かなお聖教上の根拠でもあるというのですか。

答え

謗法罪については、「聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし」(御伝鈔)とあります。
五逆罪については、「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)などです。この文は、法然上人が仰ったことを書かれたものですし、『唯信鈔』は親鸞聖人が自ら何度も書写されて同行に読むように勧められた書ですから、法然上人、親鸞聖人のお言葉でもあります。

(参照)
おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし

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一口問答(五逆謗法闡提3)

24日は、2000畳での座談会に再度変更になったそうです。
高森会長の気まぐれで、会員は振り回されて大変ですね。
また会員に不信感を抱かせました。結構なことです。

では親鸞会の「ひと口問答2」への反論です。

問い

親鸞聖人は「一切の群生海、無始よりこの来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということではないですか。

答え

親鸞聖人は清浄心のことを『涅槃経』を引用されて「心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく」(教行信証真仏土巻)と教えておられます。
また「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし」(尊号真像銘文)と教えられています。
つまり、煩悩に穢された心を「清浄の心無く、真実の心無し」と仰ったのであって、五逆・謗法の意味は全くありません。仏語の意味を知らないだけです。

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2012年6月21日 (木)

一口問答(五逆謗法闡提2)

問い

では「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)は、間違っているというのですか。

答え

この後の「同座せざれ」を無視して解釈するするからおかしくなるのです。五逆罪・謗法罪が親鸞会の説明通りなら、親、兄弟、配偶者、子供、職場の同僚などとも、親しくしてはならず、同行同士集まることも、善知識、師に近付くことも禁じられたことになります。親鸞聖人は、一家離散、引き籠り、隠遁生活を勧められたことになり、会を作って多くの人が集まる法話や会合などもっての外ということでが、それが正しい解釈ですか。

(参照)
『末灯鈔』のお言葉は、「全人類≠五逆謗法の者」を証明された根拠

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会員と退会者の皆様へ

親鸞会が、10項目に対する反論らしきことを顕真に連載しているのはお知らせの通りですが、これは間接的な法論となっております。
そこで双方の主張が対比できるよう、ある方にブログを作ってもらいました。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」

です。
間接的とはいいながらも、法論ですので、会員、退会者、その他多くの方に親鸞聖人の教えを明らかにする御縁となります。
できるだけ多くの方に読んで頂けるよう、有縁の方にお知らせください。
ブログを書かれている方は、リンクを張って頂けると有り難いです。

なお、弘宣局長にもこの件は知らせてあります。

W 様

御無沙汰しております、○○です。
3月18日に、法論の申し込みをしてから、早くも3ヶ月が経過しました。
法論に応じるとも応じないとも、直接お返事を頂いておりませんが、
『顕真』5月号と6月号にて「ひと口問答」なるものが掲載されており、
間接的に法論に応じられているものと理解しております。

ただ、『顕真』では見る人も限定されますし、直接のやりとりではないため、
多くの方に親鸞聖人のみ教えを明らかにする御縁になっていないのが残念です。

そこで、『顕真』の「ひと口問答」に対して、同じ形式で反論を「飛雲」に
書いていくこととしました。
更には双方の主張が対比できるよう、ある人に新たなブログを作ってもらいました。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
http://sinrankaix.exblog.jp/

項目毎にまとめていく予定ですので、会員の皆様にもお知らせください。

もし不都合等ございましたならば、遠慮なく仰ってください。

○○

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2012年6月20日 (水)

一口問答(五逆謗法闡提1)

すでにお知らせの通り、今月号の顕真で

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

についての反論が「ひと口問答2」として載っていました。これまでなら『末灯鈔』のお言葉で言ってくるところでしょうが、敢えて意味不明の答え方をしています。
とりあえずは通常通りの『末灯鈔』で始めます。
なお、偽装退会者が拘る闡提も今後は含めていきます。

問い

親鸞聖人は「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)と仰っていますから、全人類は五逆・謗法の者で、やっぱり必堕無間ではないですか。

答え

これも典型的な断章取義です。このお言葉の後に、「同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。」とあります。どのように読んでも、善証房のような五逆・謗法を造っている者に近付いてはならない、ということで、お手紙を受け取った関東の同行は、五逆・謗法の者ではないという前提です。

(参照)
『末灯鈔』のお言葉は、「全人類≠五逆謗法の者」を証明された根拠

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2012年6月19日 (火)

一口問答(一切衆生必堕無間7)

問い

理屈の上では化土往生はできることになっていますが、現実的には誰も化土往生できないのではないですか。

答え

善知識方が、「化土往生できる」と仰っているのに、根拠もなく自己の計らいを入れているのであれば、最早真宗ではありません。
親鸞聖人は「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり」(高僧和讃)とまで仰っています。ただし親鸞聖人は、化土往生を願うことを厳しく誡められていますので、自分は化土往生でいいや、と思うのも真宗ではありません。

(参照)
浄土を願う未信の人は、化土に生れる

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一口問答(一切衆生必堕無間6)

問い

嘘を教えた者が地獄に堕ちる、とは仰っていますが、未信の同行が死後にどこどこに行く、と仰っていないではないですか。親鸞聖人が具体的なことを仰ったお言葉があるのですか。

答え

名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし」(末灯鈔)、
安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり」(浄土和讃)等、たくさんありますよ。
蓮如上人も「雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり」(正信偈大意)と断言されています。化土往生は、真宗の常識です。

(参照)
浄土を願う未信の人は、化土に生れる

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2012年6月18日 (月)

一口問答(一切衆生必堕無間5)

昨日のテレビ座談会に高森会長は出てきたそうですが、次の2000畳座談会はビデオ法話に変更になったそうです。高森会長もいよいよ話ができなくなってきたのかもしれません。

問い

親鸞聖人は、本当は皆地獄に堕ちる、と言われたいところを、敢えて三悪道とか六道と表現を和らげられたのではないですか。皆が地獄に堕ちるのではない、と仰ったお言葉があるなら出してみてください。

答え

かなり捻くれた考え方です。親鸞聖人は関東の同行に宛てられたお手紙の中で、次のように仰っています。「ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。」(末灯鈔) 念仏称えているだけでは地獄に堕ちるぞ、などと嘘を教えているその人だけが地獄に堕ちるのであって、多くの念仏者の罪にはなりません、ということです。

(参照)
「一切衆生必堕無間」は幼稚な発想

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一口問答(一切衆生必堕無間4)

6月号顕真の「ひと口問答2」をコメント欄で教えて頂きました。

間違いを解説する必要がないほど、無茶苦茶です。日本語を知らないのでしょう。
後日、これについては取り上げます。

問い

親鸞聖人も「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、死んだら地獄に堕ちることは間違いないのではないですか。

答え

この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われら凡夫かならず地獄におつべし」の後に、「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と言い換えられた親鸞聖人のお言葉が紹介されています。親鸞聖人の御著書にも六道か悪道としか書かれていません。

(参照)
会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

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2012年6月17日 (日)

一口問答(一切衆生必堕無間3)

問い

蓮如上人は「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば」(帖外御文)と仰って、死後には地獄に堕ちると教えられていますよ。

答え

断章取義です。この前に「世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候」とあります。蓮如上人がここで仰っていることは、「短い人生のことよりも、永い死後の方が大事ですよ。極楽と地獄では大変な違いがあるでしょ。」ということです。

(参照)
後生の一大事とは

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2012年6月16日 (土)

一口問答(一切衆生必堕無間2)

問い

たとえ一箇所だろうと蓮如上人が不信心は無間地獄行きと仰っているのは否定できないではないですか。

答え

たとえ一箇所だろうと蓮如上人が異安心は無間地獄行きと仰っているのは否定できないではないですか。二帖目二通には主語がありませんが、なぜ全人類の不信心のことと断定するのですか。「死出の山路のすえ、三途の大河」(一帖目十一通)、「三途八難にしずまん事」(二帖目一通)、「五道六道といえる悪趣」(二帖目四通)との整合性もとれませんね。

(参照)
『御文章』の正しい読み方

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一口問答(一切衆生必堕無間1)

親鸞会の会員は、長い文章を読むことができません。それで、一口問答という短い文章で、親鸞会の邪義を明確にしていきます。基本的に説明はつけませんので、詳しくはリンク先を読んでください。

問い

蓮如上人は「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」(『御文章』二帖目二通)と仰っていますから、弥陀に救われずに死ぬ人は必ず無間地獄に堕ちるということではないでしょうか。

答え

蓮如上人が、死後に無間地獄に堕ちると仰ったのは、他に一箇所しかありません。「それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。」(『御文章』二帖目十四通)です。この2つは同じ意味です。極楽に往生できると教えていながら異なる信心に対して、「この信心」(正しい信心)です。つまり「この信心を獲得せずば」=「これを信ずるものは」です。

(参照)
「一切衆生必堕無間」は幼稚な発想

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2012年6月14日 (木)

一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず

高森会長は、先が読めなさ過ぎます。当ブログへの反論が、偽装本願寺僧侶のブログとは大変に面白いです。

私は、密かに偽装本願寺僧侶のブログを応援しています。

以前の偽装本願寺僧侶のブログは、私のことを「飛●氏」と表現していました。しかし今は「飛雲氏」と書いています。この変化は重要です。なぜなら、前者では当ブログの特定は容易ではなく、当ブログのアクセスに大きな変動はありませんが、後者なら当ブログが特定され、会員にも検索してアクセスしてもらえます。実際に、当ブログのアクセス数は、増えています。私が、偽装本願寺僧侶のブログ名を敢えて出さないのは、これが理由です。

それと、親鸞会の反論ではなく親鸞会の外の本願寺僧侶としての反論ですから、高森会長以外にも”正しい教え”を伝えている僧侶が本願寺にもいることになり、”無二の善知識”の否定となります。しかもこの管理人は”信心を獲た”と言っているのですから、高森会長から聞かなくても救われるということになります。従って会員が本願寺の話を一度聞いてみようかと思うきっかけになります。実際にそういう人があったそうです。

更には、当ブログを読んで多くの会員が退会しましたが、その対策を高森会長が何もしていないことを証明しているので、会員に不信を抱かせる要因にもなっています。

偽装退会者のブログも同じような効果があります。

ですから、密かに応援しています。

また書いている内容もその場しのぎで、次にどんな反論があるかなど想定もしていないから、すぐに矛盾を指摘されて困ってしまいます。これまで何度も言ってきましたが、親鸞会と法論する時には、相手の出してきた根拠の前後を読めば意味が違いますから簡単に論破できます。更には、過去に書いてきた内容との矛盾を指摘すれば終わりです。

兎に角、先が読めないのが、高森会長と親鸞会です。

さて、前置きが長くなりましたが、善知識への無条件服従について、もう少し述べておきます。
『法華経』に「善知識はこれさとりを得る大因縁なり」とあることを根拠に、仏教で善知識への無条件服従が当然のことして教えられている、と説明する講師部員もあるようですが、これも原文を当たれば、親鸞会の間違いに気が付きます。
このことはすでに

「清森問答」
質疑応答90

で浄土宗の”本物の”僧侶が説明しています。

善知識者是大因縁」という言葉は、『法華経』に存在します。
ただし、原文を見ると以下のようになっております。

 爾時雲雷音宿王華智佛告妙莊嚴王言。
 如是如是。如汝所言。若善男子善女人。
 種善根故。世世得善知識。其善知識。
 能作佛事示教利喜。令入阿耨多羅三藐三菩提。
 大王當知。善知識者是大因縁。
 所謂化導令得見佛。發阿耨多羅三藐三菩提心。

『妙法蓮華経』妙荘厳王本事品 大正vol.9, p.60c

 まず、釈尊と阿難との問答ではありませんし、内容も高森先生のお書きになられたようなものではありません。

 さらに、ここで「善知識」と訳されているもののサンスクリット文を見ると、kalyAn,a-mitra(善い友達、善友)になっております。

 したがって、内容から見ても、サンスクリットの単語から見ても、高森先生が理想とする高森先生と親鸞会の皆様の関係を示すような記述は、『妙法蓮華経』妙荘厳王本事品には存在しません。

これと同様の内容は、『教行信証』信巻に引かれた『涅槃経』にあります。

そのときに仏、もろもろの大衆に告げてのたまはく、〈一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。なにをもつてのゆゑに、阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆゑに日に近づきにたり、善友にしくことなし〉と。

(現代語訳)

そのとき、釈尊は弟子たちに、<どのような衆生もこの上ないさとりに近づくためには、まず善き友を縁とするに越したことはない。阿闍世が、耆婆の言葉にしたがわなかったなら、来月の七日には必ず命が尽きて無間地獄に堕ちるところであった。だから、この上ないさとりに近づくためには、善き友を縁とするに越したものはない>と仰せになった。

善知識はこれさとりを得る大因縁なり」の意味は、こういうことです。「善友」が仏法に遇う因縁になる、ということです。聖道門においてでも、善知識(師)に対して無条件服従しなければ、悟りを開くことができない、という意味ではないのです。況や浄土門においてをや。

全てにおいて、根本的にずれているのです。親鸞聖人の教えとは、真逆の方に向かわせるのが高森教です。

以上で善知識への無条件服従、及び10項目すべての説明を一応終了します。

なお、当ブログの間違いをでっち上げて、本願寺の正しさを説明しているのが偽装本願寺僧侶のブログですが、本願寺が正しいと宣伝してくれるなら、私は本望です。私は会を作って会員を募ったことはありませんし、今後もするつもりはありませんので、本願寺と比較しての私への非難は、痛くも痒くもありません。教義だけでなく、感覚もずれまくっているのです。

当ブログは、かなりレベルの高い内容で書いてきましたので、思考停止の現会員には理解不能の部分も多いと思います。
従いまして、今後は親鸞会にならって、10項目を一口問答形式で、短く端的に表現していきたいと思います。

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2012年6月12日 (火)

善知識への無条件服従することをもって本願とせられたならば、無理難題に従えない者はきっと往生の望みを絶つであろう

高森会長への無条件服従について、最近は、掛け声倒れになってきているようです。その理由は、高森会長の絶対的な教学が講師部員・会員にも怪しく思われてきているからです。
如何なる法論でも受けて立つ、どころか法論を仕掛けてきた”勇敢な”過去の面影が今の高森会長にはありません。高森会長もそうですが、講師部員も会員も、教義に自信が持てないのです。教義への疑問が湧き上がってきても、それを必死に打ち消している状態です。

さて、師への無条件服従というのは、実は聖道門における行の1つです。天台宗の修行の1つに常行三昧の九十日の行というものがあります。その内容は『摩訶止観』に記されています。

ただもつぱら行旋し、九十日を一期となせ。 明師の、内外の律によくして、よく妨障を開除するを須ゐよ。所聞の三昧の処において、世尊を視たてまつるがごとくにし、嫌せず、恚せず、短・長を見ざれ。まさに肌肉を割きて、師に供養すべし。いはんやまた余のものをや。師に承事すること、僕の大家に奉るがごとくせよ。もし師において悪をなすときには、この三昧を求むるに、つひに得ること難し。 外護の、母の子を養ふがごときを須ゐ、同行の、ともに嶮を渉るがごときを須ゐよ。すべからく要期し、誓願すべし。わが筋骨をして枯れ朽ちせしむとも、この三昧を学せんに得ずは、つひに休息せずと。大信を起さば、よく壊るものなからん。大精進を起さば、よく及ぶものなからん。所入の智はよく逮ぶものなからん。つねに善師とともに事に従へ。

(現代語訳)

ただひたすら歩き旋って、九十日を一期間とし、内外の戒律に精通してよく障りを除く明師に就くがよい。師から聞いた三昧の処で、師を見ること世尊を視たてまつるようにし、嫌わず怒らず、短所・長所を見てはいけない。自分の肌の肉を割いてでも師に供養すべきである。ましてまた、その他のことはなおさらである。師には、下僕が主人に奉えるようにせよ。もし師に対して悪い感情を生じたならば、この三昧を求めても、結局は得ることが難しい。外からの護持者は母親が子供を養うようにする人を用い、同じく行ずる人は、嶮しい所を共に渉るような人を用いよ。わが筋骨を枯れ朽ちさせても、この三昧を学び得なかったならば、最後まで休息すまいと決心して誓うべきである。大信を起こせば、よく壊る者はなく、大精進を起こせば、よく及ぶ者はなく、得るところの智慧は、よく及ぶ者はなく、常に善い師匠と共に事に従うがよい。

と、常行三昧の行の中に師に無条件服従することが1つの行として教えられています。この行は、布施、持戒などと同じ1つの行です。この行ができる人は、聖道門の修行に堪えられる人ということになります。しかし、聖道門の修行に堪えられない悪人を救わんがための18願に、師への無条件服従という行が必要である筈がないです。当然のことです。

法然上人は『選択本願念仏集』

念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。

(現代語訳)

念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。
そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。
もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持つことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。

と判りやすく教えて下さっています。師、善知識への無条件服従は、直接書かれてはいませんが、同様に

善知識への無条件服従することをもって本願とせられたならば、無理難題に従えない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが無条件服従できる者は少なく、従えない者は甚だ多い

ということです。

親鸞会について行けず、退会する者は今でも後を絶ちません。そんな者は18願から漏れているというのが、高森会長の教えです。法然上人、親鸞聖人の仰せとは相容れない超選民思想です。
真宗を名乗りながらその実態は、2000畳という大きな土蔵の中で、すかすかの参加者に秘事が語られる土蔵秘事そのものです。

秘事ではない、と言い返したいのなら、聖教上の御文をもって、高森会長本人が公開の場で反論すればいいだけのことです。しかし、高森会長は永久に沈黙し続けるでしょう。そして、また退会者が現われるのです。

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2012年6月10日 (日)

高森会長の真意

四依の4番目の「了義経に依りて不了義に依らざるべし」について、存覚上人は『六要鈔』で以下のように解説されています。

「依了義」の下、「有一」等とは、了・不了の義は諸経の異説。諸宗の所談、領解まちまちなれども、今教の宗はただ仏説を以て了義経とす。この論灼然なり。『大経』の下に云わく「如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測る所にあらず。ただ仏のみ独り明了なり」已上。弥陀の五智深奥の理は、三乗・五乗はその境界にあらず。この故に今、菩薩等の説は信用に足らざることを談ず。この義を以ての故に、了義経の名は仏説に被らしむるなり。深心の釈(散善義)に云わく「仏を除きて已還は、智行未だ満たせず。その学地に在り。正習ありて、二障未だ除こらず、果願未だ円かならざるに由りて、これらの凡聖は、たとい諸仏の教の意を測量すれども、未だ決了すること能わず。平章することありと雖も、かならず須く仏証を請して定とすべきなり」已上。

解説の方が余計に難しいと思われるかもしれませんが、ここに挙げられた『大無量寿経』と『散善義』の御文の意味が判れば、御理解頂けると思います。

『大無量寿経』下巻・往覲偈

声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。
たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
たとひ一切の人、具足してみな道を得、浄慧、本空を知り、億劫に仏智を思ひ、力を窮め、講説を極めて、寿を尽すとも、なほ知らじ。

(現代語訳)

声聞や菩薩でさえも、仏の心を知りきわめることはできない。
まるで生れながらに目が見えない人が、人を導こうとするようなものである。
如来の智慧の大海は、とても深く広く果てしなく、
声聞や菩薩でさえも思いはかることはできない。ただ仏だけがお知りになることができる。
たとえすべての人々が、残らずみな道をきわめて、清らかな智慧ですべては空であると知り、限りなく長い時をかけて仏の智慧を思いはかり、力の限り説き明かし、寿命の限りを尽したとしても、仏の智慧は限りなく、このように清らかであることを、やはり知ることができない。

『散善義』深心釈

仏はこれ満足大悲の人なるがゆえに、実語なるがゆえに、仏を除きて已還は、智行未だ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありて、未だ除からざるに由って、果願未だ円ならず。これらの凡聖は、たとい諸仏の教意を測量すれども、未だよく決了することあたわず。平章ありといえども、かならず須らく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称えば、すなわち印可して「如是如是」と言う。もし仏意に可わざれば、すなわち「汝等が所説この義不如是」と言う。印せざるは、すなわち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまうをば、すなわち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなわちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多・もしは少、すべて菩薩・人・天等を問わず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなわちこれ「了教」なり、菩薩等の説は、ことごとく「不了教」と名づくるなり、知るべしと。このゆえに、今の時、仰ぎて一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし、菩薩等の不相応の教を信用してもって疑碍を為し、惑を抱いて自ら迷いて、往生の大益を廃失すべからざれとなり。

(現代語訳)

仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩も習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。物事の道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教えであり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいただいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。

要するに、仏の真意は菩薩でさえも判らない、ましてや凡夫に判る筈もない、ということです。仏説経典以外のものを根拠にしてはならないことを仰っているのです。この仏説経典とは、前回も述べましたように、浄土三部経を指しています。
この四依は、化土巻で要門と真門について解説なされた後にある三願転入の文の次

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。聖道門のさまざまな教えは、釈尊の在世時代と正法のためのものであって、像法や末法や法滅の時代とその人々のためのものではない。すでにそれは時代にあわず、人々の資質に背くものである。浄土の真実の教えは、釈尊在世の時代にも、正法や像法や末法や法滅の時代にも変りなく、煩悩に汚れた人々を同じように慈悲をもって導いてくださるのである。

この後にあります。
時機不相応の聖道門では救われないから、浄土門を信じなさい。浄土門といっても、浄土三部経で、18願1つを勧められているのだから、要門19願、真門20願に心をかけることなく、18願1つなんだぞ、それが仏説だから、それを否定する人、解釈、教えに惑わされるなよ、というのが親鸞聖人の仰ったことなのです。

ところが、経典にない、歴代の善知識方の御著書にもないことを平気で言いふらし、

阿弥陀仏の御心が判るのは自分だけだ
阿弥陀仏の本願を説き切っている
そんなワシに無条件服従しなければ獲信できない

などと大法螺を吹いている人物が何者であるか、少しでも思考力があれば容易に判断できるというものです。
カルト教団のトップの考えることは皆同じです。

信者を騙して自分の私利私欲を満たすこと

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2012年6月 8日 (金)

人に依り、語に依り、識に依り、不了義に依る親鸞会

先日のネット対策会合より、反親鸞会のサイト・ブログに対抗する措置を、様々に講じているようです。しかし、教義批判への反論はありません。形式上反論したような偽装退会者のブログも投了しました。
高森会長から、講師部員、会員に至るまで、親鸞会は親鸞聖人の教義には極めて昏いのです。これでも、「浄土真宗」とか「親鸞」とか名乗っているのですから、酷いものです。

さて、前回四依について紹介しました。四依とは、

1.法に依りて人に依らざるべし
2.義に依りて語に依らざるべし
3.智に依りて識に依らざるべし
4.了義経に依りて不了義に依らざるべし

です。1番目については、前回も述べましたが、このお言葉そのままです。人に依れ、と言っている高森会長は、1番目から外れているのです。
2番目については、『教行信証』化土巻に、説明が続いています。

「義に依る」とは、義の中に好悪・罪福・虚実を諍うことなし。かるがゆえに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人、指をもって月を指う、もって我を示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人、語りて言わん、「我指をもって月を指う、汝をしてこれを知らしむ、汝何ぞ指を看て月を視ざるや」と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもってのゆえに、語に依るべからず。

(現代語訳)

教えの内容を依りどころとするとは、教えの内容に、よいと悪い、罪と功徳、嘘とまことなどの違いをいうことなく、だから言葉は教えの内容を表わしているものであって、教えの内容が言葉そのものなのではない。言葉に依って教えの内容に依らないのは、人が月を指さして教えようとするときに、指ばかりを見て月を見ないようなものである。その人は、《わたしは月を指さして、あなたに月を知ってもらおうとしたのに、あなたはどうして指を見て月を見ないのか》というであろう。これと同じである。言葉は教えの内容を指し示すものであって、言葉そのものが教えの内容であるわけではない。このようなわけで、言葉に依ってはならないのである。

上記を読まれれば、概ね御理解頂けると思います。譬えも出されていますが、言葉そのものに囚われてしまって、その内容が読めていないということです。
たとえば、

釈尊45年間の教えの99%は善の勧めだから、それが無駄であったというのか

と未だに親鸞会では喚いていますが、これもそうです。誰のため、何のために釈尊が善を勧められたのかを無視していることを、「指を看視して月を視ざるがごとし」と仰っているのです。
あるいは、

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」とあるから、全人類は五逆謗法の者だ!

と脅しているのも同じです。断章取義と言われるもので、この後の「同座せざれと候ふなり」を削除して、意味を逆にする騙しで、より悪質です。

3番目の説明は

「依智」とは、智はよく善悪を籌量し分別す。識は常に楽を求む、正要に入らず、このゆえに「不応依識」と言えり。

(現代語訳)

真実の智慧を依りどころとするとは、真実の智慧に依れば善と悪とをよく考えてその違いを知ることができるが、人間の分別は常に楽しみを求め、さとりへ向かう正しい道に入ることができないということである。だから、人間の分別に依ってはならないといったのである。

ですが、これも読まれた通りでしょう。

4番目は、

「依了義経」とは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書の中に仏法第一なり。一切衆の中に比丘僧第一なり。無仏世の衆生を、仏、これを重罪としたまえり、見仏の善根を種えざる人なり

(現代語訳)

真実を完全に説き示した経典を依りどころとするとは、智慧あるものすべての中で仏を第一とし、教えを受けるものすべての中で出家のものを第一とするということである>と。
 仏のおられない世の衆生を、仏は罪が重いとされた。これは仏を見たてまつる功徳を積まなかった人なのである。

とあります。ここは少し判りにくいところですが、仏に直接遇えない重罪の者は、仏の説かれた経典を依り所としなければならないということです。高森会長の珍説満載の著書を根拠にするなです。

これは四依の直前に親鸞聖人が仰った

ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分)と。
しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。

(現代語訳)

このようなわけで、釈尊のお説きになった教えにもとづき、祖師の解釈を見てみると、『観経疏』に、「教えを説く人の違いについていうと、すべての経典において教えを説きおこすものは、次の五種だけである。一つには仏、二つには仏弟子、三つには神々や仙人、四つには鬼神、五つには変化である」(玄義分)と述べられている。この五つのうち、信じるべきであるのは仏が説かれた教えであり、他の四種のものが説く教えではない。『無量寿経』も『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、すべて釈尊が自ら説かれた教えである。

とを併せて読まなければなりません。
親鸞聖人が四依で仰っりたかったことは、仏説である浄土三部経に依りなさい、ということです。もちろん、その結論は、18願1つに依れということであり、三願転入の教え、とか往生のために善をせよ善知識という人に無条件服従せよ、という間違った教えに依るな、です。

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2012年6月 4日 (月)

朝令暮改の人に随ふべからず

今月号の『顕真』で、当ブログで提示してきた10項目についての問答が掲載されています。題して「ひと口問答」です。今回は1回目ということで以下のようにあります。

問い

弥陀に救われずに死ぬ人は、六道輪廻するか、または十九願・二十願の行者は化土へ往生すると親鸞聖人は教えられているのに、地獄に堕ちるというのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

 蓮如上人は「信心決定せずは、報土往生すべからず」(『御文章』三帖目八通)と、報土に対する化土ですから、十九・二十願の行者の化土往生も排除されてはいません。 また、六道の中には無間地獄もありますから「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とも『御文章』(二帖目二通)にあります。

私がつきつけた内容そのままです。ところが質問に対する答えは何なのか、はぐらかしで終わっています。実に親鸞会らしい回答です。それでも、化土と六道の明確な否定はありませんので、「一切衆生必堕無間」からは修正してきたようです。以前のエントリーで善の勧めと相反する「一切衆生必堕無間」は修正するかもしれないと述べましたが、その通りになっただけのことです。

さて、前回の続きです。
蓮如上人は、親鸞聖人の解釈をそのまま受け入れる姿勢を表明されていますが、存覚上人に対しても同様のことを仰っています。
『御一代記聞書』158

前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

やはり、存覚上人の解釈に従う、という意味で仰っています。解釈、教えと直接関係ないことについてまで、無条件に従うと仰ったところは、どこにもありません。
なぜなら、親鸞聖人が次のように仰っているからです。『教行信証』化土巻

『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。(略)

(現代語訳)

『大智度論』に、四つの依りどころについて次のようにいわれている。
 「釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、比丘たちに仰せになった。<今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。
 教えを依りどころとするとは、仏の説いた教えには十二部経があり、この教えにしたがうべきであって、説く人にしたがってはならないということである。(略)

親鸞聖人は、「法に依りて人に依らざるべし」「この法に随ふべし、人に随ふべからず」と教えられた方です。なぜなら、「」はもちろん仏ではありませんし、菩薩でもない、浅智の凡夫だからです。存覚上人は『六要鈔』で

次に『大論』の文、四依の釈なり。その意は顕著なり。委しく述ぶるに能わず。

と説明が要らないほど明確な内容だと言われています。信心決定したといっても浅智は浅智のまま、煩悩はとどまらず、きえず、絶えずですから、善からぬことを考えて、信心決定した人が仏法を利用することもあり得ます。そんな「」に従うことの危険性を親鸞聖人は経験上からも実感しておられたのだと思います。

ところが親鸞聖人のこのお言葉を読んだこともない高森会長は、

善知識(=高森会長自身)に無条件服従しなければならない

と言っているのですから、親鸞聖人とは真逆なのです。

もし親鸞聖人の教えを間違って伝えたならば、どんな責任も負います、切腹ものです

そこまで高森会長に言われたら、純粋な人は騙されてしまうのも無理からぬことです。
高森会長が、教えまでも朝令暮改の人物と最初から疑う人はいないでしょう。それで多くの人が騙されてしまったのです。

しかし、冒頭でも書きましたように、60年間あれだけ断言し続けてきた「一切衆生必堕無間」までもあっさり修正してきているのですから、「」に従うことの危険性は、退会者の皆さんも実感されていると思います。退会者の皆さんは、現会員に、「一切衆生必堕無間」の修正についてコメントを求めては如何でしょうか?

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2012年6月 2日 (土)

「聖人の宏才仰ぐべし」と高森会長の「深い御心」との違い

当ブログへのアクセスが飛躍的に伸びました。これも高森会長の御教導の賜物なのでしょう。多くの親鸞会会員が読んでくれているものと期待しています。ところが、親鸞会側から、誰一人私に斬り込んでくる様子がありません。弘宣局長からも、音沙汰なしです。
その程度の団体と覚悟なのです。命がけの布教、命がけの求道といっても、所詮はお遊びです。

さて、機の深信については、この程度にしておいて、最後の善知識への無条件服従について述べたいと思います。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

カルト教団の象徴的な点が、絶対的指導者への絶対的無条件の服従を強いることです。親鸞聖人の教えに、そんなカルト要素があるのかといえば、ありません。親鸞会がよく使う『御一代記聞書』192

善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも、仰せならば成るべきと存ずべし。この凡夫の身が仏に成るうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。しかれば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せにて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。

ですが、ここには蓮如上人のお言葉は一切ありません。蓮如上人のお言葉の場合には、「前々住上人」とか「仰せられ候ふ」という言葉が必ず入りますが、ここにはありません。従いまして、ここは『御一代記聞書』を編纂した著者の意見と道宗の意見とが書かれているだけです。それを、蓮如上人が自分への無条件服従を仰ったお言葉、として説明しているのですから、まさにカルト教団でしょう。

また同じく『御一代記聞書』159

前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

を無条件服従の根拠として親鸞会は使いますが、ここには「前々住上人」「仰せられ候ふ」とありますので、これは蓮如上人のお言葉として書かれているところです。蓮如上人は親鸞聖人の御心が判らないところがあっても、親鸞聖人が仰った通りにしていくのだ、と仰ったのですが、親鸞会で言っている説明とニュアンスが違います。
たとえば、親鸞会では

親鸞会講師部員聖則
一、会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

としていて、まさにカルト教義ですが、蓮如上人の仰っていることとはずれがあります。蓮如上人は親鸞聖人の教えられた教え、解釈について従っていく、という意味です。
関連する内容で『御一代記聞書』304

存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。

(現代語訳)

「存覚上人は大勢至菩薩の化身といわれている。
ところが、その上人がお書きになった『六要鈔』には、三心の字訓やその他の箇所に、<知識の及ばないところがある>とあり、また、<親鸞聖人の博識を仰ぐべきである>とある。
大勢至菩薩の化身であるけれども、親鸞聖人の著作について、このようにお書きになっているのである。
聖人のお心は本当にはかりがたいということを示されたものであり、自力のはからいを捨てて、他力を仰ぐという聖人の本意にもかなっているのである。
このようなことを存覚上人のすぐれたところなのである』と仰せになりました。

とあります。親鸞聖人には、確かに独特の解釈をなされた箇所がありまして、凡人の理解の及ばないところがありますが、そんな箇所についても親鸞聖人の解釈を受け入れていく、という意味です。それを存覚上人は「勘得せず」「聖人の宏才仰ぐべし」と表現され、蓮如上人も評価なされているのです。親鸞聖人の解釈と関係ないところまで無条件で従っていくということではありません。
実際、蓮如上人は親鸞聖人のなされたことと違うことをされていて、それ故に蓮如上人を批判する人もあるくらいで、高森会長も著書でそれを言っているのですから、親鸞会は自己矛盾に陥っているのです。

訳の分からない高森会長の指示を「深い御心」というのとは次元の違う世界です。

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