当ブログへのアクセスが飛躍的に伸びました。これも高森会長の御教導の賜物なのでしょう。多くの親鸞会会員が読んでくれているものと期待しています。ところが、親鸞会側から、誰一人私に斬り込んでくる様子がありません。弘宣局長からも、音沙汰なしです。
その程度の団体と覚悟なのです。命がけの布教、命がけの求道といっても、所詮はお遊びです。
さて、機の深信については、この程度にしておいて、最後の善知識への無条件服従について述べたいと思います。
1.獲信していない人の死後はどうなるか
親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間
2.五逆罪・謗法罪について
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている
3.善人と悪人について
親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である
4.獲信のために善は必要か
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない
5.白道とは
親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力
6.定散二善について
親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ
7.19願について
親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ
8.宿善について
親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
9.機の深信について
親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる
10.善知識に無条件服従しなければならないか
親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ
カルト教団の象徴的な点が、絶対的指導者への絶対的無条件の服従を強いることです。親鸞聖人の教えに、そんなカルト要素があるのかといえば、ありません。親鸞会がよく使う『御一代記聞書』192
善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも、仰せならば成るべきと存ずべし。この凡夫の身が仏に成るうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。しかれば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せにて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。
ですが、ここには蓮如上人のお言葉は一切ありません。蓮如上人のお言葉の場合には、「前々住上人」とか「仰せられ候ふ」という言葉が必ず入りますが、ここにはありません。従いまして、ここは『御一代記聞書』を編纂した著者の意見と道宗の意見とが書かれているだけです。それを、蓮如上人が自分への無条件服従を仰ったお言葉、として説明しているのですから、まさにカルト教団でしょう。
また同じく『御一代記聞書』159に
前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。
を無条件服従の根拠として親鸞会は使いますが、ここには「前々住上人」「仰せられ候ふ」とありますので、これは蓮如上人のお言葉として書かれているところです。蓮如上人は親鸞聖人の御心が判らないところがあっても、親鸞聖人が仰った通りにしていくのだ、と仰ったのですが、親鸞会で言っている説明とニュアンスが違います。
たとえば、親鸞会では
親鸞会講師部員聖則
一、会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、上司の指示は会長先生の命と心得ます。
としていて、まさにカルト教義ですが、蓮如上人の仰っていることとはずれがあります。蓮如上人は親鸞聖人の教えられた教え、解釈について従っていく、という意味です。
関連する内容で『御一代記聞書』304に
存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。
(現代語訳)
「存覚上人は大勢至菩薩の化身といわれている。
ところが、その上人がお書きになった『六要鈔』には、三心の字訓やその他の箇所に、<知識の及ばないところがある>とあり、また、<親鸞聖人の博識を仰ぐべきである>とある。
大勢至菩薩の化身であるけれども、親鸞聖人の著作について、このようにお書きになっているのである。
聖人のお心は本当にはかりがたいということを示されたものであり、自力のはからいを捨てて、他力を仰ぐという聖人の本意にもかなっているのである。
このようなことを存覚上人のすぐれたところなのである』と仰せになりました。
とあります。親鸞聖人には、確かに独特の解釈をなされた箇所がありまして、凡人の理解の及ばないところがありますが、そんな箇所についても親鸞聖人の解釈を受け入れていく、という意味です。それを存覚上人は「勘得せず」「聖人の宏才仰ぐべし」と表現され、蓮如上人も評価なされているのです。親鸞聖人の解釈と関係ないところまで無条件で従っていくということではありません。
実際、蓮如上人は親鸞聖人のなされたことと違うことをされていて、それ故に蓮如上人を批判する人もあるくらいで、高森会長も著書でそれを言っているのですから、親鸞会は自己矛盾に陥っているのです。
訳の分からない高森会長の指示を「深い御心」というのとは次元の違う世界です。
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