「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」
もう少し面白いネット対策をしてくるのかと期待していましたが、偽装退会者のブログを見ても判るように、結局は外に対して何の対策もできない無能を証明しただけです。
さて、機の深信とは、逆謗の屍と知らされることだ、というのが高森会長の説ですが、善知識方でそのように仰った方は、誰一人ありません。
そのように言うと、
機の深信に「罪悪生死の凡夫」とあるだろう。極悪人と知らされないのは、異安心だ!!
と某弘宣局長は言っているそうですが、「罪悪生死の凡夫」がどうして極悪人という意味になるのでしょうか?
国語の授業をします。善導大師の御文を通して、見てみましょう。
親鸞会でよく使われる機の深信は『散善義』にあります。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
これを極悪人と自覚することだと錯覚するのは、単に古文が理解できないからです。
比較の為に善導大師が機の深信としてもう一か所書かれてある『往生礼讃』には、
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
とあります。これは親鸞聖人も信巻に引かれていますので、親鸞聖人のお言葉であり、親鸞聖人の信心そのものです。この御文には極悪人を連想させる単語を見つけ出すのは、流石に無理でしょう。
では『散善義』と『往生礼讃』とは、機の深信が違うのか?
そんな筈はありません。当然同じです。
仏教の常識と古文の常識があれば
「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」
ということが判ります。つまり
「罪悪生死の凡夫」≠極悪人
です。
これでも納得できない頭の固い人もあるでしょうから、最近2回のエントリーで予習した『散善義』の
わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。
(現代語訳)
わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏をもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。
とを読み比べれば一目瞭然です。
「罪悪生死」=「煩悩悪障」
です。
親鸞会の根本的な錯覚は、
善人は悪をしない人
と考えていますが、それは仏のことで、正しくは
善人とは善のできる人であるが、煩悩がある限り悪を造る
ということです。
では、善導大師は無善だったのかといえば、「菩薩の道を行じ」た上で、「福慧は微微」であり、「善根薄少」と仰っています。善導大師は、善はできた方です。ただ、その程度の善では「今日に至るまで、虚然として流浪す」であり、「曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」であり、「三界に流転して火宅を出でず」なのです。
つまり、機の深信とは、
自力では出離することができない
ということなのです。
機の深信を解説なされた存覚上人は『六要鈔』の中で
「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。
とされました。
「無有」等
とあるのが『散善義』における機の深信の「出離の縁有ること無し」のところで、機の深信の説明が、善の有無を論じない、自力が無功であることを説明されています。
国語の授業と同じで、1つ1つ文章を見ていけば、難しいことではありません。皆同じ意味で言葉を換えられているだけです。
これだけ説明すれば、
機の深信とは、逆謗の屍と必ず知らされること
と解答したら、国語の試験でも0点だということが判るでしょう。
真宗学の勉強の前に、国語の勉強をしないと、新入生にも笑われますよ。
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コメント
親鸞会の人には国語の勉強に加えて、道徳の授業も受けてもらわないといけませんよね。せっかく高校まで習ってきた事が、高森信心によって台無しです。約束の一つも守れなくて善の勧めとか、持戒(言行一致)とか言わないでもらいたいです。
高森会長及び会員の皆さん、会長は12年ほど前にこんな内容の載った本を書いていますよ(大沼師のパクリですけど)。
約束は、必ず、はたさなければならない
(中略)
『儲け』は「信用のある者へ」と書いてある。
たとえ自分に不利益なことでも、誓ったことは、必ずはたすのが信用の基である。
はたせぬ約束は、はじめからしないこと。相手に迷惑をかけるだけでなく、己をも傷つける。(『光に向かって100の花束』p.20~p.22)
パクった上にパクった内容とは真逆なことをしている、無智無戒の会長であることが分かるでしょう。ですから信用もなくなり結果儲けもなくなっていく。こういうのを自業自得というのでしょうね。
投稿: 淳心房 | 2012年5月17日 (木) 22時45分
儲けは信者なんですがね。つまりカルト教祖は信者から金を取って儲けると。
投稿: | 2012年5月18日 (金) 12時44分
淳心房 様
他因自果としか思っていないでしょう。どこどこまでも、矛盾に満ち溢れています。
名無し 様
その通りでしょう。
投稿: 飛雲 | 2012年5月18日 (金) 20時16分
# 機の深信とは、逆謗の屍と必ず知らされること
と解答したら、国語の試験でも0点だということが判るでしょう。
真宗学の勉強の前に、国語の勉強をしないと、新入生にも笑われますよ。
逆謗の屍、という言葉は教行信証の中に無いようです。
何処から持ってきたのでしょうか。。
投稿: 早苗 | 2012年5月18日 (金) 21時16分
早苗様
名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり(高僧和讃)
からでしょうね。ただそれでも「逆謗の屍骸もとどまらず」とあるように仏道の死骸のようなものである五逆、謗法のものでも救われる、ということです。「行文類」の海釈にも
「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上} 願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。
(「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。本願の海には、下類の声聞や中類の縁覚の自力雑行の善の死骸を宿しません。まして人間や天人の偽善や、煩悩の毒のまじった自力心の死骸を宿すはずがありません。)
とあります。全ての人が逆謗の屍骸という意味にはなりません。
投稿: 淳心房 | 2012年5月19日 (土) 02時21分
早苗 様
淳心房 様
親鸞聖人の御著書など読んでいる訳がないです。
直接には大沼師からのパクリです。たとえば『法界』には、以下のようにあり、高森会長の説明は全くこの通りです。
十方の有情一人として逆謗の屍でない者は居ないのだ。若しないとすれば法蔵菩薩は願行を成就し替えなければならないのだ。五劫思惟の古に有漏の凡夫の腹底を見抜かれた時、世出世の最低の悪は逆謗の屍であることを見抜いて願行を成就されてあるのに素直な者と自惚れて居ては凾蓋相応しないのだ。
調熟の光明のお育てにより調機誘引されて素地のまんまが照し出された時、唯除逆謗と除かれた屍が自分であった事に気がつくのだ。
投稿: 飛雲 | 2012年5月19日 (土) 05時20分
いろいろ教えて頂きありがとうございます。
教行信証を読んでいない浄土真宗の団体の会長
は存在するのですか?(解らない)という事なら
あり得るかもしれませんが。
それにしても会長根拠に会員は正しいと言ってい
ますよ。会長の何を根拠に素晴らしいとか人格者
だとか言えるのでしょう。適当に褒める癖でも
ついていない限り不可能と思いますが。
投稿: 早苗 | 2012年5月19日 (土) 07時10分
ネット対策会合したのかw
親鸞会を自ら内部崩壊させることがネット対策になると思うけどw
その場しのぎの対策しか思いつかない限りどんな対策しても時間の無駄無駄無駄!!
投稿: | 2012年5月19日 (土) 23時42分
あうあう 0点でした。
必ずとかいうあたりが詐欺師っぽいですな
ホウボウザイしてはならないと言いつつ屍と言うあたりは、従え謗るな、と言ったところでしょうか。
大体なんで阿弥陀様限定で逆ホウとか言いたがるんでしょうな。
一本にまとめて吊り上げたいんでしょうかな。
国語の勉強をし直そうと思いました。
投稿: 影楼 | 2012年5月20日 (日) 00時44分
早苗 様
大沼師の著書を読んで、善知識方の御著書を読んだつもりになったのでしょう。
大沼師には、危ない表現がおおくあります。逆謗の屍がそうですが、そのまま理解すると、善知識方の意図に反することにもなりかねません。しかし、大沼師の主張は首尾一貫していますので、大沼師の言っている通りに高森会長が教えていたら、至る所に矛盾が生じることはなかったでしょう。大沼師を利用することで、偉大な学者を演じることができ、ついでに人格者も演じたのでしょう。
投稿: 飛雲 | 2012年5月20日 (日) 06時48分
名無し 様
時間も無駄なら、お金も体力も、そして人生も無駄にしていますよね。
影楼 様
会員を騙して、お金をとれれば、何でもいいのでしょう。
会員には、まず国語の勉強をしてもらいたいですね。
投稿: 飛雲 | 2012年5月20日 (日) 06時52分
少なくとも子供は聞かない方が良いです。
儲ける、は
にんべん(イ)+(諸)
なのでテストに出されたら困ります。
投稿: R | 2012年5月20日 (日) 14時32分
久々にのぞいてみました。
この前親鸞会だった時の同じ大学の人に会ったら、1人はササッと逆ターン、もう1人は目があってしまったのでこちらもガン見してたらゆっくり後ろに下がっていって柱の影に隠れました。
何とまぁ・・・まぁ執拗に付き纏うよりはマシなんですけどね。
それにしても実験が大変でなかなかのぞきに来れない・・・
投稿: speed | 2012年5月21日 (月) 21時48分
R 様
高森会長の言っていることで、参考になるのは、パクリ部分のみです。それは大沼師・伊藤師の言葉そのままだからです。
speed 様
会員は、どれだけ自信がないのかと思います。
時間を見つけては、覗いてもらえるとうれしいです。
投稿: 飛雲 | 2012年5月21日 (月) 22時38分
>善導大師は無善だったのかといえば、「菩薩の道を行じ」た上で、「福慧は微微」であり、「善根薄少」と仰っています。善導大師は、善はできた方です。
>(「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、
善導大師の仰っている「善根薄少」の善根は、雑行、雑種の善根のことですか?
投稿: | 2016年1月19日 (火) 00時29分
最後の名無し 様
雑行とは、聖道門の善を浄土往生のためにしたものですから、雑行も聖道門の善も行は同じものです。
善導大師は聖道門の善の意味で仰っていますが、それを雑行と言っても、善根自体は同じなので別に拘る必要はないと思います。
投稿: 飛雲 | 2016年1月19日 (火) 07時04分
飛雲様
早速のコメント有難うございました。南無阿弥陀仏
投稿: | 2016年1月19日 (火) 17時47分