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2012年5月 9日 (水)

宿善の機に対して18願、無宿善の機に対して聖道門・19願・20願を説かれた

阿弥陀仏の慈悲は平等でも、機がそれぞれ違うために、「宿善の機」「無宿善の機」と差ができてしまうのです。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、18願での救いを願い求めている人のことであり、「無宿善の機」とは、18願での救いを願わない人のことです。
宿善の機」と「無宿善の機」の違いは、18願での救いを願うかどうかです。

善知識に遇わず、18願の教えに遇わなければ、救われることはありません。
宿善の機」とは善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のあった人です。
無宿善の機」は善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のない人、もしくは遇っていても信じる気持ちがなければこの因縁のない人です。

したがって、「宿善の機」に対してと「無宿善の機」に対しての話が違ってくるのは当然なことです。それで『御文章』3帖目第12通

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と仰っているのです。

以上のことをよく理解できれば、釈尊が八万四千の法門といわれる多くの方便を駆使された理由も、阿弥陀仏が19願、20願を建てられた理由も判る筈です。

18願を信じられない、18願を願う気のない「無宿善の機」に、18願を説いても誹謗するだけです。そのために、18願を信じて願い求める気持ちにさせるまでの手立てとして、権仮方便の聖道門、19願、20願が必要であったのです。
しかし、すでに18願を信じて願い求めている「宿善の機」には、わざわざ遠回りをさせる必要がありませんので、「宿善の機」に対しては18願1つを説き聞かせるのが善知識の役割になります。

親鸞会では、信前の人は同じ方便の道を通らなければならないと教えていますが、機が違うのですから、すべての人が同じ方便の道を通ることにはなりません。人それぞれ機が違いますので、釈尊は機に応じて「八万四千の法門」を説かねばならなかったのです。親鸞会でも対機説法という言葉は知っていますが、その意味を知らないのでしょう。

この善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁である「宿善」を、獲信のための因縁と理解してしまったのが親鸞会です。

宿善」の説明として親鸞会で最近よく使われているのが『唯信鈔文意』

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。

です。このお言葉も、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁と理解すれば、筋が通ります。
しかし、この御文の前後を見ると、少しニュアンスが違ってきます。

この御文は、善導大師の『法事讃』にある「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」の解説をされた中の一部です。ここで

 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
 「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。

(現代語訳)

 「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまの善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の報土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の報土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのである、「難生」とは生れることができないというのである。
 「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すものばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。

とあり、獲信のためには善を捨てて念仏を立てよ、との御教示です。その上、断章取義している先程のお言葉の次には

他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

(現代語訳)

至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。

と付け加えられていますので、親鸞聖人が仰りたかったことは、獲信のためには捨てものの善ではあっても、18願の教えに遇う因縁になったのだから、善や諸仏・菩薩を謗ってはいけない、との誡めです。
従って、獲信のために善を勧められたお言葉ではありません。その逆ですが、行き過ぎて造悪無碍の邪義に陥ることを警戒されて補足されたものと判ります。
もしこれが善を勧められたお言葉というのであれば、「善根」だけを切り取らずに、「三恒河沙の諸仏」「余の仏聖」に仕えることも勧められたお言葉としなければなりません。しかしそれは絶対にいいません。”無二の善知識”たる高森会長に仕えよ、とは教えますが。

とにかく、親鸞会は断章取義ばかりですから、矛盾した論理で溢れかえっています。
意味を知ってか知らずか、誤謬が酷すぎて、外から親鸞会をみると本当に恥ずかしい団体です。

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コメント

恥ずかしさついでですが、「信心というモノを
頂く」の発想が世界救済教とソックリではない
ですか?もっとも、世界救済教は光る玉を小袋
に入れて全員持ってるようですが。

投稿: 早苗 | 2012年5月11日 (金) 14時15分

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