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2012年5月 6日 (日)

真宗における宿善の定義さえも知らない無知の知識

高森会長は、故意に捻じ曲げた部分に加え、これまで正しいと完全に思い込んでいた自説までも、微妙に修正してきています。そのことをもって、

正しい教えになってきているから、高森会長から話を聞いてもいいではないか

という会員がいます。講師部員の中にも、そう思い込もうとしている人がいると思います。しかし、これは自分自身の費やしてきた親鸞会歴を否定したくないだけの言い訳に過ぎません。
高森会長が少しくらい教えを修正したところで、親鸞聖人の教えと向きが180°違っていたのが175°に変わるに過ぎません。
結局のところ、そんな会員も講師部員も、そして高森会長自体、親鸞聖人の教えなどどうでもよいとしか思っていないのでしょう。つまり、浄土往生など興味のないことであり、お山の大将とその仲間たちのサークルで遊びたいだけなのかもしれません。それなら、やはり「浄土真宗」とか「親鸞聖人」とかいうべきではないでしょう。

さて、宿善とは通仏教で過去世の善根という意味で使われてきたのですが、そんな時代背景もあってか、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中で使われたことは一度もありません。
ところがその後、覚如上人が宿善という言葉を意味を変えられて使われるようになり、それが今日の真宗における宿善の定義となっています。そのことがよくわかるのが、唯善との論争です。『慕帰絵詞』にこのように記されています。

法印(覚如上人)は、「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。

此処に法印重ねて示すやう、
「『大無量寿経』には、『若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教』と説かれたり。
宿福深厚の機は即ちよくこの事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じ難しといふこと、明らけし。
随ひて光明寺和尚(善導大師)この文を受けて、『若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜』と釈せらる。
経釈共に歴然、争かこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとは宣ふや」と。

其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。

その後は互ひに言説を止めけり。

簡単にいえば、唯善が、「阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓っておられるから、宿善の有無に関係なく救われるのだ」、と主張したのに対して、覚如上人が、「宿善が有るから善知識に遇うことができ、信心決定して救われるのだ」、と反論されたのです。唯善の言っていることは、法然上人と同じことです。従って、唯善の主張は間違いではありません。それで「その後は互ひに言説を止めけり」という玉虫色の決着となっています。
この論争を通して覚如上人は、宿善を、善知識に遇う因縁、という意味で仰っていたことが判ります。もともと『浄土十疑論』でもその意味ですが、それはイコール過去世の善根です。参考までに道元禅師は『正法眼蔵』の中で、

いまわれら宿善のたすくるによりて、如來の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。

と書いていますが、曹洞宗での「宿善」も「如來の遺法にあふ」因縁としています。

覚如上人は、宿善を善知識に遇う因縁という意味として定義され、過去世の善根という意味とは切り離されました。それが『唯信鈔』に倣って仰った『口伝鈔』の、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。
(中略)

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

です。ところが、高森会長はそんな経緯も意図もまるで知りません。

宿善
=獲信の因縁
=過去世の善根

これ以外の理解など全くできないのです。しかし覚如上人はこれを否定されて、定義をされたのが、

宿善
=善知識に遇う因縁
≠過去世の善根

です。それを同じく『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

となされているのです。それで存覚上人も『浄土見聞集』で

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。

と覚如上人の定義を踏襲され、蓮如上人も『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

となされ、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁、18願を信じて願い求める気持ちがある人を「宿善の機」と仰っているのです。

宿善について誰も判っていない、判っているのはこの地球上で唯自分一人だけだ

と豪語していた高森会長が、今更宿善の理解が間違っていました、などという筈もないです。誤りを認めず、親鸞聖人の教えを捻じ曲げたまま会員から搾取し続ける人物に従うことがどんなことか、理性が残っていれば判ると思います。

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コメント

正しい教えになってきた?という事は今まで
間違いだったのが修正されて来たという言い訳
か。正しい教えになってきたようないい加減な
話など聞く必要は全く無く、始めから正しい話を
聞けば良い。

投稿: 早苗 | 2012年5月 7日 (月) 22時15分

浄土真宗も余り理解していないフラフラして
高森親鸞会へ行ってみたり、媚びてみたり、
「イイコぶりっこ」を誰にでもして、陰口
大好きな人間は、足ばかり引くからお気を
つけられて。高森親鸞会の中で長年生きた
悪癖が抜けるのは時間がかかります。悪気は
無くても自覚の無いのは困ります。

投稿: 早苗 | 2012年5月 7日 (月) 23時32分

『正しい教えになってきているから、高森会長から話を聞いてもいいではないか』


親: どうしてそんなお金のかかる彼氏と付き合っているんだ。
   しかも高飛車で傲慢で自分勝手だ。 幸せにはなれないよ!

娘: お金は確かにかかるけど生活はできてるし。。。幸せよ、とっても。
   彼は自分勝手というより、自分に素直なのよ。最近は少し自分勝手じゃなくなってきたし。。
   だから付き合っててもいいでしょ。


↑こういう娘をなんとか別れされるのはなかなか難しいのでしょうが、言い続けるしかないですね。

投稿: YGM | 2012年5月 8日 (火) 08時46分

早苗 様
YGM 様

仰る通りですね。こんな状態に陥ってしまうと、かなり重症です。

投稿: 飛雲 | 2012年5月 9日 (水) 21時31分

YGM様、コメントありがとう御座います。
ところで、すみません私が分かりません。
飛雲様、R曰くの事「慕記絵詞の最後、法印
の言いたかった事をいくら調べても分からない」
と言うのです。
其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。
その後は互ひに言説を止めけり。

コピーですが原本に近いと本人は言うのですが
覚如上人と唯善に法印は何を言いたかったのか、
分からないそうです。唯善といえば、宿善を
取っ払ってしまったと悪玉のように伝えられます
が法印はどちらが正しいか、または間違いかまたは
何を言いたかったのか、分からないとの事でした。
私に聞かれても、分かりません。お時間のあられる
時で宜しいですので、また教えて下さいませ。
R大学では探し方が悪かったのか、無理でした。
難しいです。

投稿: 早苗 | 2012年5月13日 (日) 18時10分

早苗 様

法印とは、覚如上人のことです。
覚如上人の仰っていることは、宿善で往生が決まるのではないが、宿善がなければ善知識に遇うことができず、善知識に遇えなければ信心決定できず、往生できないのだ、ということです。つまり、往生には宿善が必要だ、と仰っているのです。この宿善を過去世の善根と理解するのが聖道門であり、親鸞会です。この意味において唯善は宿善は不要と主張したのですから、正しいことです。しかし、法印(覚如上人)は、宿善を過去世の善根という意味で言われてはいないのです。それをこの後のエントリーで説明したのですが、簡単に言えばここで覚如上人が仰っている宿善とは善知識に遇う因縁のことであり、それは阿弥陀仏の光明によるお育て、とされたのです。
宿善の定義を踏まえないと法印と唯善のそれぞれの主張が理解できないと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年5月13日 (日) 18時27分

ありがとうございました!最後の学者に引っかかっただけで
よく分かりました。また、宜しくお願いします。絵巻も一年
で出来上がってしまってるので、謎でした。(^-^)/早い回答
恐縮です。

投稿: 早苗 | 2012年5月13日 (日) 19時16分

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