« かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず | トップページ | 弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり »

2012年5月14日 (月)

法蔵菩薩の五劫兆載の願行だけでは不足だとする親鸞会

前回、善導大師の『散善義』にある

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

を紹介しましたが、「菩薩の道を行じ」て出離した聖者が多くいる一方で、「菩薩の道を行じ」ながらも出離できずに流転を繰り返している善凡夫もいます。ところが、「菩薩の道を行じ」るどころか仏法さえ聞いていない無善造悪の悪凡夫も多いのです。この無善造悪の悪凡夫を救わんがために建てられたのが18願なのです。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことを知れば、親鸞会の邪義が明白になります。

この無善造悪の悪凡夫、過去世に善根を積んでこなかった者が、なぜ救われるのかについて、『安心決定鈔』で判りやすく書かれています。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行でないと知らねばなりません。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたからであります。此仏が凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたことを領解させて頂いて、仏に救わるる事となったのを三心(至誠心・深心・回向発願心)とも三信(至心・信楽・欲生我国)とも信心ともお示し下されてあります。かように仏が凡夫の願行を御名に成就して下されてあるのを口に称えあらわす、それが南無阿弥陀仏の称名念仏であります。
かような訳で、仏が凡夫の願行を成就して下されたことを領解し、称うるのでありますから、領解も自分の機の力であると自分に功を認めなくて、全く仏の願力であると功を願力にもどし、全く他力を仰ぐのであります。

下品下生が、臨終の苦しみで阿弥陀仏を念ずることもできないお粗末な念仏でも、往生ができるのは、「凡夫の願行」ではなく、「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」を回向して下されるからです。それを受け取るだけなのです。こちらから用意するものは何もないのです。過去世において善根を積むとか、今生で善に励んで宿善が厚くならないととか、19願を実践しなければ、などと言っているのは、「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」だけでは不足だと、仏智を疑う罪なのです。

ヘンテコ因果の道理を押し付け、仏智疑う罪を造らせて、それで会員が救われる筈がないです。

最近の親鸞会は、講師部員に布教ではなく、弁当販売をさせています。邪義を捲き散らすよりはいいかもしれませんが、何の団体なのか判らなくなりました。

高森会長の思いつきの事業に、無償で奉仕させられる講師部員と幹部会員は疲弊しきっています。会員は親鸞会の大事な金蔓ですから、余り無茶なことは言っていないようですが、講師部員の扱いは奴隷並です。講師部員も段々減ってきていますし、突然、何か異変が起こるかもしれません。

|

« かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず | トップページ | 弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり »

コメント

仏法を聞いたこともない者が臨終にでも名号と出会うことのあるのは何故なのでしょうか?

投稿: 善人 | 2012年5月15日 (火) 06時21分

善人 様

『往生要集』に「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。 」とあるように、不可思議な因縁としか言えないでしょう。親鸞聖人のお言葉で言うならば、「遠く宿縁を慶べ」です。
何らかの因縁があったのは、間違いなのですが、それが何なのかは「その縁知りがたし」です。
それが判ったならば、源信僧都以上でしょう。

投稿: 飛雲 | 2012年5月15日 (火) 07時02分

お答え頂き有難うございます

重ねてお尋ね致します。
「遠く宿縁を慶べ」と仰るのは他ならぬ阿弥陀仏とのご縁と思えばよろしいのでしょうか。仏法との縁とか釈迦との縁だとなれば、宿善なき者を救うのが18願の眼目だという飛雲さまのご主張の根拠にはなりませんものね。
とすると、過去世に阿弥陀仏とのご縁あればこそ、今生で仏法聞かなくとも臨終に名号と出会えたということになります。無善造悪の者を救う18願といえども、過去世からの縁なくばいかな阿弥陀仏といえども救えない、ということになると思いますがいかがでしょうか。

投稿: 善人 | 2012年5月15日 (火) 09時54分

善人 様

阿弥陀仏との御縁といっても、どのような御縁かは判りません。仏法を聞いていないというのも、知らないのとは違います。仏法に触れる御縁がありながら謗る人もあれば、無関心な人もあります。そういう御縁もある訳ですから、不思議な因縁としか言い様がないのでしょう。
繰り返しますが、源信僧都でさえ判らないと仰る過去世の因縁を論じるのは、私は無意味と思います。だからこそ、覚如上人は阿弥陀仏の光明によるお育てとなされた訳です。それはどんなお育てだ、と迫るかもしれませんが、それを追求することが無意味だということです。

投稿: 飛雲 | 2012年5月15日 (火) 10時46分

『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれてこのようにあります。

迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅睺羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。{乃至}善男子、如来よく衆生のかくのごとき上・中・下の根と知ろしめす。このゆゑに仏は具知根力と称せしむ〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来はこの知根力を具足したまへり。このゆゑによく一切衆生上・中・下の根、利鈍の差別を知ろしめして、人に随ひ、意に随ひ、時に随ふがゆゑに、如来知諸根力と名づけたてまつると。{乃至}あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり〉と。

(現代語訳)

 迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。

 釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅睺羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。(中略)善良なものよ、如来はこのように衆生の資質がすぐれているか劣っているかを知っている。だから仏のことを、衆生の資質を知る力をそなえたものと称するのである>と。

 迦葉菩薩が釈尊に申しあげる。<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられます。だから、すぐれているか劣っているかなど、すべての衆生の資質の違いを知って、その人に応じ、その心に応じ、そのときに応じて法を説かれるから、如来のことを、衆生の資質を知る力をそなえた方、と申しあげるのです。(中略)あるときは、四重禁戒を破ったもの、五逆罪を犯したもの、一闡提などにも、みな仏性がある、とお説きになるのです>(中略)

闡提の善星を釈尊が導かれることが説かれていますが、過去世においての仏方のお育て、お導きがどうであったのかは、浅智で判る筈もないことですが、何らかの因縁があったことは間違いないことでしょう。

投稿: 飛雲 | 2012年5月15日 (火) 11時01分

なるほど。
よくわかりました。
善人さんは、過去世に善をしてきたまさに善人なのでしょうが、私のような下劣の者は、過去世に善や仏法を求めてきたとは思えません。
しかし、そんな私を阿弥陀仏は見捨てずにお育て下さいました。遠く宿縁を慶ばずにおれません。

南無阿弥陀仏、名無阿弥陀仏

投稿: 一悪人 | 2012年5月15日 (火) 14時45分

過去がどうであったかなんて、救いとは関係ないのですから、善人さんもへんなことにいつまでもこだわらず、遠く宿縁を慶んでください。

投稿: 一悪人 | 2012年5月15日 (火) 15時11分

善人さんの
「過去世に阿弥陀仏とのご縁あればこそ、今生で仏法聞かなくとも臨終に名号と出会えたということになります。」
という主張は宿作外道の考え方です。
宿作外道の思想は親鸞会の特徴の一つです。
今生で初めて名号に遇ったとしても何の問題もないのではありませんか?
それに、過去世の阿弥陀仏とのご縁がどうしても気になるなら、十劫以来の光明遍照十方世界のご縁がありますから心配いりません。大象百頭より強い大願業力のご縁が十方衆生にかけられているではありませんか。
せっかくここまでたどり着いたのですから素直になったほうが身のためです。

投稿: 下品下生にも入らない | 2012年5月15日 (火) 17時48分

飛雲様
丁寧なご返答有難うございました。
確かに過去の縁は知り難いですし、またそれを追求することに意味はないとは思いますが、
一方で、無宿善には念仏の教えを説くなとも言われるように、如来ならぬ凡夫の身でありながらも、人を見てその機を判断せねばならないのではないか。つまりは何がしか見分けることができるという意味にも取れる気もしますが、如何でしょうか。

一悪人様
そのようなレッテルを貼って、私を排除なさろうとする意図がわかりません。
飛雲さんのような碩学と自由に問答させて頂きたいと思っていますが、何か勘に触りましたか?
ちなみに私は某会の回し者ではありませんから、その点はご心配なきように願います。

投稿: 善人 | 2012年5月15日 (火) 17時56分

下品下生にも入らない 様
>「過去世に阿弥陀仏とのご縁あればこそ、今生で仏法聞かなくとも臨終に名号と出会えたということになります。」
という主張は宿作外道の考え方です。

それならば親鸞聖人の「遠く宿縁を慶べ」はどういう意味になりますか。

投稿: 善人 | 2012年5月15日 (火) 18時11分

善人 様

>無宿善には念仏の教えを説くなとも言われるように、如来ならぬ凡夫の身でありながらも、人を見てその機を判断せねばならないのではないか。つまりは何がしか見分けることができるという意味にも取れる気もしますが、如何でしょうか。


これは、法を伝える人間の立場でのことです。判断基準は、18願念仏往生の教え、つまり親鸞聖人の教えを信じて聞く気があるかどうかです。聞く気が有る人(宿善の機)には、念仏の教えを説けばいいですが、聞く気のない人、却って謗るような人(無宿善の機)には念仏の教えを説いてはならない、という意味です。
過去世においてどうであったかで問題はなく、今、現に聞く気が有るか無いかの問題です。

それと『涅槃経』のお言葉を参考に出しましたが、念仏の教えを聞く気のない無宿善の機に対して導けるのは、仏もしくは菩薩です。化土巻にやはり『涅槃経』を引かれて

またのたまはく、「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。世尊、なにをもつてのゆゑに、つねに三種の善調御をもつてのゆゑなり。なんらをか三つとする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもつてのゆゑに、菩薩・諸仏はすなはちこれ真実の善知識なり。(以下略)

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、もっともすぐれた真の善知識は、仏や菩薩たちである。なぜなら、常に三つの善い方法で衆生の心をととのえて導くからである。その三つとは何かというと、一つには、この上なくやさしい言葉を用いること、二つには、この上なくきびしい言葉を用いること、三つには、やさしい言葉ときびしい言葉を併せて用いることである。このようなわけで仏や菩薩たちは真の善知識なのである。


とあります。親鸞聖人、蓮如上人と言えど、菩薩でももちろん仏でもありませんので、話をされた上で宿善の機を判断されて、教えを説いて行かれたのだと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年5月15日 (火) 18時27分

善人 様
正確な解釈は存じませんが、私は十劫以来かけて下さった光明のご縁だと思っています。
阿弥陀如来の光明は無碍光ですから十方を貫いて届いて下さっているはずです。
このように理解しても親鸞聖人の「遠く宿縁を慶べ」のご文に反しないと思います。

投稿: 下品下生にも入らない | 2012年5月15日 (火) 20時27分

飛雲様
お答え頂き有難うございました。
聞く人かどうかは話してみないとわからない、ということですね。

下品下生にも入らない様
>十劫以来かけて下さった光明のご縁

それって、阿弥陀仏の光明のことですから、私が最初に言った「阿弥陀仏とのご縁」の言い換えにしか過ぎないのではないですか?それなのに私は宿作外道呼ばわりされてるわけですか。

投稿: 善人 | 2012年5月15日 (火) 21時32分

善人 様
言い換えではありません。
「無善造悪の者を救う18願といえども、過去世からの縁なくばいかな阿弥陀仏といえども救えない」とあなたは仰いました。
過去世からの縁がなくて今生でいきなり救われることがあってもよいのではないかと私は思います。
何事にも最初がありますから、阿弥陀仏とのご縁を初めて結んだ瞬間があるはずです。十劫以来光明のご縁を結んで下さっていますが、それより昔、例えば十一劫前はご縁がなかったかもしれません。
過去世で縁がなければ今生で縁を結べないとなると、現在縁のない人は未来永劫縁を結べないことになります。そのことを宿作外道と言ったのです。

投稿: 下品下生にも入らない | 2012年5月16日 (水) 00時02分

下品下生にも入らない様
>過去世からの縁がなくて今生でいきなり救われることがあってもよいのではないかと私は思います。

正直、大変驚きましたというか呆れました。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。」

ここをどう読んだらそんな考えになるのかわかりませんが、それは浄土真宗ではありえません。
そんな理解をしていながら、よくもひとを外道呼ばわりできたものです。議論にもならない。
これを放置されるのですか、飛雲様。

投稿: | 2012年5月16日 (水) 06時00分

前のコメントは私です、すみません。

下品下生にも入らない様
一つだけ言えば、今生で救われて「今生でいきなり救われることがあってもよいのではないかと私は思います」と思っている者に対して「遠く宿縁を慶べ」と仰言ったのが親鸞聖人ですよ。

投稿: 善人 | 2012年5月16日 (水) 06時08分

善人 様
下品下生にも入らない 様

過去世のことは判らないのですから、いくら論じても平行線を辿るだけです。
聖道門の修行をしてきた人もあるでしょう、仏法を謗ってきた人もあるでしょう、身近に仏法を聞いている人がいても無関心だった人もいるでしょう、念仏の称える人とすれ違っただけの人もいるでしょう、仏法とは直接関係したことがなかった人もあるでしょう。
したがいまして、これ以上の議論は無意味です。
ただ1つ言えることは、多くの人が阿弥陀仏の本願を疑って話を聞く気がない中で、今、阿弥陀仏の本願を聞いている不可思議な因縁を慶ぶことです。

投稿: 飛雲 | 2012年5月16日 (水) 06時27分

飛雲様

お答え頂き有難うございます。とにかくこれにてこの件は終わりにします。
それにしても「講師部員も段々減ってきていますし、突然、何か異変が起こるかもしれません。」とのこと。何か兆しでもあるのでしょうか。現体制の崩壊はひとえに講師部の爆発に期待するしかないと、かねてより思っております。
阿弥陀さま、どうか願力を彼らに。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

投稿: 善人 | 2012年5月16日 (水) 07時27分

善人 様

兆しとまではいえませんが、以前とは違う変化は随所に見られます。
それがどんな形で異変となるのか、あるいはならないのか、見守っていきましょう。

投稿: 飛雲 | 2012年5月16日 (水) 20時11分

最近やめた講師がいるのですか?

投稿: A | 2012年5月17日 (木) 15時44分

A 様

具体的なことは書けませんが、自ら退部した人、退部させられた人が、結構な数になるそうです。

投稿: 飛雲 | 2012年5月17日 (木) 20時45分

退会した講師や職員は、守秘義務に縛られて、内部の実態を告発できずにいます。
特に会長の回りにいる立場だった人は、会長に嫌気がさす程の思いを持っていますが、具体的なことは言えません。また既に離れた所の悪口を言うことは、己を貶めるだけであり、獲信の妨げであると思ってもいることでしょう。
これらの事情によって会は生き長らえているのが実情であり、残った講師や会員は隷属し続ける結果となっていると思っています。

投稿: 善人 | 2012年5月18日 (金) 00時07分

今までの累計の話でしたか。てっきり最近一斉にやめる動きがでたのかと思いました。

投稿: A | 2012年5月18日 (金) 14時36分

善人 様

どうでしょうかね。


A 様

誤解されているようですが、先に書いたことは、最近のことです。ただし、一斉にやめるという程ではないです。

投稿: 飛雲 | 2012年5月18日 (金) 20時13分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず | トップページ | 弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり »