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2012年5月 4日 (金)

宿善あつき善人は、をしへ候はねとも、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なとはいかにもいかにもつくるましき事にて候也

最近の顕正新聞・顕真を読むと、本願寺や華光会に対する誹謗中傷の記事は相変わらずあります。一方で、当方に対する誹謗中傷記事は全く見当たりません。最高の教学を自負する高森会長の出鱈目を、暴露し続ける当方の記事を載せることができないのは、もちろん反論できないからです。攻撃してこない相手を仮想の敵として中傷するだけで、攻撃し続ける本物の敵からは、逃げに逃げまくる、これが高森会長の真の姿です。

もし以上のことが嘘だと思われるのであれば、このブログを抜粋して講師部員にでも送り付ければいいでしょう。間違いなくだんまりを決め込みますから。

さて、通仏教における宿善の意味は、過去世の善根ということですが、この意味で宿善が厚くならないと救われないと教えている高森会長は、善知識方の宿善に対する仰せを何も知りません。

源信僧都に続いて法然上人のお言葉を見てみましょう。『拾遺語灯録』に以下のようにあります。

宿善によりて、往生すへしと人の申候らん、ひが事にては候はす。かりそめの此世の果報だにも、さきの世の罪、功徳によりて、よくもあしくもむまるる事にて候へ。まして往生程の大事、かならす宿善によるへしと、聖教にも候やらん。ただし念仏往生は、宿善のなきにもより候はぬやらん。父母をころし、仏身よりちをあやしたるほとの罪人も、臨終に十念申て往生すと、観経にも見えて候。しかるに宿善あつき善人は、をしへ候はねとも、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なとはいかにもいかにもつくるましき事にて候也。それに五逆の罪人、念仏十念にて往生をとけ候時に、宿善のなきにもより候ましく候。

宿善が厚い人が往生できるというのは嘘ではないが、それは諸行往生のことです。18願念仏往生は宿善のない者、たとえば五逆罪を犯した悪人が、念仏にて往生を遂げることができるということ、と法然上人は教えられています。宿善厚い人とはどんな人かについて、

宿善あつき善人は、をしへ候はねとも、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なとはいかにもいかにもつくるましき事にて候也

と仰っています。「宿善あつき人」というのは、善人であり、元々悪を恐れ、仏道を求める心が強い人で、五逆罪などは造る筈もない、ということです。九品で言えば、中品下生よりも上の人であり、親鸞聖人のお言葉で言えば「定散の機」ということです。つまり

宿善あつき人
善人
五逆なとはいかにもいかにもつくるましき
定散の機

ということです。また

宿善のなき人
=五逆の罪人
=五逆の機

となります。

高森会長の説明とは、まるっきり違います。
全人類が五逆の者であるなら、全人類は「宿善のなき人」になります。
宿善のなき人」が「宿善あつき人」にならなければ救われないならば、悪人が善人にならなければ救われないということで、悪人正機の否定です。
五逆の罪人」である「宿善のなき人」がそのまま救われると教えられた法然上人は、嘘つきと言っていることになります。

高森会長が如何に無知であるかが、この法然上人のお言葉だけでも判ります。

法然上人はこの後に、「五逆の罪人」である「宿善のなき人」が救われる理由について教えておられます。

されは経に、「若人造多罪、得聞六字名、火車自然去、花台即来迎極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽、若有重業障、無生浄土因、乗弥陀願力、必生安楽国」。この文の意は若五逆をつくれりとも、弥陀の六字の名をきかは、火の車自然にさりて、蓮台きたりてむかふへし。又きはめてをもき罪人の、他の方便なからんも、弥陀をとなへたてまつらは、極楽にむまるへし。又もしをもきさはりありて、浄土にむまるへき因なくとも、弥陀の願力に乗しなは、安楽国にむまるへしと候へは、たのもしく候。

阿弥陀仏の願力に乗ずるとは、過去世に善根を積んでこなかった悪人が、念仏以外の他の方便がなく、悪人が悪人のまま念仏して救われることなのです。こんなことは、浄土門では基本中の基本中の基本です。そんなことも知らずに、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

など考えることは、真宗では本当にありえないことです。

更に法然上人は

弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。

と高森会長の説を徹底的に論破しておられます。「宿善のありなし」は、問題にならないのです。

この源信僧都・法然上人の教えを承けて聖覚法印は『唯信鈔』で、

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

と書かれました。『浄土十疑論』では、「五逆の罪人」は「宿善業強」い者という前提ですが、聖道門の理論、親鸞会の理論ならば、「五逆の罪人」は「宿善少なきもの」となります。従ってこの理論には矛盾があることを聖覚法印が教えられるために言われた文で、「これは違うぞ」、というのを「これが正しい」という意味で親鸞会は引用しているのですから、完全な断章取義です。この後に

しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。

とあります。「宿善少なきもの」の五逆の罪人でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、五逆罪を造っていない我々は、「宿善あさし」と思うのは間違いだ、と言われたものです。聖覚法印も法然上人と同じことを言われているのです。

高森会長は、浄土門のどなたの説明からも逸脱した極めて珍しき教えです。というよりも、徹底的に矛盾した理論をなんとかしては、どうでしょう。嘘でも、話の辻褄くらいはあわせないと、知能の程が判ってしまいますよ。

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