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2012年5月 3日 (木)

「生死の因縁は不可思議なり」と仰る源信僧都、「諸善は信心獲得の因縁なり」と断言する高森会長

飛雲を読んではいけない

親鸞会では、当ブログを読むこと及び私に会うことを厳しく禁じています。私から親鸞会に法論の申し込みをすると、敵前逃亡。mixiや親鸞会関係のブログで法論をすると、沈黙。会員には、外部からの情報を遮断。親鸞会は、完全に土蔵秘事と化しています。
異論があればいつでも申し出てください」と豪語していた高森会長が、かつての弟子に畏怖しているのです。

そもそも高森会長は、聖教を読んでいないのですから、当然の結果でしょう。大沼師の著書だけは、隅から隅まで読んで、それで高森会長は大学者になったつもりでしょうが、大沼師は聖教の御文を個人的な味わいで表現ばかりしていますので、御文の解釈としては、大いに問題があります。大沼師自身がそう書いているのですから、大沼師が間違っているのではありません。大沼師の意図を汲み取れず、大沼師を利用して私利私欲を満たす創作教義を創り上げた高森会長に問題があるのです。

高森会長がどんな人物か知らない圧倒的多数の方には判らないかもしれませんが、高森会長には、一般常識はありません。常識がないから、一般の人から見ると考えられないような突飛な思いつきをします。それは、仏法においても同じです。仏法、真宗の常識がないから、突飛な思いつきの教えを説きます。それが、常識を逸脱しているが故に、一般の人、一般の真宗学者からは理解できないことが幸いして、

高森先生は何百年に一度の無二の善知識だ

と会員を錯覚させることに成功しただけのことです。

何のことはありません。ただの無知と非常識の人物と見れば、高森会長の言動のすべてに納得がいきます。

高森会長が最初に思いついた創作教義が宿善でしょう。親鸞会を作って間もなく、宿善の珍らしき教えを説き始めています。組織拡大のために、金集め人集めの名目を考えた結果が、”善”という文字のある宿善だったのです。もちろん、宿善の本来の意味を知る由もないでしょう。

宿善という言葉は、真宗だけでなく、聖道門でも使われる言葉です。善知識方で初めて宿善という言葉を使われたのは源信僧都です。『往生要集』には

『華厳』の偈に、経を聞くものの、転生の時の益を説きてのたまふがごとし。
 「もし人、聞くに堪任せるものは、大海および、
 劫尽の火のなかにありといへども、かならずこの経を聞くことを得ん」と。
 「大海」とは、これ竜界なり。
釈していはく、「余の業によるがゆゑにかの難処に生る。 前の信によるがゆゑにこの根器を成ぜり」と。
『華厳』を信ずるもの、すでにかくのごとし。 念仏を信ずるもの、あにこの益なからんや。かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。 かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。

(現代語訳)

《華厳経》の偈に、経を聞いた者が、生を変えた時の利益を説いていうとおりである。

もし経を聞くに堪えたものがあれば 大海に在っても
劫末の大火の中に在っても 必ずこの経を聞くことができる
「大海」というのは、竜のいる海である。

《華厳経》の釈にいわれている。その他の業に由るからかの難処に生まれ、前の信に由るから、この《華厳経》を聞きうる根機と成るのである。
《華厳経》を信ずる者であっても、すでにこのような利益がある。念仏を信ずる者に、どうして、この利益のないことがあろうか。かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。
それ故に《十疑論》にいわれている。
臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

と源信僧都は宿善の解説をなされています。前回紹介した『浄土十疑論』を引用しながら、『華厳経』を信じる人に倣って意味を変えられ、宿善を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。単なる過去世の善根という意味ではありません。その証拠に、

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。

善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。

また《大集経》の第七巻に説かれている。

もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

と教えられています。「生死の因縁は不可思議なり」です。五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。
そんなことなど、もちろん知らない高森会長は

諸善は、信心獲得の因縁なり

などと大法螺を吹いているのです。

真宗の常識が有ったら、こんなことはとても言えませんよ。

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