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2012年5月21日 (月)

機の深信も、もちろん法の深信も理解できない高森会長と講師部員

善導大師の仰った機の深信の意味が理解できれば、高森会長の言う善の説明がデタラメと判るでしょう。

善導大師は『散善義』至誠心釈

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。

(現代語訳)

すべての人たちが身口意の三業に修めるところの行業は、かならず真実心のうちになすべきことを明かしたいと思う。外に賢者や善人らしく励むすがたをあらわして、心の内にいつわりをいだいてはならぬ。むさぼり・いかり・よこしま・いつわり・わるだくみなど数かぎりなく起こり、悪性の変わりがたいことは、あたかも蛇や蠍のようである。三業に行を修めても、それは毒のまじった善と名づけ、また、いつわりの行と名づけるもので、決して真実の行業とは名づけられないのである。もし、このような自力の心をもって行業を起こす者は、たとい身心を苦しめ励まして、昼夜を問わず懸命に努め、あたかも頭上の火を払い消すようにしても、それはすべて毒のまじった善と名づける。この毒のまじった行を因たねとして、かの仏の浄土に生まれようと求めても、それは必ず不可である。

と仰っています。「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」は、親鸞会でも有名な御文ですが、その正しい意味を高森会長は知りません。「」とは身業・口業と高森会長は説明していますが、正しくは「身口意業」と意業を含めた「三業」であり、「起行」です。「」とは意業に決まっているではないのか、無知の高森会長は思い込んでいるでしょうが、これは「三業」「起行」とは別の「安心」です。つまり信心のことです。自分で起す信心ですから、自力の信心のことです。

自力の信心で行う善は、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。」となるのです。最後の「もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」は、機の深信と同様のことを仰ったものです。「雑毒の善」「虚仮の行」と、「無善」とは当然違います。善ができる前提で、その善が「雑毒の善」「虚仮の行」なのです。日本語として当たり前のことです。この当たり前のことが理解できないのが、高森会長であり、親鸞会です。

これを元にして親鸞聖人が仰ったのが、これも親鸞会で有名な『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。

です。この親鸞聖人のお言葉が、善のできない根拠だ、と親鸞会では教えていますが、如何に愚かな思考か、お判り頂けると思います。善ができるから、「雑毒雑修の善」であり、「虚仮諂偽の行」なのです。善のできない根拠ではなく、善のできる根拠です。ただ、その程度の善では報土往生ができない、と機の深信をこのように言い換えられたに過ぎません。ここにも逆謗の屍、極悪人という意味は全くありません。

何も難しいことをではありません。少しでも国語の心得があれば簡単に判る話です。

自力では出離できない、自力では報土往生できない

善導大師も親鸞聖人もこれで一貫しているのです。

ところが、

自力では出離できない、自力では報土往生できない

これが闡提だとこれまた実に愚かなことを言っている偽装退会者がいるのも実に驚きです。闡提とは出離しようと思わない、往生しようという気がない人のことですが、それは自力ではありません。無力です。こんなことさえ理解したくない無力の偽装退会者は闡提でしょうが、他の人も皆自分と同じだという発想だけはやめるべきでしょう。

参考までに仏性とは、同じく信巻・信楽釈に『涅槃経』を引かれて

一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。

(現代語訳)

すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。

とありますように、「一切衆生」が他力の信心を阿弥陀仏から賜わるから、「一切衆生悉有仏性」なのです。ここが法の深信です。
これで「自力無功・他力全託」ですが、高森会長や退会者や本願寺僧侶を偽装する講師部員には、機の深信も法の深信も理解できないでしょう。

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コメント

結局会長は機の深信ということを逆謗の屍、必堕無間にしておき、悪しか出来ないと人を脅迫して希望のない状態にし、救いは会長にしかないと擦り込んで会に依存させる、というマインドコントロール術をやっていたわけですね。

投稿: | 2012年5月22日 (火) 13時48分

こんにちは。
いつも読ませて頂いております。
私も退会者であり、批判ブログを書いている者です。

さらなる親鸞会の邪義の解明、また、より多くの会員の皆さんにこの事実を知って頂き退会へと導くため、飛雲さんにご相談させて頂きたいことがあります。

メールアドレスを添付しましたので、一度ご連絡頂けないでしょうか。

宜しくお願いします。

投稿: エス | 2012年5月23日 (水) 10時26分

名無し 様

その通りです。これをカルトといいます。

投稿: 飛雲 | 2012年5月23日 (水) 21時51分

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