« 信罪福心が少しでもあるなら、会員は「高森学徒常訓」の唱和を | トップページ | 「生死の因縁は不可思議なり」と仰る源信僧都、「諸善は信心獲得の因縁なり」と断言する高森会長 »

2012年5月 1日 (火)

宿善の概念も、聖道門とそっくりな高森会長

高森会長は、宿善、方便、因縁という言葉で、曖昧な概念を会員に植え付けて、話を誤魔化すことしか考えていません。高森会長は、真宗学も仏教学も学んでいないのですから、本来の意味を知らないで、自己の妄想を膨らませて創作した教義が、善知識方の仰せと合致する筈もないです。

その典型が宿善です。

約30年前に本願寺と論争した際に書いた『本願寺なぜ答えぬ』には、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

とあります。また『教学聖典(5)』には

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

とあります。この2つを見ただけでも、高森会長の無知と創作教義が明らかになります。
これと覚如上人の『口伝鈔』にある親鸞聖人のお言葉、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と、覚如上人の解説

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

とを比較してみると良く判ります。これと『唯信鈔』と高森理論を合わせますと

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、親鸞聖人のお言葉を言い換えてみると、

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

です。

どこか違いますか?

されば、覚如上人は親鸞会の宿善論を前提とされた場合に、往生との関係を、「かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず」と結論付けておられます。つまり「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」かどうかで往生できるかどうかを決めることはできない、ということです。親鸞会用語でいえば、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まらないということです。
これが高森会長の教えている

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

諸善は、信心獲得の因縁なり

と同じだという人は、幼稚園児以下の思考でしょう。通常の思考力がある人なら、覚如上人は、高森理論を完全に否定されていることが判られるでしょう。

もともと宿善は、『観無量寿経』に説かれている下品下生の往生を解釈する中で、考え出されたものです。中国の天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』には、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだと解釈したのです。宿善を単純に宿世の善根という意味で使われていますが、この概念は高森会長とそっくりです。

19願に対する聖道門の考え方を浄土門の善知識方が正されたのと同様に、宿善についても、その概念は聖道門と浄土門とは異なるのです。先の『口伝鈔』がその代表です。

知らないのに知ったかぶりをして、自信満々に大上段に構えて言うと、何か凄いことを知っている大学者なのかもしれない、と思ってしまいがちですが、これは詐欺商法によくある手口です。

尤も、高森会長の場合は知っていて騙したというよりも、単に無知だっただけのことです。

|

« 信罪福心が少しでもあるなら、会員は「高森学徒常訓」の唱和を | トップページ | 「生死の因縁は不可思議なり」と仰る源信僧都、「諸善は信心獲得の因縁なり」と断言する高森会長 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 信罪福心が少しでもあるなら、会員は「高森学徒常訓」の唱和を | トップページ | 「生死の因縁は不可思議なり」と仰る源信僧都、「諸善は信心獲得の因縁なり」と断言する高森会長 »