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2012年5月

2012年5月29日 (火)

親鸞会から群敵と蔑まれている退会者の皆様へ

今までは、

退会者に近付いてはならない、連絡があっても無視するように

との御教導がありましたが、高森会長は方針転換したのです。

群敵のことを知って、群敵に斬り込むのが親鸞学徒

と御教導があったのですから、絶好のチャンスです。
かつての上司、先輩、同輩、後輩に、群敵の主張を大いに知らせて、斬り込んでもらうように働きかけることができるのです。
もし無視するようなら、

高森先生の「群敵に斬り込む剣士たれ」の御教導を反故にするのか!!

とでも言ってやりましょう。

教義の問題に絞って、

親鸞会教義の誤り

親鸞会の邪義を正す

等の、比較的短く親鸞会の邪義をまとめてあるものを読んで反論してもらうように勧めてみてください。いつもの10項目を提示するだけでもそれなりの効果は期待できます。
ただし、講師部員等の詭弁の達者な人と直接会って話をすることは避ける方が賢明でしょう。
詭弁に言いくるめられることがありますので、法論をするなら文章でしてください。
必要なら、私が文章を考えますので、遠慮なく仰ってください。

このチャンスを逃す手はありません。

過去の法論に全敗の事実を突き付けてもいいでしょう。
法論に応じない証拠も現在進行形ですから、それを教えてあげるのも、高森会長の嘘を知らせる最大の手段にもなります。

とは言うものの、すぐに高森会長の深い御心の説明があり、方針転換となるでしょうけど。それはそれで、また方針転換を突っ込めばいいです。

高森会長には、籠城か逃亡以外に道はないのです。

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2012年5月28日 (月)

弘宣局長へメール送信のお知らせ

以下のメールを弘宣局長に送りましたので、皆さんにお知らせしておきます。

W 様

御無沙汰しております、○○です。
3月18日に、法論の申し込みをしましたが、その後お返事を頂いておりません。

私が以下のように親鸞会を徹底的に非難していることは、御存知の通りです。

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1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここまで言われても、何も言い返せないとは、情けないものです。

最近、以下の教導があったと、ある会員から聞いております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◎群敵に斬り込む剣士たれ。

親鸞学徒は群賊悪獣の群敵に
斬り込む剣士でなければならぬ。
利剣即是弥陀名号 親鸞学徒の一言一言は
大衆の永久の迷妄を斬り開く利剣である。
 
あの木の陰には幾人 こちらの岩陰には何人
どれくらいの使い手か 相手の力量の
誤算もあってはならない。
正確な邪悪の把握が破邪顕正には肝要である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

群敵に斬り込む覚悟もないのに、親鸞学徒を名乗っていて恥ずかしくないのでしょうか?
それどころか、群敵に斬り込まれても、為す術もなしですね。
法論に応じないで、群敵に斬り込む手段とは、もしかして暴力でしょうか?

一昨年、親鸞会が△△氏を通して、□□氏を著作権侵害で不当に告訴したことで、私は富山県警と縁を持つことができました。
富山県警には、親鸞会の実態について、裏の裏まで事細かに説明しています。親鸞会はいつオウム化してもおかしくないとも伝えてあります。

暴力を振るえば、親鸞会は終わりでしょう。尤も、法論に応じても、親鸞会は終わりでしょうが。

お返事は期待しておりませんが、このようなメールがあったことを会長先生にお伝えください。

○○

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2012年5月27日 (日)

パクリで大学者気取りも、聖教を読んだことのない無知を晒しただけの高森会長

信心決定を摩訶不思議な体験として印象付けるために利用されるのが、二種深信です。しかし、その摩訶不思議な体験をしてもいないのにしたかのように装っているのが、高森顕徹会長です。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、『浄土宗大意』でも

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

と仰っています。
また聖覚法印は『唯信鈔』

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

と言われて、親鸞聖人がこのまま書写されて同行に読むことを勧められています。

これを法然上人、聖覚法印、親鸞聖人が

私は逆謗の屍とはっきり知らされた

体験のお言葉と理解するようなら、小学生以下です。

曇鸞大師の機の深信にあたるお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にある

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら「逆謗の屍」という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は「逆謗の屍」ではないと否定されたお言葉にしかなりません。

親鸞聖人は善導大師の『往生礼讃』の二種深信を承けられて、『高僧和讃』善導讃

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と仰っています。親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。

善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり

煩悩によって輪廻し、自力では出離できない

ということにしかなりません。

逆謗の屍」という言葉は、大沼師からのパクリです。たとえば『法界』には、以下のようにあり、高森会長の説明は全くこの通りです。

十方の有情一人として逆謗の屍でない者は居ないのだ。若しないとすれば法蔵菩薩は願行を成就し替えなければならないのだ。五劫思惟の古に有漏の凡夫の腹底を見抜かれた時、世出世の最低の悪は逆謗の屍であることを見抜いて願行を成就されてあるのに素直な者と自惚れて居ては凾蓋相応しないのだ。
 調熟の光明のお育てにより調機誘引されて素地のまんまが照し出された時、唯除逆謗と除かれた屍が自分であった事に気がつくのだ。

大沼師は、『高僧和讃』曇鸞讃

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり

から、「逆謗の屍」と言ったのでしょうが、この御和讃は、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。

参考までに18願文と二種深信との関係を、大沼師の味わいを鵜呑みにして高森会長は

若不生者不取正覚」=法の深信
唯除五逆誹謗正法」=機の深信

と大学者気取りで説明していますが、間違いです。二種深信を詳説された存覚上人の『六要鈔』には、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

とあります。二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
大沼師の味わいを真宗学の基本と勘違いしただけのことです。

聖教を読んだことがない高森会長が無知であることを晒しただけです。

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2012年5月23日 (水)

聖道の機・定散の機・逆謗の機の違い、真実の善・雑毒の善・無善造悪の違いも判らない高森会長

難しい御文ばかり出すと、古文の読めない高森会長・講師部員・幹部会員は、ほとんど理解できないみたいですので、今回は簡単な話をします。

雑毒の善ができる、ということは、無善造悪の逆謗の屍ではありません。当たり前のことです。

ところがそれが判らない高森会長は『本願寺なぜ答えぬ』に、

 ではなぜ、信前の人に、自力一杯の聴聞や、破邪顕正、布施行などの諸善を勧めるのか。
 机上の空論や、合点なら易しい。仏教は、行学である。
自力は捨てもの、間に合わぬものと、合点するのはたやすいが、実地の体験は、難中之難、無過斯だから、浄土は、易往而無人なのだ。
 後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わぬか、実際、全力を尽くして、初めて、出きることか、出来ないことか、可能か不可能か、ハッキリ知らされるのだ。
 喩えて言えば、クラスで力自慢の、小学一年の男子を連れて、母親が瀬戸物店へ、買い物に行った。
 大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、荷物を持って店を出た。
瀬戸物は、量の割に、重いものだ。
 それを見て、子供が、
「お母さん、僕、それ持ってあげる。僕、力強いんだよ、昨日もクラスの相撲で、一番だった」
と、自分の力を、誇示する。
 とてもとても、子供の力に合うような、品物でないことは、母親は、百も千も承知している。
「こんな重いものが、あんたなんかに、持てますか、落としたら、どうするの」
頭から、叱りつける母親は、余り、利口な親とは、言われぬ。
「そうお、坊や、そんなに強くなったの、お母さん、嬉しいわ、それじゃあ持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、一度持たせてみせるのだ。
 落としたら大変だから、母親は、密かに、下に手を廻している。
 子供は、誉められて持ったのだから、男の意地だ、何とか持とうと渾身の力で、力んではみるが、とてもかなわぬ重荷を知らされ、力尽きて、
「お母さん、やっぱり、僕の力じゃ、駄目だ、早くとって!!落とすよ、早く、早く」
と、母親に任せる。
 子供は、母親が、荷物を下から支えていることを知らないから、驚いて、心から素直に、母親に、任せるのだ。

と書いて、自己矛盾をさらけ出しています。もちろんこの子供の喩えも、大沼法竜師の作ったもので、高森会長が考えたものではありません。

この喩えは、クラスで力自慢の男子相撲で一番になった子供の話です。力に自信のない子供の話ではありません。高森会長は、この力自慢の男子を全ての人という意味で使っていますし、無善造悪の逆謗の屍と知らされるというのは、皿が1枚も持てないひ弱な子供のことを喩えなければ、高森流機の深信は嘘になります。
従って、完全に矛盾しています。他の子供よりも力の強い男子が、皿を持って、皿が1枚も持てないクラス1のひ弱な男子と知らされる訳がないでしょう。無茶苦茶な理論です。

釈尊は機に応じて、法を説かれています。仏になるには、真実の善をすればいいと聞いて、それならば自分にできそうだ、と思った人に、聖道門が勧められています。聖道門までは無理だと思う人には、19願が勧められるのです。

真実の善ができると自惚れている人は、親鸞聖人の教えを聞こうとはしません。

真実の善ができると自惚れている人は聖道門を信じるか、19願での往生を願うでしょう。

真実の善ができないと思っているから親鸞聖人の教えを聞いて、18願での往生を願うのです。
それは何枚も重ねた瀬戸物という荷物が持てるとは全く思っていない子供と同じです。クラスでは力の弱い子供、相撲でも簡単に負けてしまう子供、つまりこれだけの善ができなければ仏になれない、往生できない、と聞かされても、それは自分にはとても無理だと思う人に、

お前は腹底では瀬戸物が持てると自惚れているんだ、自分の力で成仏、往生できると自惚れているのだ

と無理やり瀬戸物を持たせ、善を強要すればどうなるか。大抵は潰れてしまうでしょう。これを親鸞会の会員に適用すると以下のようになります。

力の弱い子供は言うでしょう。
「お母さんは、僕にはこのお皿1枚も持てないと言ってたじゃないの。こんなたくさんの皿なんか持てないよ。」
しかし、母親は言います。
「嘘を言ってはいけないよ。坊やは、これだけの皿くらい持てると本当は思っているのでしょう。一回持ってみなさい、そうすれば持てないことが判るから。」
子供は嫌がります。
「嫌だよ、持てないことくらい判ってるよ。僕、疲れてるから歩きたくもないんだよ。」
母親は子供に厳しく叱りつけます。
「そんなに甘えているなら、御飯もおやつも、これからは無しよ。持ちなさい。」
子供は泣きながら
「そんなの嫌だよ。じゃあ、お皿1枚だけ持つよ。」
子供に皿1枚を持たせて、
「まだ持てるでしょ。はいこれも。」
皿をもう1枚子供に持たせます。
「もう無理。許してよ、お母さん。」
お母さんは益々厳しく
「じゃあ、御飯もおやつも要らないのね。まだこんなにお皿が残ってるじゃないの。このお皿を落としたら、飲み物もおもちゃも無しよ。」

これが高森会長と会員とのやりとりです。

瀬戸物を持てるなどと全く思っていない、持つことを嫌がる子供に瀬戸物を無理やり持たせようとするのを虐待といいます。しかしその親はいうでしょう、

虐待ではなく躾だ

と。高森会長は、子供を虐待する親と同じ思考です。ここで、子供に皿を持たせる母親の本心は、自分が楽をしたい、ということです。高森会長の数々の贅沢三昧がそれを証明しています。皿が1枚も持てないことを知らせるために、皿を1枚、2枚と持たせる異常な思考回路です。

会員は、真実の善ができないと判っています。判っていなければ、親鸞会の話など聞く訳がないです。それなのに雑毒の善ができるのだから雑毒の善をせよ、と言ったところで、逆謗の屍と知らされる訳がありません。その関係を言えないから、

善をしなければ良い結果が返ってこない、真宗が衰退しているのは善を勧めないからだ

と的外れの説明しかできないのでしょう。
高森会長は根拠を出せません。ないからです。

聖道門で成仏を目指す、あるいは聖道門は無理でも19願での往生を目指す、という人には、瀬戸物を持たせるという権仮方便が必要になることはあります。
しかし、18願での往生を願っている人に、無理やり、

お前は善ができると自惚れているんだから、命懸けの財施、法施をせよ、命懸けでやらなかったら必堕無間だぞ

と脅して強要するのは虐待そのものであり、方便ではありません。母親になる素養のない人物が母親になってしまった、真宗の布教師になる資質のない人物が真宗の布教師を名乗ってしまったので。
このような虐待によって、多くの人が精神も肉体も病んで、そのために亡くなった人もあれば、未だにPTSDで苦しんでいる人も相当の数にのぼります。
一方で、未だに会員として残っている人は、親から虐待されても親から離れられない子供と同じです。

会員は実に哀れです。

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2012年5月21日 (月)

機の深信も、もちろん法の深信も理解できない高森会長と講師部員

善導大師の仰った機の深信の意味が理解できれば、高森会長の言う善の説明がデタラメと判るでしょう。

善導大師は『散善義』至誠心釈

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。

(現代語訳)

すべての人たちが身口意の三業に修めるところの行業は、かならず真実心のうちになすべきことを明かしたいと思う。外に賢者や善人らしく励むすがたをあらわして、心の内にいつわりをいだいてはならぬ。むさぼり・いかり・よこしま・いつわり・わるだくみなど数かぎりなく起こり、悪性の変わりがたいことは、あたかも蛇や蠍のようである。三業に行を修めても、それは毒のまじった善と名づけ、また、いつわりの行と名づけるもので、決して真実の行業とは名づけられないのである。もし、このような自力の心をもって行業を起こす者は、たとい身心を苦しめ励まして、昼夜を問わず懸命に努め、あたかも頭上の火を払い消すようにしても、それはすべて毒のまじった善と名づける。この毒のまじった行を因たねとして、かの仏の浄土に生まれようと求めても、それは必ず不可である。

と仰っています。「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」は、親鸞会でも有名な御文ですが、その正しい意味を高森会長は知りません。「」とは身業・口業と高森会長は説明していますが、正しくは「身口意業」と意業を含めた「三業」であり、「起行」です。「」とは意業に決まっているではないのか、無知の高森会長は思い込んでいるでしょうが、これは「三業」「起行」とは別の「安心」です。つまり信心のことです。自分で起す信心ですから、自力の信心のことです。

自力の信心で行う善は、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。」となるのです。最後の「もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」は、機の深信と同様のことを仰ったものです。「雑毒の善」「虚仮の行」と、「無善」とは当然違います。善ができる前提で、その善が「雑毒の善」「虚仮の行」なのです。日本語として当たり前のことです。この当たり前のことが理解できないのが、高森会長であり、親鸞会です。

これを元にして親鸞聖人が仰ったのが、これも親鸞会で有名な『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。

です。この親鸞聖人のお言葉が、善のできない根拠だ、と親鸞会では教えていますが、如何に愚かな思考か、お判り頂けると思います。善ができるから、「雑毒雑修の善」であり、「虚仮諂偽の行」なのです。善のできない根拠ではなく、善のできる根拠です。ただ、その程度の善では報土往生ができない、と機の深信をこのように言い換えられたに過ぎません。ここにも逆謗の屍、極悪人という意味は全くありません。

何も難しいことをではありません。少しでも国語の心得があれば簡単に判る話です。

自力では出離できない、自力では報土往生できない

善導大師も親鸞聖人もこれで一貫しているのです。

ところが、

自力では出離できない、自力では報土往生できない

これが闡提だとこれまた実に愚かなことを言っている偽装退会者がいるのも実に驚きです。闡提とは出離しようと思わない、往生しようという気がない人のことですが、それは自力ではありません。無力です。こんなことさえ理解したくない無力の偽装退会者は闡提でしょうが、他の人も皆自分と同じだという発想だけはやめるべきでしょう。

参考までに仏性とは、同じく信巻・信楽釈に『涅槃経』を引かれて

一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。

(現代語訳)

すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。

とありますように、「一切衆生」が他力の信心を阿弥陀仏から賜わるから、「一切衆生悉有仏性」なのです。ここが法の深信です。
これで「自力無功・他力全託」ですが、高森会長や退会者や本願寺僧侶を偽装する講師部員には、機の深信も法の深信も理解できないでしょう。

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2012年5月17日 (木)

「罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫」

もう少し面白いネット対策をしてくるのかと期待していましたが、偽装退会者のブログを見ても判るように、結局は外に対して何の対策もできない無能を証明しただけです。

さて、機の深信とは、逆謗の屍と知らされることだ、というのが高森会長の説ですが、善知識方でそのように仰った方は、誰一人ありません。

そのように言うと、

機の深信に「罪悪生死の凡夫」とあるだろう。極悪人と知らされないのは、異安心だ!!

と某弘宣局長は言っているそうですが、「罪悪生死の凡夫」がどうして極悪人という意味になるのでしょうか?
国語の授業をします。善導大師の御文を通して、見てみましょう。
親鸞会でよく使われる機の深信は『散善義』にあります。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

これを極悪人と自覚することだと錯覚するのは、単に古文が理解できないからです。
比較の為に善導大師が機の深信としてもう一か所書かれてある『往生礼讃』には、

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

とあります。これは親鸞聖人も信巻に引かれていますので、親鸞聖人のお言葉であり、親鸞聖人の信心そのものです。この御文には極悪人を連想させる単語を見つけ出すのは、流石に無理でしょう。
では『散善義』と『往生礼讃』とは、機の深信が違うのか?
そんな筈はありません。当然同じです。
仏教の常識と古文の常識があれば

罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫

ということが判ります。つまり

罪悪生死の凡夫」≠極悪人

です。
これでも納得できない頭の固い人もあるでしょうから、最近2回のエントリーで予習した『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏をもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

とを読み比べれば一目瞭然です。

罪悪生死」=「煩悩悪障

です。
親鸞会の根本的な錯覚は、

善人は悪をしない人

と考えていますが、それは仏のことで、正しくは

善人とは善のできる人であるが、煩悩がある限り悪を造る

ということです。
では、善導大師は無善だったのかといえば、「菩薩の道を行じ」た上で、「福慧は微微」であり、「善根薄少」と仰っています。善導大師は、善はできた方です。ただ、その程度の善では「今日に至るまで、虚然として流浪す」であり、「曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなし」であり、「三界に流転して火宅を出でず」なのです。

つまり、機の深信とは、

自力では出離することができない

ということなのです。
機の深信を解説なされた存覚上人は『六要鈔』の中で

「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。

とされました。

「無有」等

とあるのが『散善義』における機の深信の「出離の縁有ること無し」のところで、機の深信の説明が、善の有無を論じない、自力が無功であることを説明されています。

国語の授業と同じで、1つ1つ文章を見ていけば、難しいことではありません。皆同じ意味で言葉を換えられているだけです。

これだけ説明すれば、

機の深信とは、逆謗の屍と必ず知らされること

と解答したら、国語の試験でも0点だということが判るでしょう。

真宗学の勉強の前に、国語の勉強をしないと、新入生にも笑われますよ。

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2012年5月16日 (水)

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり

講師部員対象の緊急ネット対策会合が開かれたようですが、今更無い知恵を絞っても、詭弁・誤魔化し・撹乱・荒らし・隔離策以外には何も出てこないでしょう。トップがあれですから仕方がないです。

さて、『安心決定鈔』を連続して取り上げていますが、それは『安心決定鈔』が蓮如上人に大きな影響を与えた書であるからです。『御一代記聞書』294

前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。

とあります。蓮如上人が仰る宿善についても、『安心決定鈔』からの影響が非常に大きいです。

『安心決定鈔』は最初に、衆生の往生と阿弥陀仏の正覚の機法一体について説示され、

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。

と述べられています。
ここで、「衆生がこのことわりをしること」は、「仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり」と対応していますので、「衆生がこのことわりをしること」が信心ということです。親鸞会ならば、十劫安心と貶すところでしょう。
この信心について、

第十八の願をこころうるといふは、名号をこころうるなり。名号をこころうるといふは、阿弥陀仏の衆生にかはりて願行を成就して、凡夫の往生、機にさきだちて成就せしきざみ、十方衆生の往生を正覚の体とせしことを領解するなり。

と表現されています。
これらを承けて、

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

とあります。これは最初に紹介した部分と同じことを言葉を換えられただけです。

衆生がこのことわりをしること不同なれば
=「昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり
=「仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

です。これらを踏まえられたのが、『御一代記聞書』307です。

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

『安心決定鈔』と『御一代記聞書』307との関係については、すでに

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

で解説されていますので、抜粋します。

『御一代記聞書』の「已今当の往生あり」のところが、『安心決定鈔』では

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり已・今・当の三世の往生は不同なれども

ですので、『御一代記聞書』の宿善も遅速あり」は、『安心決定鈔』の


仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり



に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、「宿善」とは、信心のことを指していることがお分かり頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、


弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり



に、そのことが明確に解説されています。ですから、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

親鸞会で教えているように宿善の厚薄について教えられたものではありませんし、ましてや宿善を厚くするようにという意味はどこにもありません。
『御一代記聞書』にも『安心決定鈔』にも、善を勧められたところは皆無です。

『安心決定鈔』には、「弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり」ということばかり書かれています。すべて阿弥陀仏がなされることで、我々の方から、何かを加えることはないのです。蓮如上人が「一念の信心」と仰ることも、これです。『安心決定鈔』を読むと、『御文章』『御一代記聞書』がよく理解できるようになります。

結局のところ、宿善が薄い人が宿善が厚くなって救われるという御文は皆無です。当たり前のことです。

宿善についての総まとめをしておきます。

聖道門でも使われる宿善ですが、真宗においては、『観無量寿経』に説かれたように、下三品の者が臨終に善知識に遇って往生を遂げるのですが、その善知識に遇う因縁を『浄土十疑論』で宿善と使ったのが元になっています。従いまして、すでに善知識に遇った人が、宿善をどうこうするという話ではないのです。五重の義でも、宿善、善知識となっているのは、このことを表しています。善知識に遇った時点で、宿善の話は終わりです。後は、善知識の勧められる通り、雑行・雑修・自力の心を捨てて、阿弥陀仏に帰して念仏するだけです。

以上親鸞会に提示している10項目のうち、8番目までの説明を修了しました。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

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2012年5月14日 (月)

法蔵菩薩の五劫兆載の願行だけでは不足だとする親鸞会

前回、善導大師の『散善義』にある

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

を紹介しましたが、「菩薩の道を行じ」て出離した聖者が多くいる一方で、「菩薩の道を行じ」ながらも出離できずに流転を繰り返している善凡夫もいます。ところが、「菩薩の道を行じ」るどころか仏法さえ聞いていない無善造悪の悪凡夫も多いのです。この無善造悪の悪凡夫を救わんがために建てられたのが18願なのです。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことを知れば、親鸞会の邪義が明白になります。

この無善造悪の悪凡夫、過去世に善根を積んでこなかった者が、なぜ救われるのかについて、『安心決定鈔』で判りやすく書かれています。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行でないと知らねばなりません。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたからであります。此仏が凡夫の願行を成就して御名に収めて下されたことを領解させて頂いて、仏に救わるる事となったのを三心(至誠心・深心・回向発願心)とも三信(至心・信楽・欲生我国)とも信心ともお示し下されてあります。かように仏が凡夫の願行を御名に成就して下されてあるのを口に称えあらわす、それが南無阿弥陀仏の称名念仏であります。
かような訳で、仏が凡夫の願行を成就して下されたことを領解し、称うるのでありますから、領解も自分の機の力であると自分に功を認めなくて、全く仏の願力であると功を願力にもどし、全く他力を仰ぐのであります。

下品下生が、臨終の苦しみで阿弥陀仏を念ずることもできないお粗末な念仏でも、往生ができるのは、「凡夫の願行」ではなく、「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」を回向して下されるからです。それを受け取るだけなのです。こちらから用意するものは何もないのです。過去世において善根を積むとか、今生で善に励んで宿善が厚くならないととか、19願を実践しなければ、などと言っているのは、「法蔵菩薩の五劫兆載の願行」だけでは不足だと、仏智を疑う罪なのです。

ヘンテコ因果の道理を押し付け、仏智疑う罪を造らせて、それで会員が救われる筈がないです。

最近の親鸞会は、講師部員に布教ではなく、弁当販売をさせています。邪義を捲き散らすよりはいいかもしれませんが、何の団体なのか判らなくなりました。

高森会長の思いつきの事業に、無償で奉仕させられる講師部員と幹部会員は疲弊しきっています。会員は親鸞会の大事な金蔓ですから、余り無茶なことは言っていないようですが、講師部員の扱いは奴隷並です。講師部員も段々減ってきていますし、突然、何か異変が起こるかもしれません。

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2012年5月13日 (日)

かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず

偽装退会者と偽装本願寺僧侶の二つの立場で同じ内容を書き、結果は共に敗退逃亡したのですが、上司から叱られたのか、憂さ晴らしをしたいのか、また同じことを書いて同じ過ちを繰り返しています。余程学習能力がないのでしょう。付ける薬はないですね。

さて、親鸞聖人が過去世において聖道門の修行をせられてきたと仰ったお言葉はいくつかありますが、善導大師にもあります。『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏をもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と自らのことを嘆き悲しんでおられます。

御自身は聖道門での修行に励んでも、出離することができず、流転をしてきた「常没の衆生」であることを善導大師は告白なされているのです。

では誰も出離できなかったのかと言えば、「他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。」と数えきれない多くの法友が出離していったと仰っています。その一方で、「しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。」なのです。これは「菩薩の道を行じ」た上での話をなされているのですから、善を実践なされたのです。善ができなかったのではありません。足りなかったということです。
それで聖道門を断念されて浄土門に入られた訳で、善導大師は御自身の体験から、定散二善を「欣慕浄土の善根」と深信なされたのです。
このように「菩薩の道を行じ」られた善凡夫もあるのですが、「仏法・世俗の二種の善根有ること無し」の悪凡夫もまたいる訳です。
菩薩の道を行じ」られた善導大師が悪凡夫かどうかは、通常の思考があれば、容易に判断できることです。

そんな悪凡夫が善知識に遇って18願の教えを聞いて信じることもあるのですから、源信僧都の仰るように「生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。」なのです。

そんな判らない因縁であるから、聖道門の理論とは違うのですが、それが高森会長や講師部員、会員には理解できないのでしょう。

『口伝鈔』

しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。

とあります。覚如上人は「宿善」を阿弥陀仏の光明によるお育て、と定義されて、それが今日の真宗における「宿善」の意味になります。
それを蓮如上人も引き継がれて、『御文章』2帖目第13通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。

と仰っています。自力が混じらない絶対他力とは、こういうことをいうのです。善がいるとかいらないとかは、阿弥陀仏のお力を疑っているところからくるものです。

蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』には

本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

とまではっきり書かれています。「功徳善根を求む」親鸞会会員が、「本願の功徳をうけとることは」ありません。

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2012年5月 9日 (水)

宿善の機に対して18願、無宿善の機に対して聖道門・19願・20願を説かれた

阿弥陀仏の慈悲は平等でも、機がそれぞれ違うために、「宿善の機」「無宿善の機」と差ができてしまうのです。

覚如上人、蓮如上人が仰っている「宿善の機」とは、18願での救いを願い求めている人のことであり、「無宿善の機」とは、18願での救いを願わない人のことです。
宿善の機」と「無宿善の機」の違いは、18願での救いを願うかどうかです。

善知識に遇わず、18願の教えに遇わなければ、救われることはありません。
宿善の機」とは善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のあった人です。
無宿善の機」は善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁のない人、もしくは遇っていても信じる気持ちがなければこの因縁のない人です。

したがって、「宿善の機」に対してと「無宿善の機」に対しての話が違ってくるのは当然なことです。それで『御文章』3帖目第12通

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

と仰っているのです。

以上のことをよく理解できれば、釈尊が八万四千の法門といわれる多くの方便を駆使された理由も、阿弥陀仏が19願、20願を建てられた理由も判る筈です。

18願を信じられない、18願を願う気のない「無宿善の機」に、18願を説いても誹謗するだけです。そのために、18願を信じて願い求める気持ちにさせるまでの手立てとして、権仮方便の聖道門、19願、20願が必要であったのです。
しかし、すでに18願を信じて願い求めている「宿善の機」には、わざわざ遠回りをさせる必要がありませんので、「宿善の機」に対しては18願1つを説き聞かせるのが善知識の役割になります。

親鸞会では、信前の人は同じ方便の道を通らなければならないと教えていますが、機が違うのですから、すべての人が同じ方便の道を通ることにはなりません。人それぞれ機が違いますので、釈尊は機に応じて「八万四千の法門」を説かねばならなかったのです。親鸞会でも対機説法という言葉は知っていますが、その意味を知らないのでしょう。

この善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁である「宿善」を、獲信のための因縁と理解してしまったのが親鸞会です。

宿善」の説明として親鸞会で最近よく使われているのが『唯信鈔文意』

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。

です。このお言葉も、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁と理解すれば、筋が通ります。
しかし、この御文の前後を見ると、少しニュアンスが違ってきます。

この御文は、善導大師の『法事讃』にある「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専」の解説をされた中の一部です。ここで

 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
 「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。

(現代語訳)

 「随縁雑善恐難生」というのは、「随縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまの善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の報土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の報土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのである、「難生」とは生れることができないというのである。
 「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すものばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。

とあり、獲信のためには善を捨てて念仏を立てよ、との御教示です。その上、断章取義している先程のお言葉の次には

他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

(現代語訳)

至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。

と付け加えられていますので、親鸞聖人が仰りたかったことは、獲信のためには捨てものの善ではあっても、18願の教えに遇う因縁になったのだから、善や諸仏・菩薩を謗ってはいけない、との誡めです。
従って、獲信のために善を勧められたお言葉ではありません。その逆ですが、行き過ぎて造悪無碍の邪義に陥ることを警戒されて補足されたものと判ります。
もしこれが善を勧められたお言葉というのであれば、「善根」だけを切り取らずに、「三恒河沙の諸仏」「余の仏聖」に仕えることも勧められたお言葉としなければなりません。しかしそれは絶対にいいません。”無二の善知識”たる高森会長に仕えよ、とは教えますが。

とにかく、親鸞会は断章取義ばかりですから、矛盾した論理で溢れかえっています。
意味を知ってか知らずか、誤謬が酷すぎて、外から親鸞会をみると本当に恥ずかしい団体です。

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2012年5月 6日 (日)

真宗における宿善の定義さえも知らない無知の知識

高森会長は、故意に捻じ曲げた部分に加え、これまで正しいと完全に思い込んでいた自説までも、微妙に修正してきています。そのことをもって、

正しい教えになってきているから、高森会長から話を聞いてもいいではないか

という会員がいます。講師部員の中にも、そう思い込もうとしている人がいると思います。しかし、これは自分自身の費やしてきた親鸞会歴を否定したくないだけの言い訳に過ぎません。
高森会長が少しくらい教えを修正したところで、親鸞聖人の教えと向きが180°違っていたのが175°に変わるに過ぎません。
結局のところ、そんな会員も講師部員も、そして高森会長自体、親鸞聖人の教えなどどうでもよいとしか思っていないのでしょう。つまり、浄土往生など興味のないことであり、お山の大将とその仲間たちのサークルで遊びたいだけなのかもしれません。それなら、やはり「浄土真宗」とか「親鸞聖人」とかいうべきではないでしょう。

さて、宿善とは通仏教で過去世の善根という意味で使われてきたのですが、そんな時代背景もあってか、親鸞聖人は宿善という言葉を御著書の中で使われたことは一度もありません。
ところがその後、覚如上人が宿善という言葉を意味を変えられて使われるようになり、それが今日の真宗における宿善の定義となっています。そのことがよくわかるのが、唯善との論争です。『慕帰絵詞』にこのように記されています。

法印(覚如上人)は、「往生は宿善開発の機こそ善知識に値ひて聞けば、即ち信心歓喜する故に報土得生すれ」と云々。
善公(唯善)は、「十方衆生と誓ひ給へば、更に宿善の有無を沙汰せず、仏願に遇へば、必ず往生を得るなり。さてこそ不思議の大願にて侍れ」と。

此処に法印重ねて示すやう、
「『大無量寿経』には、『若人無善本 不得聞此経 清浄有戒者 乃獲聞正法 曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 楽聴如是教』と説かれたり。
宿福深厚の機は即ちよくこの事を信じ、無宿善のものは驕慢弊懈怠にして、此法を信じ難しといふこと、明らけし。
随ひて光明寺和尚(善導大師)この文を受けて、『若人無善本 不得聞仏名 驕慢弊懈怠 難以信此法 宿世見諸仏 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜』と釈せらる。
経釈共に歴然、争かこれらの明文を消して、宿善の有無を沙汰すべからずとは宣ふや」と。

其の時又、唯公、「さては念仏往生にてはなくて、宿善往生と云ふべしや、如何」と。
また法印、「宿善に因て往生するとも申さばこそ、宿善往生とは申されめ。宿善の故に、知識に会ふ故に、聞く其の名号・信心・歓喜乃至一念する時分に往生決得し、定聚に住し、不退転に至るとは相伝し侍れ。是をなんぞ宿善往生とはいふべき哉」と。

その後は互ひに言説を止めけり。

簡単にいえば、唯善が、「阿弥陀仏は十方衆生を救うと誓っておられるから、宿善の有無に関係なく救われるのだ」、と主張したのに対して、覚如上人が、「宿善が有るから善知識に遇うことができ、信心決定して救われるのだ」、と反論されたのです。唯善の言っていることは、法然上人と同じことです。従って、唯善の主張は間違いではありません。それで「その後は互ひに言説を止めけり」という玉虫色の決着となっています。
この論争を通して覚如上人は、宿善を、善知識に遇う因縁、という意味で仰っていたことが判ります。もともと『浄土十疑論』でもその意味ですが、それはイコール過去世の善根です。参考までに道元禅師は『正法眼蔵』の中で、

いまわれら宿善のたすくるによりて、如來の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること、時とともにして不退なり。

と書いていますが、曹洞宗での「宿善」も「如來の遺法にあふ」因縁としています。

覚如上人は、宿善を善知識に遇う因縁という意味として定義され、過去世の善根という意味とは切り離されました。それが『唯信鈔』に倣って仰った『口伝鈔』の、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。
(中略)

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

です。ところが、高森会長はそんな経緯も意図もまるで知りません。

宿善
=獲信の因縁
=過去世の善根

これ以外の理解など全くできないのです。しかし覚如上人はこれを否定されて、定義をされたのが、

宿善
=善知識に遇う因縁
≠過去世の善根

です。それを同じく『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

となされているのです。それで存覚上人も『浄土見聞集』で

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。

と覚如上人の定義を踏襲され、蓮如上人も『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

となされ、善知識に遇う因縁、18願の教えに遇う因縁、18願を信じて願い求める気持ちがある人を「宿善の機」と仰っているのです。

宿善について誰も判っていない、判っているのはこの地球上で唯自分一人だけだ

と豪語していた高森会長が、今更宿善の理解が間違っていました、などという筈もないです。誤りを認めず、親鸞聖人の教えを捻じ曲げたまま会員から搾取し続ける人物に従うことがどんなことか、理性が残っていれば判ると思います。

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2012年5月 4日 (金)

宿善あつき善人は、をしへ候はねとも、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なとはいかにもいかにもつくるましき事にて候也

最近の顕正新聞・顕真を読むと、本願寺や華光会に対する誹謗中傷の記事は相変わらずあります。一方で、当方に対する誹謗中傷記事は全く見当たりません。最高の教学を自負する高森会長の出鱈目を、暴露し続ける当方の記事を載せることができないのは、もちろん反論できないからです。攻撃してこない相手を仮想の敵として中傷するだけで、攻撃し続ける本物の敵からは、逃げに逃げまくる、これが高森会長の真の姿です。

もし以上のことが嘘だと思われるのであれば、このブログを抜粋して講師部員にでも送り付ければいいでしょう。間違いなくだんまりを決め込みますから。

さて、通仏教における宿善の意味は、過去世の善根ということですが、この意味で宿善が厚くならないと救われないと教えている高森会長は、善知識方の宿善に対する仰せを何も知りません。

源信僧都に続いて法然上人のお言葉を見てみましょう。『拾遺語灯録』に以下のようにあります。

宿善によりて、往生すへしと人の申候らん、ひが事にては候はす。かりそめの此世の果報だにも、さきの世の罪、功徳によりて、よくもあしくもむまるる事にて候へ。まして往生程の大事、かならす宿善によるへしと、聖教にも候やらん。ただし念仏往生は、宿善のなきにもより候はぬやらん。父母をころし、仏身よりちをあやしたるほとの罪人も、臨終に十念申て往生すと、観経にも見えて候。しかるに宿善あつき善人は、をしへ候はねとも、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なとはいかにもいかにもつくるましき事にて候也。それに五逆の罪人、念仏十念にて往生をとけ候時に、宿善のなきにもより候ましく候。

宿善が厚い人が往生できるというのは嘘ではないが、それは諸行往生のことです。18願念仏往生は宿善のない者、たとえば五逆罪を犯した悪人が、念仏にて往生を遂げることができるということ、と法然上人は教えられています。宿善厚い人とはどんな人かについて、

宿善あつき善人は、をしへ候はねとも、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なとはいかにもいかにもつくるましき事にて候也

と仰っています。「宿善あつき人」というのは、善人であり、元々悪を恐れ、仏道を求める心が強い人で、五逆罪などは造る筈もない、ということです。九品で言えば、中品下生よりも上の人であり、親鸞聖人のお言葉で言えば「定散の機」ということです。つまり

宿善あつき人
善人
五逆なとはいかにもいかにもつくるましき
定散の機

ということです。また

宿善のなき人
=五逆の罪人
=五逆の機

となります。

高森会長の説明とは、まるっきり違います。
全人類が五逆の者であるなら、全人類は「宿善のなき人」になります。
宿善のなき人」が「宿善あつき人」にならなければ救われないならば、悪人が善人にならなければ救われないということで、悪人正機の否定です。
五逆の罪人」である「宿善のなき人」がそのまま救われると教えられた法然上人は、嘘つきと言っていることになります。

高森会長が如何に無知であるかが、この法然上人のお言葉だけでも判ります。

法然上人はこの後に、「五逆の罪人」である「宿善のなき人」が救われる理由について教えておられます。

されは経に、「若人造多罪、得聞六字名、火車自然去、花台即来迎極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽、若有重業障、無生浄土因、乗弥陀願力、必生安楽国」。この文の意は若五逆をつくれりとも、弥陀の六字の名をきかは、火の車自然にさりて、蓮台きたりてむかふへし。又きはめてをもき罪人の、他の方便なからんも、弥陀をとなへたてまつらは、極楽にむまるへし。又もしをもきさはりありて、浄土にむまるへき因なくとも、弥陀の願力に乗しなは、安楽国にむまるへしと候へは、たのもしく候。

阿弥陀仏の願力に乗ずるとは、過去世に善根を積んでこなかった悪人が、念仏以外の他の方便がなく、悪人が悪人のまま念仏して救われることなのです。こんなことは、浄土門では基本中の基本中の基本です。そんなことも知らずに、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

など考えることは、真宗では本当にありえないことです。

更に法然上人は

弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおほしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せす、つみのふかきあさきも返りみす、たた名号となふるものの、往生するそと信しおほしめすへく候。

と高森会長の説を徹底的に論破しておられます。「宿善のありなし」は、問題にならないのです。

この源信僧都・法然上人の教えを承けて聖覚法印は『唯信鈔』で、

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

と書かれました。『浄土十疑論』では、「五逆の罪人」は「宿善業強」い者という前提ですが、聖道門の理論、親鸞会の理論ならば、「五逆の罪人」は「宿善少なきもの」となります。従ってこの理論には矛盾があることを聖覚法印が教えられるために言われた文で、「これは違うぞ」、というのを「これが正しい」という意味で親鸞会は引用しているのですから、完全な断章取義です。この後に

しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。

とあります。「宿善少なきもの」の五逆の罪人でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、五逆罪を造っていない我々は、「宿善あさし」と思うのは間違いだ、と言われたものです。聖覚法印も法然上人と同じことを言われているのです。

高森会長は、浄土門のどなたの説明からも逸脱した極めて珍しき教えです。というよりも、徹底的に矛盾した理論をなんとかしては、どうでしょう。嘘でも、話の辻褄くらいはあわせないと、知能の程が判ってしまいますよ。

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2012年5月 3日 (木)

「生死の因縁は不可思議なり」と仰る源信僧都、「諸善は信心獲得の因縁なり」と断言する高森会長

飛雲を読んではいけない

親鸞会では、当ブログを読むこと及び私に会うことを厳しく禁じています。私から親鸞会に法論の申し込みをすると、敵前逃亡。mixiや親鸞会関係のブログで法論をすると、沈黙。会員には、外部からの情報を遮断。親鸞会は、完全に土蔵秘事と化しています。
異論があればいつでも申し出てください」と豪語していた高森会長が、かつての弟子に畏怖しているのです。

そもそも高森会長は、聖教を読んでいないのですから、当然の結果でしょう。大沼師の著書だけは、隅から隅まで読んで、それで高森会長は大学者になったつもりでしょうが、大沼師は聖教の御文を個人的な味わいで表現ばかりしていますので、御文の解釈としては、大いに問題があります。大沼師自身がそう書いているのですから、大沼師が間違っているのではありません。大沼師の意図を汲み取れず、大沼師を利用して私利私欲を満たす創作教義を創り上げた高森会長に問題があるのです。

高森会長がどんな人物か知らない圧倒的多数の方には判らないかもしれませんが、高森会長には、一般常識はありません。常識がないから、一般の人から見ると考えられないような突飛な思いつきをします。それは、仏法においても同じです。仏法、真宗の常識がないから、突飛な思いつきの教えを説きます。それが、常識を逸脱しているが故に、一般の人、一般の真宗学者からは理解できないことが幸いして、

高森先生は何百年に一度の無二の善知識だ

と会員を錯覚させることに成功しただけのことです。

何のことはありません。ただの無知と非常識の人物と見れば、高森会長の言動のすべてに納得がいきます。

高森会長が最初に思いついた創作教義が宿善でしょう。親鸞会を作って間もなく、宿善の珍らしき教えを説き始めています。組織拡大のために、金集め人集めの名目を考えた結果が、”善”という文字のある宿善だったのです。もちろん、宿善の本来の意味を知る由もないでしょう。

宿善という言葉は、真宗だけでなく、聖道門でも使われる言葉です。善知識方で初めて宿善という言葉を使われたのは源信僧都です。『往生要集』には

『華厳』の偈に、経を聞くものの、転生の時の益を説きてのたまふがごとし。
 「もし人、聞くに堪任せるものは、大海および、
 劫尽の火のなかにありといへども、かならずこの経を聞くことを得ん」と。
 「大海」とは、これ竜界なり。
釈していはく、「余の業によるがゆゑにかの難処に生る。 前の信によるがゆゑにこの根器を成ぜり」と。
『華厳』を信ずるもの、すでにかくのごとし。 念仏を信ずるもの、あにこの益なからんや。かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。 かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。

(現代語訳)

《華厳経》の偈に、経を聞いた者が、生を変えた時の利益を説いていうとおりである。

もし経を聞くに堪えたものがあれば 大海に在っても
劫末の大火の中に在っても 必ずこの経を聞くことができる
「大海」というのは、竜のいる海である。

《華厳経》の釈にいわれている。その他の業に由るからかの難処に生まれ、前の信に由るから、この《華厳経》を聞きうる根機と成るのである。
《華厳経》を信ずる者であっても、すでにこのような利益がある。念仏を信ずる者に、どうして、この利益のないことがあろうか。かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。
それ故に《十疑論》にいわれている。
臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

と源信僧都は宿善の解説をなされています。前回紹介した『浄土十疑論』を引用しながら、『華厳経』を信じる人に倣って意味を変えられ、宿善を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。単なる過去世の善根という意味ではありません。その証拠に、

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。

善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。

また《大集経》の第七巻に説かれている。

もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

と教えられています。「生死の因縁は不可思議なり」です。五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。
そんなことなど、もちろん知らない高森会長は

諸善は、信心獲得の因縁なり

などと大法螺を吹いているのです。

真宗の常識が有ったら、こんなことはとても言えませんよ。

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2012年5月 1日 (火)

宿善の概念も、聖道門とそっくりな高森会長

高森会長は、宿善、方便、因縁という言葉で、曖昧な概念を会員に植え付けて、話を誤魔化すことしか考えていません。高森会長は、真宗学も仏教学も学んでいないのですから、本来の意味を知らないで、自己の妄想を膨らませて創作した教義が、善知識方の仰せと合致する筈もないです。

その典型が宿善です。

約30年前に本願寺と論争した際に書いた『本願寺なぜ答えぬ』には、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

とあります。また『教学聖典(5)』には

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

とあります。この2つを見ただけでも、高森会長の無知と創作教義が明らかになります。
これと覚如上人の『口伝鈔』にある親鸞聖人のお言葉、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と、覚如上人の解説

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

とを比較してみると良く判ります。これと『唯信鈔』と高森理論を合わせますと

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、親鸞聖人のお言葉を言い換えてみると、

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

です。

どこか違いますか?

されば、覚如上人は親鸞会の宿善論を前提とされた場合に、往生との関係を、「かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず」と結論付けておられます。つまり「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」かどうかで往生できるかどうかを決めることはできない、ということです。親鸞会用語でいえば、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まらないということです。
これが高森会長の教えている

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

諸善は、信心獲得の因縁なり

と同じだという人は、幼稚園児以下の思考でしょう。通常の思考力がある人なら、覚如上人は、高森理論を完全に否定されていることが判られるでしょう。

もともと宿善は、『観無量寿経』に説かれている下品下生の往生を解釈する中で、考え出されたものです。中国の天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』には、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだと解釈したのです。宿善を単純に宿世の善根という意味で使われていますが、この概念は高森会長とそっくりです。

19願に対する聖道門の考え方を浄土門の善知識方が正されたのと同様に、宿善についても、その概念は聖道門と浄土門とは異なるのです。先の『口伝鈔』がその代表です。

知らないのに知ったかぶりをして、自信満々に大上段に構えて言うと、何か凄いことを知っている大学者なのかもしれない、と思ってしまいがちですが、これは詐欺商法によくある手口です。

尤も、高森会長の場合は知っていて騙したというよりも、単に無知だっただけのことです。

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