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2012年4月15日 (日)

昔も今も雑行・正行の分別もなく

現会員と話をすると詭弁が面白いです。善の勧めについても、新たなものを考え出したようです。

善知識方は五正行を勧められているから、善の勧めがない筈がない

これに納得してしまうようでは、情けないです。

諸善万行は雑行と高森会長も教えていますが、正行の勧めがなぜ雑行の勧めになるのですか?

とでも言い返せばよいでしょう。
正行と雑行については『散善義』にありますが、それを『教行信証』化土巻に引かれています。

次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、これを正行と名づく。なにものかこれや。
一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。
一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。
もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。
もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。
もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。
これを名づけて正とす。
またこの正のなかについて、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるは、すなはち名づけて助業とす。
この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。

(現代語訳)

次に、行について信を立てるのにあたって、行には二種がある。一つには正行であり、二つには雑行である。正行とは、もっぱら浄土の経典に説かれている行を修めることをいうのである。それはどのようなことであろうか。
一つには読誦、すなわち一心にもっぱら『観無量寿経』・『阿弥陀経』・『無量寿経』などを読誦することである。
二つには観察、すなわち一心にもっぱら浄土や仏および聖者たちに心を集中し、よく観察して、思い続けることである。
三つには礼拝、すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏を礼拝することである。
四つには称名、すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称えることである。
五つには讃嘆供養、すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏をほめたたえ供養することである。
この五つを正行というのである。
また、この正行の中に二種がある。一つには、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときでも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。礼拝や読誦などは助業という。
この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。

解説するまでもないことでしょうが、高森会長の本を読み、高森会長を心にかけて、高森会長を崇め、事ある毎に高森会長の名を言い、高森会長を褒め称えて、高森会長と親鸞会にお金を出すことが正行である訳がないです。

前回述べたように、19願も定散二善も間違いなく雑行です。雑行は捨てものであり、雑行を勧める御文は、親鸞聖人の教えには全くありません。
親鸞会が強く勧めている19願・定散二善の雑行を正当化させるために、雑行と正行とをすり替える詭弁です。蓮如上人は『御文章』1帖目第1通

むかしは雑行・正行の分別もなく

と仰っていますが、正に高森会長と親鸞会のことではありませんか。

似たような詭弁で、

真宗では聴聞を勧められているから、善の勧めがあるではないか。

とも言います。
これも真顔でいうのですが、

聴聞が雑行ですか?

無茶苦茶な理屈です。
無知の上に厚顔無恥では、どうしようもないです。

現会員、元会員は、高森会長のカリスマ性を言うことがありますが、どこにカリスマ性がある、あるいはあったのか、冷静に考えてみてください。
一般的にカリスマ性とは、指導者に他の人にはないオーラのようなものがある、とか飛び抜けた能力を持っていることに対して、感じるものです。
では高森会長にそれらはありますか?
外見からは何も感じません。超能力がある訳でもありません。敢えていうなら、教学において、他の追随を全く許さない、という能力です、いや、でした。
ところが、その抜群の教学は大嘘でした。正行と雑行の区別さえつかないのです。
大沼師の著書を、間違った部分までそのままパクリ、聖教を全く読んでいない無教学が白日の下に晒されてしまったのです。つまり、高森会長のカリスマ性は何もないのです。

高森会長がどんな人物か、一般の講師部員でさえ知りません。直接言葉を交わすことが、全体の講義以外にはないからです。カリスマ性があるという伝聞によって作られたカリスマ性です。現会員は、砂上の楼閣よりも脆い高森会長の虚像に縋っているだけです。

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コメント

>カリスマ性があるという伝聞によって作られたカリスマ性です。


いま振り返ると、会長やS会のやり方はチャチで穴だらけだと思いますが、その一方、昔の私は「物事を主体的に自分の眼でみずから見て、調べて、考える」という態度が希薄だったなぁと思います。アンテナも低かったですし。
しかもS会の法話や発行物では、そういった自主性をますます失わせるように誘導しますからね…
よくよく考えてみなければならない所だと思います。

投稿: Rudel | 2012年4月15日 (日) 22時34分

基本的に分からないのは、高森親鸞会は我が身が未信の身でありながら、
念仏者を誹謗し加えて我が身こそが正しいと信じ込める傲慢さである。
未決定の身で他人を誹謗し悪口雑言の限りを尽くすのならば、もはや念仏誹謗の有情なので
ある。高森親鸞会では己の団体の話を聴く事を善だと言い、光に向う者は
栄えると言って憚らぬ。光とは己の団体の事だそうだ。栄えるどころか毎日
苦しく食べる物さえ無いと言っている人がいた。満足しているのは教祖一族のみ
という有様を祖師が見られたなら、如何ほど嘆かれようか。浄土真宗とは、今
その有様の果てしなく傲慢で情けない者を救けるとの教えだろう。
まだ、気づく事なく角度変わらず威張ろうというのか。戦争ごっこの幼稚園児よ
り悪い。高森親鸞会に正解など全く無いのである。

投稿: | 2012年4月16日 (月) 20時43分

善「銭」の勧めに拘るならば、もう渡し難しなので
決定してから、救われてから、いくらでも好きなだけ
善をされたらよかろう。何も今、関係無い善に拘る事
は無い。
救われてから大好きな19願を実践なさればどうか。

投稿: R | 2012年4月16日 (月) 21時28分

会員時代は「親鸞会のみ正しく、他の団体は全て間違い」と信じて疑わなかった。まさか自分が師匠と仰ぐお方が真宗教義をねじ曲げていたとは知らなかった。逆謗を捕えてみれば我が師なり、と言うべきか。事実は小説よりも奇なり。

投稿: | 2012年4月16日 (月) 21時43分

高森親鸞会は、「信心決定」という言葉ならわかりそうなので、
「信心決定」していない者が正しい浄土真宗は我が高森親鸞会
にありと解りもしない信心を正しいと判断して誘う行為は、悪。
また、法論を正式に受けながら逃げている行為は悪。内輪では
法論など来ていないと言っているのだろうか?確認の必要が有る。
このような外道以下の団体を相手にはしないものであるが、
我こそ正しい浄土真宗と言っている以上は、罪悪。
もう一つ言うならば、「信心決定は当たり前」であり以後の学問
を怠ると異安心になる。これは信心が違うという意味では無い。

投稿: R | 2012年4月16日 (月) 23時18分

高森親鸞会はとんでも無い詭弁を使い、「本願文を破壊した」
と聞いている。本願文を破壊した真宗の団体など見た事が無い。
猿でもわかるよう飛雲さんに説明して頂き、私達も勉強したい
です。

投稿: | 2012年4月17日 (火) 06時30分

北朝鮮では指導者の偶像化が図られるとみられる、
などと普通に報道されている。この団体の人で、
「みんな」が正しいと言うから正しい。東大卒が
言うから正しい等、当に幼稚園児以下の思考をする
人を見た。莫大な人口の中の有るか無いか分からぬ
中で「みんな」が言うからという視野の狭さである。
ましてや学歴を持ち出すに至っては典型的な幼稚園
である。何故ならば今はなきオウム真理教には、
高森親鸞会よりはるかに高い学歴の者は沢山いた。
ほんの少し考えれば分かるものを。

投稿: | 2012年4月17日 (火) 07時21分

高森親鸞会はとんでも無い詭弁を使い、「本願文を破壊した」
と聞いている。本願文を破壊した真宗の団体など見た事が無い。
猿でもわかるよう飛雲さんに説明して頂き、私達も勉強したい
です。
投稿: | 2012年4月17日 (火) 06時30分

これは是非教えて下さい。なんでも、一度とった正覚を捨てる?
と解釈しているそうです。

投稿: | 2012年4月17日 (火) 08時17分

「すべての人と約束をします、もし逆謗の屍であるすべての人を、信楽の身に生まれ変えさせることができなければ、仏の覚りを捨てます」

これが高森氏の説明です。突っ込みどころ満載ですが、

十方衆生=唯除五逆誹謗正法

は、完璧な間違いです。

若不生者=信楽に生まれ変えさせる

も直訳としてはおかしいです。

不取正覚=仏の覚りを捨てる、仏の命を捨てる

も常識的に考えれば間違いとわかります。

投稿: 元バリバリ | 2012年4月17日 (火) 09時07分

「すべての人と約束をします、もし逆謗の屍であるすべての人を、信楽の身に生まれ変えさせることができなければ、仏の覚りを捨てます」

高森親鸞会の解釈を教えて下さり有難うございました。
高森親鸞会では阿弥陀様が私達人間と約束されていると
いう珍説を教えているのですね。詭弁というより間違いですね。

逆謗の屍という言葉は教行信証に無かったと思いますが、
無ければ造語ということになりますが。

◉一度とった仏の覚を捨てると約束された相手が私達ならば
私は仏と約束出来るような身分となり随分傲慢な邪説ですね。
約束という言葉を使うならば、宝蔵菩薩様が約束された相手は
世自在王仏です。(と、先生に習いました)

投稿: R | 2012年4月17日 (火) 12時44分

ご要望の本願の解説については、19願との関連からエントリー取り上げたいと思います。

投稿: 飛雲 | 2012年4月22日 (日) 06時49分

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