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2012年4月29日 (日)

信罪福心が少しでもあるなら、会員は「高森学徒常訓」の唱和を

親鸞会の会員、もしくは会員だった人なら誰でも知っているのが、「親鸞学徒常訓」です。

我ら親鸞学徒は、更に珍しき法をも弘めず。親鸞聖人のみ教えを、我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり

実に滑稽です。高森顕徹なる人物の説く教えは、親鸞聖人の教えとは全く異なる極めて珍しき法であることが明白であるからです。その代表として、当ブログで以下の10項目を親鸞会に提示し、法論まで申し込みながら、何一つ反論できないのですから、高森会長も親鸞会も珍しき法と分かっているのです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

お粗末を通り越して、実に哀れです。これで親鸞聖人の教えられた通りに説いていると本気で思いこんでいたところもある高森顕徹会長の愚かさも哀れなら、高森会長の言っていることが間違っていることに気が付きながら、親鸞会を離れることのできない講師部員・幹部会員の不遇は、更に哀れです。

信罪福心を出さないと雑行が捨てられないとか、訳の分からない詭弁を最近は言ったりしているそうですが、珍しき法以外の何物でもありません。

雑行についてまとめておきます。
『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この
要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。

のこの部分は、他の御著書でも同じことを親鸞聖人は仰っています。

『愚禿鈔』には

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。

とあります。
また『教行信証』化土巻・雑行釈にも

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
(中略)
おほよそ
浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」といひ、導和尚(善導)は「雑行」と称す。感禅師(懐感)は「諸行」といへり。

とあります。
『一念多念証文』において、同じ意味で言い換えられた言葉を挙げておきます。

浄土の方便の善
要門
仮門
定散二善
浄土方便の要門

これに異義を唱える人はないでしょう。
次に『愚禿鈔』を見ると、

定散の諸善
雑行
発願の行
回心の行
浄土の雑行
浄土の方便仮門
浄土の要門

が同じ意味の言い換えです。
同様に『教行信証』化土巻・雑行釈では、

回心回向の善
浄土の雑行
浄土の一切諸行

万行
雑行
諸行

です。この3つの御著書を比べてみれば判りますが、すべて同じ意味の雑行です。
つまり、

浄土の方便の善
=要門
=定散二善
=雑行

にしかなりません。
雑行は捨てるものであって、立てるものでないことは、真宗のどの聖教にも書かれてある超常識です。
ならば、浄土の方便の善、19願、定散二善を勧めることは真宗ではあり得ないと小学生でも理解できるでしょう。

ただ、

ならば阿弥陀仏の19願と釈尊の説かれた善の勧めは無駄であったと言うのか

と歴代の善知識方をおろそかに思い、そして謗る謗法の輩がいますので、親鸞聖人はそれに対する答えも用意されているのです。それが先程の化土巻・雑行釈の次にあるお言葉です。

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)に励んでも化土往生しかできないが、そんな雑行を説かれたのは、欣慕のためである、ということです。

同じことを『教行信証』化土巻・隠顕釈に、

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と教えられています。
雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)は、欣慕浄土の善根なのです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるためのものである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。

善人である聖道門の人には、浄土の方便の善である19願、定散二善が浄土を願わせる欣慕浄土のために必要ですが、善のできない悪人には19願、定散二善という方便は最初から最後まで必要ないのです。

信罪福心が少しでもあるなら、「心口各異言念無実」とならないよう、会員は「高森学徒常訓」の唱和をすべきでしょう。

我ら高森学徒は、常に珍しき法を弘める。親鸞聖人のみ教えに反する高森顕徹会長の教えを、我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり

これなら嘘になりません。

反論があれば、親鸞聖人のお言葉に基づいていつでもしてください。

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