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2012年4月19日 (木)

「善知識方は五正行を勧められている」は本当?

法然上人の著された『選択本願念仏集』の結論が三選の文です。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

おもうに、そもそも速やかに生死まよいの境界を離れようと思うならば、二種のすぐれた法の中で、まず聖道門をさしおいて浄土門に入れ。
浄土門に入ろうと思うならば、正雑二行の中で、まず雑行を捨てて選んで正行に帰せよ。
正行を修めようと思うならば、正助二業の中で、なお助業をかたわらにして選んで正定の業をもっぱらに修めよ。
正定の業とは、すなわち仏のみ名を称えることである。称名する者はかならず往生を得る。阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

聖道門を閣き、雑行を抛て、助業を傍らにして、正定の業である称名念仏1つを勧められた御文です。これを読んで、法然上人が雑行を勧められていると考えるなら、相当におかしい知能です。
もし雑行を勧められているなら、同じ理屈で聖道門も勧められていることになります。
さて、前回も紹介しましたが最近の親鸞会の詭弁が、

善知識方は五正行を勧められているから、善の勧めがない筈がない

ですが、「善知識方は五正行を勧められている」は本当ですか?
法然上人の三選の文を読めば判りますが、法然上人は雑行を勧められていない(もちろん聖道門も勧められていない)のと同様に助業も勧められてはいません。

『教行信証』は、親鸞聖人が『選択本願念仏集』を解説されたものと言われます。ところが『教行信証』には『選択本願念仏集』から御文の引用は1箇所しかありません。それがこの三選の文です。
つまり、親鸞聖人は法然上人の教えを凝縮されたこの三選の文を『教行信証』で解説された訳で、親鸞聖人も助業を勧められてはいません。実際に、助業を勧められた御文はありません。

覚如上人は、直接的にこの親鸞会の邪義を正しておられます。
『改邪鈔』には

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。

とあります。「〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」が、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり」とこれ以上ない表現で厳しく誡められています。その理由が「正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからず」、と正定業でさえも、自力の正定業は誡められているのに、ましてや自力の助業を勧めることが親鸞聖人の教えである筈がない、ということです。

もう一度、親鸞会の詭弁を見てみます。

善知識方は五正行を勧められているから、善の勧めがない筈がない

法然上人、親鸞聖人、覚如上人の仰せから、この詭弁の前半も後半も全部間違っています。しかし、

蓮如上人は五正行であるお勤めを勧められているではないか!

と親鸞会は愚かな反論するでしょうが、これについては『御一代記聞書』

のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

(現代語訳)

「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。
これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。
だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

とあります。お勤めを、獲信するための手段と考えている親鸞会の邪義を正しておられます。

親鸞会が尤もらしいことを言ったつもりでも、実は全て善知識方の仰せに反しているのです。
親鸞会がこれ以上恥をかかないためには、沈黙するに限るでしょう。

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コメント

結局の所、高森親鸞会は「善」あるいは「善の勧め」というフレーズで、全てを彼らの都合のいいように誤魔化しているのでしょう。

投稿: | 2012年4月20日 (金) 00時54分

助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 
一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし 
(高僧和讃66 善導讃)

投稿: 雑草 | 2012年4月20日 (金) 17時28分

名無し 様

全く、その通りだと思います。


雑草 様

この御和讃の意味を親鸞会の人は、全く理解していません。会長が理解していないのですから当然でしょうけど。

投稿: 飛雲 | 2012年4月22日 (日) 06時51分

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