« 超高学歴の幼稚思考の典型例 | トップページ | 小学生でもほぼ全員正解できる問題。しかし高森会長・講師部員・会員は間違える問題。 »

2012年4月 3日 (火)

法論するための基礎的な思考ができない

法論の申込み書は、3月19日に弘宣局長に届いていることを確認していますので、すでに2週間以上経過しています。メールでも送っています。しかし、未だに全く連絡はありません。最初からこうなることは判っていましたし、法論が実現すると予想されていた方もないのではないかと思います。

親鸞会において、法論は禁止なのです。勝てないことが判っているからです。

例の特専部員らしき人物の場合は、一般読者からの質問と思って、迂闊に法論に応じてしまったがために、困っているようです。未だに、小学生のような屁理屈を書き続けているのですが、あんな低レベルのことを書いていて恥ずかしくないのだろうかと思います。私は、多くの法論に関係してきましたが、親鸞会側の書いてくる内容は皆共通しています。国語の能力、論理的な思考が、著しく欠落していることです。それに、学歴は全く関係ありません。
結局、法論するための基礎的な思考が親鸞会の人間にはできないのです。

ですから、親鸞会の集金システムを支える19願の勧め、定散二善の勧めについて、論理的な説明は誰もできません。

しかし、親鸞聖人は19願、定散二善についての位置付けを明確になされています。
それが前回も紹介した『教行信証』化土巻・要門釈のお言葉

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

ですが、その根拠となるのが、親鸞会の好きな「浄土の方便の善根」です。もちろん親鸞会の言っている意味とは反対です。これは「欣慕浄土の善根」ということです。

欣慕浄土の善根」は、『教行信証』化土巻・隠顕釈に出てくるお言葉です。

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

釈尊が『観無量寿経』で定散二善を説かれたのは、浄土往生を願わせるためであったという善導大師の解釈に親鸞聖人は従われているのです。浄土を願っていない人に、浄土を願わせるのが目的である、ということで、先の要門釈と同様に、聖道門の人に浄土を願わせるために定散二善が説かれた、ということで、親鸞聖人の論理は一貫しています。

元の善導大師のお言葉は、『散善義』深心釈にあり、『教行信証』信巻にも引かれています。

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

(現代語訳)

また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

七深信の第三深信と呼ばれる部分です。
つまり、定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。もちろん19願も同じです。

では、定散二善は誰の為に説かれ、19願は誰の為に建てられたのでしょうか?

その答えを親鸞聖人が書いておられるのですから、中学生でも判る国語の問題でしょう。ところが、東大卒の人物でも親鸞会に入るとこんな簡単な問題の答えが判らなくなるのです。恐ろしい団体ですね。

|

« 超高学歴の幼稚思考の典型例 | トップページ | 小学生でもほぼ全員正解できる問題。しかし高森会長・講師部員・会員は間違える問題。 »

コメント

飛雲さんの仰る通り、親鸞会講師や幹部はほぼ全員、基礎的な思考力や国語力がありません。
もちろん社会で通用しません。
会員で会社勤めなどをしている人は、会社では常人の思考、仏法は超論理と使い分けている人も多いと思います。

投稿: | 2012年4月 4日 (水) 21時03分

彼らに議論はできないでしょう。国語力とかそういう風に言ってもいいのでしょうけど、根本的には、かれらが他者の言葉に耳を傾けない態度を身につけてしまっているせいで、法論はもちろん、議論一般ができないでしょうね。議論というのは、自分の主張する理路だけでなく相手の主張する理路も同時に理解する複眼的というか、複数視点の着眼が不可欠です。要するに、自分の言葉を用意すると同時並行して、他者の言葉をそのまま理解し咀嚼する態度がなければならないわけですが、それを親鸞会の人たちは放棄してしまっているのでしょうね。

ドストエフスキー研究などで有名なミハイル・バフチンの理論が昔流行りましたが、彼は対話と独話を対比していますね。対話には複数の話者の複数の声が含まれる反面、独話にはひとりの言葉しか含まれないわけですが、独話は独善につながります。その点、親鸞会の人たちの態度は極端に独話的ですね。かれらは高森会長の言葉をコピペして反復することを「法施」と称していますし普段使う言葉も極端に類似していますが、かれらは誰に対しても、自分の言葉を自分で聞くような、独話的な態度しか取れないのでしょう。たとえ高学歴で、自分(ら)自身の理路を固める術(詭弁術?)に長けたとしても、他者の声に対して開かれた態度を取れないのでは、議論以前にコミュニケートできませんから、こういうことになってしまうのでしょうね。まったく難儀なものです。信仰云々以前に、他人の話に耳を傾けるという人として基本的なことを思い出してもらいたいものですが。

投稿: dandelion | 2012年4月 4日 (水) 23時51分

未だに、小学生のような屁理屈を書き続けているのですが、あんな低レベルのことを書いていて恥ずかしくないのだろうかと思います。私は、多くの法論に関係してきましたが、親鸞会側の書いてくる内容は皆共通しています。国語の能力、論理的な思考が、著しく欠落していることです。それに、学歴は全く関係ありません。

飛雲様
まさかと思ってはいたのですが、本当に大変な国語力の低下に
驚きました。この団体に入ると、途端にこれまでうまかった短歌や
俳句が無味乾燥のものになると聞いているのです。また葉書などが
パターン化し、会話もオウム返しをする、読解力が無いない上、
我が身が賢いと信じこんでいると聞いておりました。恐ろしい事ですが、
上記の飛雲様のブログ内容の把握は出来ないまでに思考力は落ちて
いると思います。他のブログも見ましたが、無碍界裡からの覚醒云々など
は、間違いが多いという範疇に無く正解はどこか探さねばならない
有様でした。おそらく頭の中がめちゃくちゃになってしまったので
しょう。浄土真宗の言葉は一応使ってはいるようですが、それにしても
自己流解釈の塊であり、自分教の極めて珍しいものでした。更に珍しい
現象として奇異な言語を使い攻撃はしているが、何を批判しているのか
不明というものでした。団体の人間同士ならば理解出来るようですので
更に輪をかけて泥沼にはまり込む、他人の言葉を排除し頓珍漢な攻撃に
変える為、この団体は幼稚園以下と言われるのでしょう。

投稿: | 2012年4月 5日 (木) 08時46分

前の名無し 様

>会社では常人の思考、仏法は超論理と使い分けている人

こうであればよいですが、そうでない人は悲惨でしょうね。


dandelion 様

他人の意見に、素直に耳を傾ける姿勢がないのが、親鸞会です。
自分達が絶対に正しい、お前たちは何も知らない愚か者、という考え方しかできませんから、哀れな者です。


後の名無し 様

全くその通りでしょう。東大卒であろうが、幼稚園以下の思考です。

投稿: 飛雲 | 2012年4月 7日 (土) 10時36分

どうも以下の公約をしているようです。随分強気ですね。

親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。

投稿: | 2012年4月 7日 (土) 11時48分

「定散二善は実践させることに意味があるのではなく」という表現は修正した方がいいと思います。

親鸞会教義を想定しての文章ですから気持ちはわかりますが、これはまずいと思います。

投稿: おせっかい | 2012年9月22日 (土) 16時23分

おせっかい 様

仰りたいことは、高森邪義に基づくものと思いますが、このままで問題はないと思います。

親鸞聖人が、どう仰ったのかということです。

反論があれば、いつでもどうぞ。

投稿: 飛雲 | 2012年9月22日 (土) 20時12分

親鸞聖人は定散二善の実践が無意味だなんて仰っていませんよ。
飛雲さんも書いている通り、まず浄土往生を願わせる方便としての意義があります。
また、一旦は化土に往生させて、そこから報土へ転入させるための定散二善でもあります。
釈迦の教法には全て意味があるのです。
書きたいことはわかりますが、表現や言葉の選択に気を付けた方がいいかな、と思ってしまうところが多々あります。

投稿: おせっかい | 2012年9月23日 (日) 02時36分

>親鸞聖人は定散二善の実践が無意味だなんて仰っていませんよ。

飛雲さんも、定散二善の実践が無意味だなんて仰っていませんよ。

飛雲さんの書かれたことは
「定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。」
です。

>また、一旦は化土に往生させて、そこから報土へ転入させるための定散二善でもあります。

この考え方を親鸞聖人は否定されていますよね。飛雲さんも何度か書かれました。

>釈迦の教法には全て意味があるのです。

この意味を親鸞聖人は「欣慕浄土の善根」と仰り、飛雲さんは「浄土を願わせるための手段」と表現されました。

>書きたいことはわかりますが、表現や言葉の選択に気を付けた方がいいかな、と思ってしまうところが多々あります。

おせっかいさんに、そっくりそのまま返す言葉ですね。

投稿: 口挟み | 2012年9月23日 (日) 02時57分

口挟みさんへ

無知な横槍ですね。

「定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです」

ではなく、

定散二善を実践させるところそれ自体に、浄土を願わせるための手段という意味があるのです。

そこには第十八願の念仏往生へ導く狙いがあり、

今生で自力を離れることができなかった者は、とりあえず化土に往生させそこでその自惚れ心を悔悛するよう導き、最終的に仏智の不思議を受け入れさせるのです。

ブログなどを何となく読んでいるだけで知ったかをしているあなたには口を挟む資格のない議論です。

投稿: おせっかい | 2012年9月23日 (日) 06時07分

おせっかい 様

どうも意図が伝わっていないようで、
「定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです」
です。

法然上人は、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く

諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。

とまで仰っています。
それで聖道門の学僧が激怒した訳です。
「諸行を実践することは無意味だと言うのか」

それに対して親鸞聖人は法然上人の教えを継承されて、念仏と諸善とを比較し、相対して論じられています。

難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。


これを踏まえた上で、隠顕釈をもって、聖道門に説明されているのです。
定散二善は、浄土の方便の善、欣慕浄土の善根であると。

勿論、方便に留まってしまう人もいる訳で、そんな人にも方便の利益が与えられるのですが、親鸞聖人は方便に留まることを厳しく誡めておられます。誡疑讃を読まれれば明らかですが、『唯信鈔文意』にも

三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

とあります。
親鸞聖人が諸善の実践を肯定された箇所はありません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月23日 (日) 06時17分

あえて言えば、

「定散二善を実践させるところそれ自体に、浄土を願わせるための手段という意味があるのです。」

ではなく

「定散二善を説かれたことそれ自体に、浄土を願わせるための手段という意味があるのです。」

でしょうね。

実践するかどうかの問題ではありません。

投稿: 飛雲 | 2012年9月23日 (日) 06時27分

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

【定散二善を説きて】

わかりますか?

【定散二善を説きて】です。
【定散二善を行じさせて】ではありません。

これをそのまま言いかえれば、飛雲さんの仰る通り

「定散二善を説かれたことそれ自体に、浄土を願わせるための手段という意味があるのです。」

ですし、元の

「定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。」

で何ら問題ありません。

実践にこだわる、ところが高森邪義に毒されていると言われる所以です。

反論があるなら、

【定散二善を行じさせて欣慕せしむ】

という根拠を出すべきでしょう。

なければ、あなたの勝手な妄想であった、ということです。

投稿: 口挟み | 2012年9月23日 (日) 06時53分

口挟みさんへ

あなたはどうでもいいです。

文章の書き方や言葉の使い方に鈍感なところを見ると高卒かそれ同等の学歴なのでしょう。

教学力もないです。


飛雲氏へ

「定散二善を説いて浄土を願わせること」と「定散二善を実践させて浄土を願わせること」は別々のことではありません。

また、親鸞聖人が方便が誡められていることは、善の実践は無意味だと仰っているわけではありません。

親鸞会の邪義を批判することを通り越してエスカレートすると、あなたもまた邪義をまき散らすことになりますよ。

投稿: おせっかい | 2012年9月23日 (日) 14時13分

おせっかい 様

口挟みさんの言われていることも、私の言っている意図も全く伝わらないようですし、しかも根拠もなく教学的な議論にはなりませんので、
御忠告があったことだけ心に留めておきます。

投稿: 飛雲 | 2012年9月23日 (日) 17時44分

前回のコメント

>反論があるなら、

>【定散二善を行じさせて欣慕せしむ】

>という根拠を出すべきでしょう。

>なければ、あなたの勝手な妄想であった、ということです。


根拠を出すことができませんでしたので、妄想であった。

以上です。

投稿: 口挟み | 2012年9月23日 (日) 18時44分

飛雲氏へ

自説の教学的根拠を出す云々ではないのですよ。

共有している根拠の解釈を問題にしているのです。

要門とは聖道門の者たちが入聖得果のために修めている善を浄土往生のために回向させる法門です。

この観経往生では報土に生まれることはできませんが、化土往生がかなうのは善の実践が役立ってのことです。

定散二善を実践させることに意味が無いと言うならば、あなたは化土往生を否定していることになりますよ。

文脈を斟酌されてそのように取られなかったとしても、「意味が無い」という表現は使うべきではないのです。

また、もう一度言いますが、

釈迦は要門を説き、まず浄土を欣慕させることによって念仏へ近づけんとされているわけですが、行者の側から言えば要門に従って定散善を実践しているすがたが要門の機です。

欣慕浄土させるために要門を説くということは、欣慕浄土させるために定散二善を実践させることなのです。

定散二善を実践していることがそのまま欣慕浄土していることなのです。

>定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。

文脈を考慮しないわけではありませんが、不適切な文章表現であることはまちがいありません。

>御忠告があったことだけ心に留めておきます。

自分の都合が悪くなったら議論から逃亡する、それではあなたも親鸞会と同じ気質なのではないですか?

投稿: おせっかい | 2012年9月24日 (月) 04時21分

おせっかい 様

何度も同じことを言わせないで下さい。

投稿: 飛雲 | 2012年9月24日 (月) 06時51分

まさに「法論するための基礎的な思考ができない」ですな。

投稿: 口挟み | 2012年9月24日 (月) 07時48分

飛雲さんの表現
「定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。」

これをおせっかいさんは、
>定散二善を実践させることに意味が無いと言うならば、あなたは化土往生を否定していることになりますよ。

>文脈を斟酌されてそのように取られなかったとしても、「意味が無い」という表現は使うべきではないのです。

と「定散二善を実践させることに意味が無い」、さらには「化土往生を否定している」と理解しているようです。
国語力に問題が大いにあるか、相手の主張を故意に捻じ曲げて自説を正しいと錯覚させる論法ですね。

投稿: | 2012年9月24日 (月) 08時22分

皆さま

おせっかいさんと議論は、教義上の問題ではなく、表現とそれを受け取る側の問題ですので、これ以上議論することは、不要と考えます。
化土往生自体を否定するなど、私のブログを読んでいない人の発言でしょうし、全くナンセンスなので、これ以上このことについてのコメントはしないでください。
今後関連したコメントは削除します。

投稿: 飛雲 | 2012年9月24日 (月) 08時41分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 超高学歴の幼稚思考の典型例 | トップページ | 小学生でもほぼ全員正解できる問題。しかし高森会長・講師部員・会員は間違える問題。 »