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2012年4月

2012年4月29日 (日)

信罪福心が少しでもあるなら、会員は「高森学徒常訓」の唱和を

親鸞会の会員、もしくは会員だった人なら誰でも知っているのが、「親鸞学徒常訓」です。

我ら親鸞学徒は、更に珍しき法をも弘めず。親鸞聖人のみ教えを、我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり

実に滑稽です。高森顕徹なる人物の説く教えは、親鸞聖人の教えとは全く異なる極めて珍しき法であることが明白であるからです。その代表として、当ブログで以下の10項目を親鸞会に提示し、法論まで申し込みながら、何一つ反論できないのですから、高森会長も親鸞会も珍しき法と分かっているのです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

お粗末を通り越して、実に哀れです。これで親鸞聖人の教えられた通りに説いていると本気で思いこんでいたところもある高森顕徹会長の愚かさも哀れなら、高森会長の言っていることが間違っていることに気が付きながら、親鸞会を離れることのできない講師部員・幹部会員の不遇は、更に哀れです。

信罪福心を出さないと雑行が捨てられないとか、訳の分からない詭弁を最近は言ったりしているそうですが、珍しき法以外の何物でもありません。

雑行についてまとめておきます。
『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この
要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。

のこの部分は、他の御著書でも同じことを親鸞聖人は仰っています。

『愚禿鈔』には

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。

とあります。
また『教行信証』化土巻・雑行釈にも

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
(中略)
おほよそ
浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」といひ、導和尚(善導)は「雑行」と称す。感禅師(懐感)は「諸行」といへり。

とあります。
『一念多念証文』において、同じ意味で言い換えられた言葉を挙げておきます。

浄土の方便の善
要門
仮門
定散二善
浄土方便の要門

これに異義を唱える人はないでしょう。
次に『愚禿鈔』を見ると、

定散の諸善
雑行
発願の行
回心の行
浄土の雑行
浄土の方便仮門
浄土の要門

が同じ意味の言い換えです。
同様に『教行信証』化土巻・雑行釈では、

回心回向の善
浄土の雑行
浄土の一切諸行

万行
雑行
諸行

です。この3つの御著書を比べてみれば判りますが、すべて同じ意味の雑行です。
つまり、

浄土の方便の善
=要門
=定散二善
=雑行

にしかなりません。
雑行は捨てるものであって、立てるものでないことは、真宗のどの聖教にも書かれてある超常識です。
ならば、浄土の方便の善、19願、定散二善を勧めることは真宗ではあり得ないと小学生でも理解できるでしょう。

ただ、

ならば阿弥陀仏の19願と釈尊の説かれた善の勧めは無駄であったと言うのか

と歴代の善知識方をおろそかに思い、そして謗る謗法の輩がいますので、親鸞聖人はそれに対する答えも用意されているのです。それが先程の化土巻・雑行釈の次にあるお言葉です。

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)に励んでも化土往生しかできないが、そんな雑行を説かれたのは、欣慕のためである、ということです。

同じことを『教行信証』化土巻・隠顕釈に、

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と教えられています。
雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)は、欣慕浄土の善根なのです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるためのものである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。

善人である聖道門の人には、浄土の方便の善である19願、定散二善が浄土を願わせる欣慕浄土のために必要ですが、善のできない悪人には19願、定散二善という方便は最初から最後まで必要ないのです。

信罪福心が少しでもあるなら、「心口各異言念無実」とならないよう、会員は「高森学徒常訓」の唱和をすべきでしょう。

我ら高森学徒は、常に珍しき法を弘める。親鸞聖人のみ教えに反する高森顕徹会長の教えを、我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり

これなら嘘になりません。

反論があれば、親鸞聖人のお言葉に基づいていつでもしてください。

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2012年4月25日 (水)

親鸞会は、真実の経典でも邪義、異訳経でも邪義、親鸞聖人の仰せでも邪義

弘宣局長に法論を申し込んで1カ月以上経過しました。特専部員らしき人物のブログも更新が止まりました。

法論をして、沈黙した方が負け

これが親鸞会式法論の勝敗ルールです。また

法論を申し込んでも、応じない方が負け

というものもあります。
これまで当ブログは、高森会長、講師部員、特専部員、幹部会員との法論に関わってきて、すべて、親鸞会側が沈黙しています。更には、親鸞会に法論を申し込んでも、無視されています。

つまり、親鸞会のルールによって、親鸞会の全戦全敗が確定しています。

いつも言いますが、これは私を含めた退会者が優秀ということではなく、高森会長を含めた親鸞会が余りにもお粗末過ぎるだけのことです。なぜなら、退会者は退会を決意してから、仕事の片手間に教学を学んだに過ぎないのですから、60年間も布教一筋の高森会長とは、時間も環境も雲泥の差があるからです。結局、高森会長は60年間、真宗の勉強を何もしていないことを自ら証明しただけです。

さて、親鸞聖人は、真実の教を『大無量寿経』とされましたが、『大無量寿経』の異訳経を頻繁に引かれて、『大無量寿経』の解釈をなされています。つまり、『大無量寿経』だけでは、解釈を誤る可能性があると親鸞聖人は見ておられたということです。
それで前回のエントリーで『平等覚経』『大阿弥陀経』を親鸞聖人が行巻に引かれていることを紹介しました。

ところが親鸞会は、

親鸞聖人は『大無量寿経』が真実の経典であると仰っているから、異訳経に何が書かれてあっても、『大無量寿経』が優先だ!

と、間の抜けたことをいいます。親鸞聖人が異訳経を至る所で引いておられることを何も知らないのですから、お目出度い限りです。
18願の「十方衆生」は「唯除五逆誹謗正法」と一対で、対機から洩れる者のないことを表現されていると、親鸞聖人が仰ったことを、前回述べました。
では19願の「十方衆生」についてはどうかといえば、「唯除五逆誹謗正法」がないのですから、洩れている者があるということです。これは、異訳経を出さなくても、明白な事実です。親鸞聖人が、そう仰っているのですから、異訳経云々以前の問題です。
ただし、それでも屁理屈を言い続ける親鸞会のために、参考として異訳経の『平等覚経』『大阿弥陀経』を見れば、その事実がより一層明白になるだけのことです。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

『平等覚経』『大阿弥陀経』に共通する「作菩薩道」は、そのまま『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と直結します。外道から聖道門に入って聖道門の修行(菩薩道)をなしても、さとりの開けない人のために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、との仰せです。

菩薩道の歩めない悪人に、19願が関係あるという親鸞会の邪義を、真実の教である『大無量寿経』でも、異訳経でも、親鸞聖人の仰せである要門釈でも、論破されているのです。

法然上人の仰せをまとめられた『西方指南抄』(親鸞聖人御真蹟)には

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあります。「諸行之人」です。悪人のことではありません。

無教学の親鸞会がどんなに頑張ってみたところで、親鸞会の邪義は邪義としか証明されないのです。

ほんの少し勉強すれば、この程度のことは容易に判ることですが、高森会長はほんの少しも勉強していないから判らないのです。

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2012年4月22日 (日)

「十方衆生」の意味

親鸞会理論”善の勧め”の最大の根拠が、19願の「十方衆生」です。高森会長は、

「十方衆生」とあるから、すべての人のことだ

という単純な理屈で説明しています。会員を騙すには都合のいいお言葉と考えているのでしょう。

しかし「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

これを親鸞会ではどう釈明するのか一度聞いてみたいです。

結局のところ、たとえ「十方衆生」に呼びかけられたとしても、全人類に関係するものと関係しないものがあるということです。

そこで親鸞聖人が注目されたのは、「十方衆生」ではなく、18願の「唯除五逆誹謗正法」だったのです。それが『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。

この内容が、親鸞会大惨敗のmixi法論の中心でした。

『大無量寿経』の18願は、異訳の経典を参照することで、親鸞聖人の仰った意味がよりはっきりします。

親鸞聖人が『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介されています。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

ここに紹介されている『大阿弥陀経』と『平等覚経』の御文は、共に、前半が『大無量寿経』の17願で、後半が『大無量寿経』の18願にあたります。
『大無量寿経』18願の「十方衆生」について『大阿弥陀経』では

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類

であり、『平等覚経』では

諸天・人民・蠕動の類

と表現されています。人間だけではなく、虫までが含まれています。親鸞聖人が『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介された理由の1つが、『大無量寿経』18願の「十方衆生」の御心を明らかにすることであったのです。生命のあるもので、洩れているものは皆無なのです。

一方で、聖道門の学僧が18願をどのような願と見做していたのかを知らないと、親鸞聖人の御心が理解できないと思います。法然門下を弾圧する直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあります。「下機を誘ふるの方便なり」とは、悪人を仏法に誘う方便ということです。念仏往生の願である18願が真実などとは全く思っていないのです。
また法然上人がお亡くなりになられた後、明恵高弁が書いた『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあります。法然上人の教えられた念仏往生の願とは、「下劣根機の為」であって、「天下の諸人」のためのものではない、という考えです。
つまり、18願は悪人を仏法に導くための方便の願であり、善人には関係ない願であるということです。
悪人は、

18願 ⇒ 19願 ⇒ 聖道門

という道程を通ると聖道門では考えていたのです。もちろん善人である自分達が18願から始めるなどという発想は、聖道門の人にはありませんでした。

これを逆手に取られたのが、親鸞聖人の三願転入なのです。
善人は、

聖道門 ⇒ 19願 ⇒ 18願

という道程があり、善人のために聖道門、19願という方便の教えが説かれているということです。悪人や18願をすでに信じている人が、聖道門や19願から始めるという理屈も、根本的におかしな話です。

親鸞聖人は、18願はどんな悪人でも洩れることなく救われることを『教行信証』信巻で明らかにされ、化土巻で聖道門の考えの誤りを正されます。

その結論が、『教行信証』化土巻・要門釈

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。「極重悪人」には18願しか救われる手立てのないことは既に、親鸞聖人は説明済みですが、善人である「定散の諸機」も結局は「極重悪人」同様、18願しかないのだ、と仰ったお言葉です。
その証明として、親鸞聖人御自身の体験を三願転入として述べられたのです。

親鸞聖人は、18願の「十方衆生」はどんな悪人も洩れなく救われるだけでなく、どんな善人も18願によらなけば救われない、という善人悪人関係なく救われる18願の説明に終始されたのが、『教行信証』です。
『教行信証』を書かれた目的が、法然上人の『選択本願念仏集』の正しさを立証するというためでありましたので、至極当然なことです。

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2012年4月19日 (木)

「善知識方は五正行を勧められている」は本当?

法然上人の著された『選択本願念仏集』の結論が三選の文です。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

おもうに、そもそも速やかに生死まよいの境界を離れようと思うならば、二種のすぐれた法の中で、まず聖道門をさしおいて浄土門に入れ。
浄土門に入ろうと思うならば、正雑二行の中で、まず雑行を捨てて選んで正行に帰せよ。
正行を修めようと思うならば、正助二業の中で、なお助業をかたわらにして選んで正定の業をもっぱらに修めよ。
正定の業とは、すなわち仏のみ名を称えることである。称名する者はかならず往生を得る。阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

聖道門を閣き、雑行を抛て、助業を傍らにして、正定の業である称名念仏1つを勧められた御文です。これを読んで、法然上人が雑行を勧められていると考えるなら、相当におかしい知能です。
もし雑行を勧められているなら、同じ理屈で聖道門も勧められていることになります。
さて、前回も紹介しましたが最近の親鸞会の詭弁が、

善知識方は五正行を勧められているから、善の勧めがない筈がない

ですが、「善知識方は五正行を勧められている」は本当ですか?
法然上人の三選の文を読めば判りますが、法然上人は雑行を勧められていない(もちろん聖道門も勧められていない)のと同様に助業も勧められてはいません。

『教行信証』は、親鸞聖人が『選択本願念仏集』を解説されたものと言われます。ところが『教行信証』には『選択本願念仏集』から御文の引用は1箇所しかありません。それがこの三選の文です。
つまり、親鸞聖人は法然上人の教えを凝縮されたこの三選の文を『教行信証』で解説された訳で、親鸞聖人も助業を勧められてはいません。実際に、助業を勧められた御文はありません。

覚如上人は、直接的にこの親鸞会の邪義を正しておられます。
『改邪鈔』には

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。

とあります。「〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」が、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり」とこれ以上ない表現で厳しく誡められています。その理由が「正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからず」、と正定業でさえも、自力の正定業は誡められているのに、ましてや自力の助業を勧めることが親鸞聖人の教えである筈がない、ということです。

もう一度、親鸞会の詭弁を見てみます。

善知識方は五正行を勧められているから、善の勧めがない筈がない

法然上人、親鸞聖人、覚如上人の仰せから、この詭弁の前半も後半も全部間違っています。しかし、

蓮如上人は五正行であるお勤めを勧められているではないか!

と親鸞会は愚かな反論するでしょうが、これについては『御一代記聞書』

のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

(現代語訳)

「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。
これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。
だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

とあります。お勤めを、獲信するための手段と考えている親鸞会の邪義を正しておられます。

親鸞会が尤もらしいことを言ったつもりでも、実は全て善知識方の仰せに反しているのです。
親鸞会がこれ以上恥をかかないためには、沈黙するに限るでしょう。

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2012年4月15日 (日)

昔も今も雑行・正行の分別もなく

現会員と話をすると詭弁が面白いです。善の勧めについても、新たなものを考え出したようです。

善知識方は五正行を勧められているから、善の勧めがない筈がない

これに納得してしまうようでは、情けないです。

諸善万行は雑行と高森会長も教えていますが、正行の勧めがなぜ雑行の勧めになるのですか?

とでも言い返せばよいでしょう。
正行と雑行については『散善義』にありますが、それを『教行信証』化土巻に引かれています。

次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、これを正行と名づく。なにものかこれや。
一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。
一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。
もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。
もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。
もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。
これを名づけて正とす。
またこの正のなかについて、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるは、すなはち名づけて助業とす。
この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。

(現代語訳)

次に、行について信を立てるのにあたって、行には二種がある。一つには正行であり、二つには雑行である。正行とは、もっぱら浄土の経典に説かれている行を修めることをいうのである。それはどのようなことであろうか。
一つには読誦、すなわち一心にもっぱら『観無量寿経』・『阿弥陀経』・『無量寿経』などを読誦することである。
二つには観察、すなわち一心にもっぱら浄土や仏および聖者たちに心を集中し、よく観察して、思い続けることである。
三つには礼拝、すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏を礼拝することである。
四つには称名、すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を称えることである。
五つには讃嘆供養、すなわち一心にもっぱら阿弥陀仏をほめたたえ供養することである。
この五つを正行というのである。
また、この正行の中に二種がある。一つには、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときでも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。礼拝や読誦などは助業という。
この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。

解説するまでもないことでしょうが、高森会長の本を読み、高森会長を心にかけて、高森会長を崇め、事ある毎に高森会長の名を言い、高森会長を褒め称えて、高森会長と親鸞会にお金を出すことが正行である訳がないです。

前回述べたように、19願も定散二善も間違いなく雑行です。雑行は捨てものであり、雑行を勧める御文は、親鸞聖人の教えには全くありません。
親鸞会が強く勧めている19願・定散二善の雑行を正当化させるために、雑行と正行とをすり替える詭弁です。蓮如上人は『御文章』1帖目第1通

むかしは雑行・正行の分別もなく

と仰っていますが、正に高森会長と親鸞会のことではありませんか。

似たような詭弁で、

真宗では聴聞を勧められているから、善の勧めがあるではないか。

とも言います。
これも真顔でいうのですが、

聴聞が雑行ですか?

無茶苦茶な理屈です。
無知の上に厚顔無恥では、どうしようもないです。

現会員、元会員は、高森会長のカリスマ性を言うことがありますが、どこにカリスマ性がある、あるいはあったのか、冷静に考えてみてください。
一般的にカリスマ性とは、指導者に他の人にはないオーラのようなものがある、とか飛び抜けた能力を持っていることに対して、感じるものです。
では高森会長にそれらはありますか?
外見からは何も感じません。超能力がある訳でもありません。敢えていうなら、教学において、他の追随を全く許さない、という能力です、いや、でした。
ところが、その抜群の教学は大嘘でした。正行と雑行の区別さえつかないのです。
大沼師の著書を、間違った部分までそのままパクリ、聖教を全く読んでいない無教学が白日の下に晒されてしまったのです。つまり、高森会長のカリスマ性は何もないのです。

高森会長がどんな人物か、一般の講師部員でさえ知りません。直接言葉を交わすことが、全体の講義以外にはないからです。カリスマ性があるという伝聞によって作られたカリスマ性です。現会員は、砂上の楼閣よりも脆い高森会長の虚像に縋っているだけです。

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2012年4月12日 (木)

論理的思考、論文である『教行信証』の読み方

特専部員らしき人物のブログは、未だに続いていて、当ブログの読者の皆さんも心底呆れております。
エントリーの内容は、ここで紹介するまでもない、実に低レベルの話ですが、論文の読み方、論理的な思考について参考になるコメントがありますので、それを紹介しておきます。論文と言ってもここでは『教行信証』のことです。

論理的思考のできない貴方に、少しだけ教えてあげます。

要門釈が、総論ですね。ここに、要門の役割が述べられています。そこには、貴方も認めた
「19願は聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるために建てられた」
と明記してあります。
それともう1つあります。それは
「19願の益として、化土往生する」
ということです。
馬鹿の1つ覚えで言っている
「弥陀19願には聖道門の人を浄土門に導く働きしかないのだ」
が私の主張と違うと言っているのはこのことです。
そして要門釈の結論が、
「己の能力を良く考えて、19願を捨てて、18願に帰しなさい。」
です。これを
「弥陀19願で勧められた善を実践しないうちにやめて」
と私の主張を故意に曲解していますが、実践する前の人にも後の人にも関係ないことは、小学生でも分かるでしょう。

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この要門釈には、19願及び19願の実践を勧められた文は皆無です。
貴方が改竄捏造した「実践して」は、文底秘沈の考えと同じです。

要門釈の後に、各論が展開されるのですが、この総論に沿った内容しか仰っていないのは、当然の当然です。総論と各論が違っているのを矛盾と言うのです。親鸞聖人の教えに矛盾はありません。

ところが破滅思考の貴方は、総論が序の口と各論の中にある更に重箱の隅の一文が主論と平気で言う訳です。

********************************

重箱の隅をつつく話でいうなら、

和食として提供されて、重箱に和食が入っているのに、勝手に洋食と思いこんで、「これは和食である筈がない、どこかに洋食が1つでもあれば、これは和食ではなく洋食になるんだ」と意気込んでいるような愚か者なんだよ、坊や。
そして重箱の隅に、小さな肉の欠片を見つけて、「ここにステーキがあるから、この料理は洋食だ」と叫んでいるのが、坊やの姿。分かる?
「その肉片はステーキじゃないの」と教えてあげると、「じゃあこの肉は牛肉か、豚肉か、羊肉か、鶏肉かどれだ、その見分け方は何だ?」とまだ、間抜けな質問をしても、恥の上塗りをするだけ。

19願については『教行信証』化土巻で説明されているのですが、その概要は要門釈と言われる部分で教えられています。

簡単に言えば

・19願及び『観無量寿経』の定散二善は、聖道門を断念した人を浄土門に導くためのもの。
・19願を実践しても、化土往生しかできない。
・定散諸機も自分の能力をよく弁えて、極重の悪人同様、他力念仏18願1つに帰しなさい。

ということです。要門釈の後にも、19願及び定散二善の説明をなされていますが、それは要門釈の内容に沿ったものであることは、論理的に考えれば、判りそうなものです。しかし、要門釈以外のところで

「19願及び定散二善を勧められた御文があるから、親鸞聖人は19願及び定散二善を勧められた」

と声高に叫ぶのが、親鸞会の面々ですが、それが重箱の譬えになる訳です。
親鸞聖人は要門釈で「重箱の中身は和食」と仰っているのに、重箱の隅をつついて料理の欠片を探し回って「ここに洋食の品があったから、これは洋食だ」と叫んでいるのと同じなのです。
重箱の中身は和食」であるなら、その欠片も「和食の欠片」と判断するのが当然です。

事実、化土巻も含めて、親鸞聖人の御著書に「19願及び定散二善を勧められた御文」はありません。あるように錯覚しているだけのことですから、その解釈の間違いを指摘すれば、簡単に引き下がります。

さて、19願及び定散二善とは何でしょうか?

それは『教行信証』化土巻・雑行釈

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

と親鸞聖人は雑行の説明をされています。

横出」については『教行信証』信巻・横超釈とあります。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

(現代語訳)

また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。

つまり、

雑行=定散二善・19願

です。

雑行は”捨てよ”であって、雑行を”せよ”ではありません。
当たり前のことです。

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2012年4月 7日 (土)

小学生でもほぼ全員正解できる問題。しかし高森会長・講師部員・会員は間違える問題。

偽装本願寺布教師のブログは、「無眼人」「無耳人」の意味を教えて差し上げたら、更新が止まってしまいました。
しかし特専部員らしき人物は、未だに見苦しい誤魔化しをブログに書いています。親鸞会の構成員は、超選民思想の持ち主で、プライドだけは超一流です。でも知能は…。
コメントで小学6年生でも捻くれ者以外は全員正解できる問題を、東大卒で信大医学部卒の幼稚な人に示しています。

(問題)
次の文章は、法然上人と、法然門下を弾圧した聖道門、それに反論された親鸞聖人との関係をまとめたものである。これを読んで、問に答えよ。

法然上人「定散二善は、念仏を引き立てるために説かれたもので、捨てるべきもの。
     念仏往生の18願だけが真実である。」

聖道門の僧「下劣の衆生を仏法に引き入れるための方便の18願が真実とは何事か。
      大事な19願を隠しているとはけしからん。
      19願は浄土門の人にこそ誓われた誓願ではないか。」

親鸞聖人「19願は、定散二善のできる人のための願。
     つまり聖道門を断念した人を浄土門に導くための願。
     しかし、自分の能力をよくよく考えてみなさい。
     19願が実践できるのか?
     龍樹菩薩・天親菩薩でさえ最後は18願に帰された。
     浄土門に入った人は、方便19願を捨てて真実18願に帰しなさい。」

聖道門の僧「……」

親鸞聖人の19願に対するお考えを表現した次の文章の( )に当てはまる言葉を選べ。

≪19願は( )門の人にこそ誓われた誓願≫

1.浄土
2.聖道

参考:小学6年生正解率99%

これで、真面目に考えてを選択するようなら、日本語がよく理解できない外国人か、小学校低学年以下の知能でしょう。この特専部員らしき人物は、元はを選択していて、ここまで言われて、しぶしぶ、認めざるを得なくなりました。

もちろん、それぞれの主張には元の根拠がありますので、一応示しておきます。

法然上人
『選択本願念仏集』

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

法然門下を弾圧した聖道門の学僧
『興福寺奏状』

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。
(中略)
善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

『摧邪輪』

しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

親鸞聖人
『浄土和讃』大経讃

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
(中略)
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

親鸞聖人の仰っていることには、背景があり、理由があるのです。日本語の使い方、歴史的な背景も何も知らないと、大恥を書くだけです。

当たり前のことですが、親鸞聖人の仰せは、19願を捨てよ、です。

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2012年4月 3日 (火)

法論するための基礎的な思考ができない

法論の申込み書は、3月19日に弘宣局長に届いていることを確認していますので、すでに2週間以上経過しています。メールでも送っています。しかし、未だに全く連絡はありません。最初からこうなることは判っていましたし、法論が実現すると予想されていた方もないのではないかと思います。

親鸞会において、法論は禁止なのです。勝てないことが判っているからです。

例の特専部員らしき人物の場合は、一般読者からの質問と思って、迂闊に法論に応じてしまったがために、困っているようです。未だに、小学生のような屁理屈を書き続けているのですが、あんな低レベルのことを書いていて恥ずかしくないのだろうかと思います。私は、多くの法論に関係してきましたが、親鸞会側の書いてくる内容は皆共通しています。国語の能力、論理的な思考が、著しく欠落していることです。それに、学歴は全く関係ありません。
結局、法論するための基礎的な思考が親鸞会の人間にはできないのです。

ですから、親鸞会の集金システムを支える19願の勧め、定散二善の勧めについて、論理的な説明は誰もできません。

しかし、親鸞聖人は19願、定散二善についての位置付けを明確になされています。
それが前回も紹介した『教行信証』化土巻・要門釈のお言葉

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

ですが、その根拠となるのが、親鸞会の好きな「浄土の方便の善根」です。もちろん親鸞会の言っている意味とは反対です。これは「欣慕浄土の善根」ということです。

欣慕浄土の善根」は、『教行信証』化土巻・隠顕釈に出てくるお言葉です。

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

釈尊が『観無量寿経』で定散二善を説かれたのは、浄土往生を願わせるためであったという善導大師の解釈に親鸞聖人は従われているのです。浄土を願っていない人に、浄土を願わせるのが目的である、ということで、先の要門釈と同様に、聖道門の人に浄土を願わせるために定散二善が説かれた、ということで、親鸞聖人の論理は一貫しています。

元の善導大師のお言葉は、『散善義』深心釈にあり、『教行信証』信巻にも引かれています。

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

(現代語訳)

また、釈尊は『観無量寿経』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定善・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

七深信の第三深信と呼ばれる部分です。
つまり、定散二善は実践させることに意味があるのではなく、浄土を願わせるための手段に過ぎないのです。もちろん19願も同じです。

では、定散二善は誰の為に説かれ、19願は誰の為に建てられたのでしょうか?

その答えを親鸞聖人が書いておられるのですから、中学生でも判る国語の問題でしょう。ところが、東大卒の人物でも親鸞会に入るとこんな簡単な問題の答えが判らなくなるのです。恐ろしい団体ですね。

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2012年4月 1日 (日)

超高学歴の幼稚思考の典型例

特専部員らしき人物の書いているブログがあります。高森邪義を書いているのですが、それに反論された方が、コメント欄で教えてくださいました。

内容は定散二善、19願についてのことです。高森邪義について

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

と親鸞会にも提示してきました。この5番目までは説明をしてきましたので、次の6番目ですが、7番目についても重なる内容ですし、この特専部員らしき人物のブログとも関係しますので、まとめて説明します。

このコメントされた方の主張は明快です。

1.親鸞聖人は、19願及び定散二善を、聖道門を断念した人を浄土門に導くためのものだと教えられている。

2.聖道門を断念して19願及び定散二善を実践する人のことを定散諸機といわれる。

3.定散諸機と逆悪の機は別である。

4.法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、逆悪の機の立場で教えを説かれ、逆悪の機には19願及び定散二善は無関係であると仰った。

特専部員らしき人物は、プライドだけは相当に高いようで、間違いを指摘されても詭弁で誤魔化すのみです。親鸞会講師部員・幹部会員にも共通する、超エリート意識があるのでしょう。
しかし、やはり根拠は全く出せません。ないのですから、当たり前です。
超高学歴の幼稚思考の典型例です。
丁度2年前にmixi上で法論した内容と同じですので、親鸞会側がどんなに足掻いても、法論に勝つことはできないです。

この方の言われる

1.親鸞聖人は、19願及び定散二善を、聖道門を断念した人を浄土門に導くためのものだと教えられている。

ですが、これは『教行信証』化土巻・要門釈のお言葉で、mixiでこうへい氏が大恥をかいた根拠です。

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。
偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

(現代語訳)

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

です。
19願と定散二善は、前半を読まれれば判る通り、「半満・権実の法門」つまり聖道門の修行に行き詰まった人を導くためのものであると親鸞聖人ははっきり仰っています。
ところが、昨年3月号の『顕真』ではこれを次のように曲解していました。

苦悩が絶えず、迷い深き人類は、数知れぬ外道邪教を逃れて、ようやく仏教にたどり着いても、因果の道理を信じて光に向かう者は、ほとんどなく無きに等しい。
内心は、みな外道に汚染され、善の勧めさえ非難する輩ばかりである。
悲しいこの人間の実態を見られた釈迦は、阿弥陀仏の十九願(福徳蔵)を『観無量寿経』一巻に集中して説き明かし、十方衆生にすべての善を勧められ、なんとか阿弥陀仏の十八願(絶対の幸福)まで導かんとご苦労なされたのである。

2年前は無知で、こうへい氏は間違えたのですが、1年前はmixiでの大惨敗の経験から、トンデモ曲解をしたのです。
専門的になりますが、一応「半満・権実の法門」について解説しておきます。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。大乗教聖道門の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」の「」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

仏語の意味も知らない、古文の文法も知らない集団には、難しすぎる話であると思います。

なお、当ブログを勉強されて、講師部員に法論を申し込まれる方が時々ありますが、討論に相当の自信がなければ、直接会っての法論は避けられた方が賢明です。講師部員は、詭弁に関しては一流ですから、詭弁に即答できず、言い負かされることもあるようです。
もし法論をされるのであれば、メールやブログ等の文章でやり取りされることをお勧めします。詭弁は、落ち着いて考えれば、論破することは難しくないです。

法論をして反論に困るようなことがあれば、仰ってください。私が反論文を考えますので。

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